凍てつく静寂と、琥珀の残り火
少しの描写ですが、ルナの過去の描写がかかれています。
レティシアの湿り気を帯びた石の匂いを遠く離れ、ルナが辿り着いたのは、北方の峻険な山脈の合間に沈む「灰の渓谷」。かつて星を詠む民が築いたとされる聖域は、今や万年雪と鋭利な岩肌に飲み込まれ、地図からも人々の記憶からも消え去ってしまった。
ルナが踏みしめる乾いた雪の音だけが、墓碑銘を刻むように規則正しく響く。吐き出す息は白く凍りつき、薄闇の中に霧散していく。ルナは立ち止まり、雪の結晶がコートの袖に落ちては溶ける様子を、感情を読み取らせない紫の瞳で見つめた。ルナの歩みには一切の迷いがない。その足跡は、まるで最初から雪の上に描かれることが決まっていたかのように、一直線に北を目指している。
「……マナの密度が上がっているわ。この先ね、ホークアイ」
肩の上で、ホークアイがふわりと羽を膨らませた。ホークアイの頭部に生えた触角が、目に見えない大気の振動を捉えて微かに明滅する。ホークアイは琥珀色の瞳を細めると、前方にある巨大な氷柱の影をじっと凝視した。そこには、一見すればただの岩壁にしか見えない、巧妙な隠蔽魔術が施された「門」の断片が隠されていた。
ルナは手袋をはめた指先で、空間の「継ぎ目」をなぞる。指先から零れる銀色の魔力が、冷たい大気と衝突して火花を散らす。ルナの指先が触れた瞬間、虚空から幾何学的な紋様が浮かび上がり、重い重音と共に背後の岩壁が静かに横へ滑り出した。
そこから溢れ出したのは、数百年もの間、閉じ込められていた古の埃と、甘くどこか懐かしいお香のような匂い。
ルナは一瞬だけ、唇を噛み締めた。その匂いは、かつての書庫で、父と共に古い文献を紐解いていたうららかな日差しが差し込む午後の記憶を呼び起こす。温かな陽光、誰かの笑い声、そして守られていた自分。だが、ルナはその記憶を、冷徹な意志で即座に心の奥底へと突き落とし心の中の箱へと入れ鍵をかけた。今の自分に許されているのは、夜明けを拒んだ者の孤独と、指先に宿した銀色の刃だけなのだからと。
「思い出に浸る時間は、もう終わったの」
独り言のように呟くと、ルナは闇が口を開ける遺跡の内部へと、迷いなく足を踏み入れた。背後で岩壁が再び閉ざされ、外界の風の音が遮断される。
遺跡の奥からは、微かな、けれど確かな「拍動」が聞こえてくる。それはルナが追い求める失われた魔術が、まだ死に絶えていない証。暗闇の中、ルナの瞳はかつての自分を焼き尽くした復讐の残り火を映し出し、より一層深く、鋭い輝きを放ち始めた。




