公平な医療
「おじいちゃん、死んじゃうの?」
診察室が静かになった。患者の娘にあたる女性は黙っていた。
六歳くらいの男の子が不安そうにこちらを見ていて、僕は思わずその視線から目を逸らした。
中村昭夫、八十歳。大腸癌。肝転移あり。
現時点で治療を諦める段階ではない。手術も薬物療法も選択肢として残っている。ただ、寛解という言葉を使ってよい状況かと問われれば、僕は少し言葉を選ばなければならなかった。
腫瘍の分子解析も終わっている。薬剤への反応予測も出ている。手術と薬物療法を組み合わせることで、病勢を抑え、長期生存を目指せる可能性は残されている。ただ、それは癌が消えることを意味しない。治療を続けながら寿命を迎えるのか、癌の再発や進行が先に来るのか、その境目を今の医学で正確に予測することはできない。
「治療はできます。ただ、寛解まで持っていけるかとなると、かなり厳しいでしょう」
そういうと、中村氏はふぅと一息ついた。
「正確な治療金額はわかりませんが、一般成人の公的医療資源の審査はC……対象外です」
「どうして?」
患者の娘が言った。子どもの手を握りながら、絞り出すような声だった。
「大きく五つです。治療効果や予後などの医学的評価、治療費や人員などの医療資源負担、これまでの社会や経済への貢献、文化の維持や継承への貢献、そしてこれからの社会・経済・文化への貢献予測によって決まります。詳しくはソーシャルワーカーか役所で説明を受けられますが、私には審査結果しか分かりません」
「しかし、父は高校の教員をしていましたし、今だって史跡ボランティアもしているんです。社会貢献度は非常に高いはずです」
娘がそう言いかけたところで、中村氏が静かに制した。
「いや、違うよ。もう身体が治療に耐えられないんだ。国が全額負担してくれる健診だって、忙しさを理由に受けなかった。その結果がこれだよ。こうなるだろうと、薄々分かっていたんだ」
娘は黙った。握っていた男の子の手だけが、さっきより強くなっている。男の子は大人たちの話の意味までは分からないだろう。それでも、自分だけが知らない何かがこの部屋にあることくらいは分かっているらしく、奥歯を噛み締めるようにして祖父を見つめていた。
僕は医師として、説明を続ける。
「緩和治療については、全額国庫負担で受けることができます。主に疼痛コントロールですが、麻酔科や精神科、カウンセラーなどを含めたチームで、痛みだけでなく不眠や不安、食欲低下といった症状も含めて対応します。近年の薬剤や治療法によって、以前よりQOLを維持できる患者さんも増えています。積極的な治療による負担を抑えながら、残された時間をできるだけ普段どおりに過ごすという選択肢もあります」
僕は一度、言葉を切った。
「今すぐ決める必要はありません。ご家族で一度、話し合ってみてください」
「いえ、大丈夫です。決めてました。緩和に移行させてください」
中村氏はまっすぐ僕をみていた。反対していた娘も深くため息をつきながらも同意した。
「では、次の外来日を決めましょう。コーディネーターとの面談を予定しましょう」
僕は、次回予約を入力した。
2040年代から2050年代にかけて、団塊ジュニア世代の高齢化と現役世代の減少が同時に進み、医療を支える人手も資金も足りなくなった。幾度もの制度改革を経て、やがて国民皆保険制度は維持できず廃止。
現在、2075年。
国は医療費そのものを削るのではなく、病気が進行する前に発見し、短期間で治療することで、生涯に必要となる医療資源を減らす方向へ舵を切っている。
検診は無償化され、早期に発見された疾患には治療費の八割が国庫から支給される。一方、進行癌など長期的な治療を必要とする疾患は、公的医療資源審査の対象となる。
治療効果や予後だけではない。医療資源への負担、社会への貢献、文化への貢献、将来の社会的・経済的貢献予測までが評価され、一六歳以上の患者にはAからEまでのランクが付けられる。
Aなら公費で治療を受けられる。ランクが下がれば自己負担が増え、対象外になれば、医学的には治療可能であっても全額自己負担となる。ただし、緩和治療だけは国庫負担だった。少ない資源を、効果の見込める治療へ優先的に振り向ける。
早期に見つけ、早期に治す。
それが、国民皆保険制度に代わって選ばれた、新しい公平だ。
今回の中村氏は、話の分かる患者で助かった。
毎日のように伝えているが、こればっかりは慣れない。
「私たちを路頭に迷わすつもりなの?」
「家を売ればどうにかなるだろが!」
隣の診察室で揉めている声が聞こえた。
自分の患者は中村氏で最後だった。僕は隣の診察室の様子を見に行った。
「あ。神谷先生」
隣の診察室では、若手医師が患者の説明にあたっている。
「お気持ちはわかります。私たちにも審査結果しか共有されていないのです。ご家族内のことはご家庭でゆっくり話し合ってください。当院のソーシャルワーカーも呼びましょう」
僕はPHSでワーカーに電話し、制度について説明してもらうこと、コーディネーターにも同席してもらうことを頼んで、患者相談窓口を案内するよう看護師に伝えた。
患者とその家族が険悪な様子で診察室から出ていくのを見送りながら、僕は背中に鈍い痛みを感じた。
「河合先生、うまくやってくれよ」
「神谷先生、すみません。つい、治療しても意味がないって言っちゃって」
「そりゃ、クレームになるに決まってるじゃないか」
僕は眉を寄せた。
「さっきの患者さん、ろくなことしてないんですよ。そりゃ、D判定もらうって」
「誰が聞いてるかわからないんだから、医局以外で言うなよ」
「でも、事実じゃないですか」
「事実かどうかじゃない。俺たちは医師だ」
河合は黙った。
「D判定は、治療を受ける価値がないって意味じゃない。公費で治療する優先度が低いってだけだ。人間の価値じゃない」
「……分かってますよ」
「なら、患者の前でもそう言えよ」
この制度が導入されてから、社会の治安が目に見えて改善したことは、僕が医師として働いてきた経験からも否定できなかった。自分の行いが、将来の自分が受けられる医療を左右する。そう考えれば、他人に迷惑をかけることを避け、社会に貢献しようとする人間が増えるのは当然だった。だが、それでも好きなように生きる人間はいる。診察室で医師に激昂し、家族に負担を押しつけ、それでも自分だけは当然のように治療を受けられると思っている患者も、決して少なくない。
制度は、人間を変えた。
だが、人間の本質を変えることはできなかった。
「飯でも行こう。午後から回診だから」
僕は河合に声をかけた。
「行きましょう!」
「後で、近藤先生のところに行ってくる。回診までに戻るから」
「最近、早くないですか?」
「うん。気のせいだよ」
僕たちは、院内のコンビニに向かった。
「この前なんですけどね」
医局に戻った途端、河合は堰を切ったように話し始めた。
「慢性白血病の十八歳の男性なんですが、十五歳までは小児扱いだから、何があっても最優先だったんですよ。十六歳になって評価対象になった頃から素行が悪くなって、更新のたびにランクが下がっているんです」
「今は?」
「Cです。若年層ならまだ優遇対象でどうにかなります。それなのにこのままじゃランクが下がる一方なんです」
河合はチャーハン弁当をスプーンでつつきながら、困ったように眉を寄せた。
「本人も、もうヤケになってる感じなんですよ。精神科にもチームに入ってもらったほうがいいと思うんですけど、本人が嫌がっていて」
「治療は続けてるのか?」
「そこは、まだ大丈夫です。ただ、このままじゃ……」
河合はそこで言葉を切った。
「本人が前向きにさえなってくれればなぁ」
僕はそう言いながら、おにぎりのラッピングを外した。
治療を受けることはできても、治療を受けたいと思う気持ちまで医者が作ることはできない。
十八歳。
まだ自分の人生が医療資源の評価対象になることなど考えなくてもいい年齢のはずなのに。
寛解だってできるはずだ。
こう言う時に、医師としての限界を感じる。
制度は、より効率的に健康寿命を伸ばした。それなのにだ。
手早くおにぎりを口の中に入れると、胸元のPHSが震える。
「近藤先生から呼ばれたから行ってくるよ」
僕は、おにぎりのラッピングを小さく握りつぶして、席を立った。
「神谷先生」
河合が席を立つ。
「神谷先生は、診療科長です。もっと教えてほしいことがあるんです。だから……」
僕は、河合にうんうんと生返事をしながら医局を出た。
麻酔科の外来診察室の扉を開けた。
「悪いね、近藤先生」
昼休みだからか、近藤は白衣を脱いでいた。シャツの袖を肘までまくり、いつものように気の抜けた顔でこちらを見る。
「オペ入ってたらどうするつもりだったんだよ」
「オペなんて若い子に任せてるだろ?」
「勉強させなきゃな。指導も大変だ。……最近、効きが悪い?」
「夜間はいいんだけど、仕事中はどうもね」
「ほんの少しだけ増やす?」
「いや、量は変えないでほしい」
「無茶するよな」
近藤は苦笑しながら、僕の腕に駆血帯を巻いた。静脈を確かめ、針を刺す。
「効いてくるまで三十分くらいかな。そこで寝てな」
僕は腕時計を見た。
午後の回診まで、まだ時間があった、以前なら気にも留めなかった三十分という時間が、最近は妙に惜しい。
「今からでも積極的な治療を受ける気はないのかい?」
「いいんだ。僕には、まだ仕事しかやることがないからね。ギリギリまで働いていたいし、娘とも遊びたい。それに週末にキャンプに行くんだ」
「お前の死生観に振り回されるこっちの身にもなれよ」
「いいじゃないか。同級生として、一生に一度のお願いだ」
「洒落になんねーな」
僕は末期の膵臓癌だった。
公的医療資源の判定はA。それでも僕は、積極的な治療を選ばなかった。
「公平な医療」とは、本当に公平なのだろうか。
限られた医療資源を合理的に配分するため、人の価値まで数値化される社会を描きました。
制度としては正しくても、人間にとって正しいとは限らない。
そんな矛盾について、少しでも考えていただけたなら嬉しく思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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