第45話_これはもう、砕かれるどころではありませんね。
平原は、折れた。
血の匂いは薄い。
死体がないからだ。
けれど、倒れた兵士の数は嘘をつかない。
五万の前列が、まるで刈り取られた麦のように地に伏している。
「……立て」
誰かが呻く。
膝が笑い、指が震え、呼吸が浅い。
立てない。
立てても、すぐに視界が揺れる。
「魔法……魔法を、もう一度……!」
神官が喉を裂くように叫び、杖を掲げた。
詠唱。
陣の再構成。
本来なら、戦線の穴を埋める「第二波」だ。
だが――完成しない。
空気が、ぱちん、と音を立てた。
魔力が吸い上げられ、糸が切れる。
術式が途中で崩れ、逆流した魔力が術者の腕を焼く。
「ぐぁっ……!」
杖が落ちる。
詠唱者が転がる。
(……なんだ、これ)
教国軍の誰もが、同じ感覚を抱いた。
“自分たちの世界のルール”が、ここでは通じない。
一方で、ルミナス軍は、淡々と前に進む。
叫びもない。
祈りもない。
ただ、確実に距離を詰めてくる。
前に出る将が、また一人。
武を体現したかのような将――
「ルミナス王国を害するものは、全て駆除する」
拳が振るわれる。
空気が裂け、衝撃が走り、
神官隊の列が――“倒れる”というより、“寝かされる”。
骨を折らず。
首も飛ばさず。
だが、立ち上がれないほどの絶妙な力で、地面に縫い付ける。
「う、うそだろ……」
兵士が這うように後退した。
その背後から、別の将の攻撃が飛んでくる。
今度は――美しい。
銀色の光が、平原に薄い線を幾重にも描いた。
刃ではない。
糸だ。
光の糸が、教国兵の足元を撫でるように走る。
次の瞬間。
「っ……!?」
兵士たちの膝が一斉に落ちた。
足首。
膝裏。
腰。
動かすための“力の通り道”だけを、寸分違わず断ち切られている。
誰一人そこから動くことができない。
――隣の戦場では
痛みはない。
ただ――
「魔力回路が遮断されている……だと?」
枢機卿が呻く。
魔法を使う者の生命線。
そこだけを狙い、壊すのではなく“止める”。
そんな芸当、教国の精鋭でも容易ではない。
魔法の制御においては、ヴァルカス軍随一である女の将の仕業だ。
「……ルミナスは、殺す気がないのか……?」
誰かが呟いた。
その疑問は、すぐに恐怖に変わる。
殺されない。
つまり、この恐怖からも逃げられない。
「退け! 後退だ!」
指揮官が叫ぶ。
だが、後退しようとした者から順に倒される。
“退路を潰す”のではない。
“退路を走る力”を奪われる。
五万の軍勢が、音を失い始めた。
勇ましい咆哮は消え、
代わりに聞こえるのは、呼吸の乱れと、呻きだけ。
そして、教皇が、それを見ていた。
杖を握る手が震え、唇が引きつる。
(あり得ない)
数で押すはずだった。
神の名で押し潰すはずだった。
なのに――
「死者が……出ていない……?」
教皇の声が、掠れた。
目の前には、兵が山のように倒れている。
だが、誰も死んでいない。
それは、慈悲ではない。
「これは……制圧だ」
誰かが呟く。
恐怖で縛るのではなく、
実力で「抵抗の意味」を奪い去るやり方。
そして、それは教国にとって最悪だった。
戦争の大義が崩れる。
“異端を討つ”という物語が――勝てないという現実の前で、粉々になる。
「聖女!!」
教皇が叫んだ。
「奇跡を! 今すぐ兵を立たせろ! 神の加護を示せ!」
二人の聖女が前に出る。
その顔には怒りと焦りが混じっていた。
「神の名において――!」
神聖魔法が放たれる。
光が広がり、倒れた兵士たちを包む。
だが。
立ち上がらない。
同時に兵士たちを包んでいた光が、暗黒の渦に吸われていく。
その渦の傍にはアンデット。ただ…スケルトンと呼ぶには、
明らかに格が違うということは、だれの目から見ても明白だった。
(違う……)
アーシャは、震える息を吐いた。
(これが、私が怖れていたこと)
兵士たちが死ぬことだけではない。
勝てない戦場で、
ただ折れていくこと。
心が壊れていくこと。
「……お願いだ……」
倒れた兵士が、空を見上げて呟いた。
「神よ……助けてくれ……」
その言葉に、アーシャの胸が締め付けられる。
助けるべきだ。
救うべきだ。
けれど――今、私が神聖魔法で癒しを与えたところで、
それは意味が無い。
兵士たちは“立てる”かもしれない。
そしてまた、無意味に突撃し、また倒され、また折れる。
それは救いではない。
ただ、長引く地獄だ。
(……今じゃない)
アーシャは、一歩も動けなかった。
杖を握る指に、力が入る。
だが、天を仰いでも、言葉が出ない。
目の前で起きているのは、
神の意思に逆らった結果ではない。
神の意思を“利用した”結果だ。
その時。
平原の奥――ルミナス軍の後方に、ひときわ小さな影が見えた。
黒い外套。
銀の髪。
王冠。
アルトは、前線に立っていない。
ただ、少し離れた場所で、静かに戦場を見ていた。
まるで――実験の結果を眺めるみたいに。
アーシャは、その視線を感じて、胸の奥が熱くなった。
(あなたは……)
(あなたは、これを望んでいるのですか?)
違う。
彼は言った。
“こちらから手を出すことはしない”と。
来たのは教国だ。
刃を向けたのは教国だ。
だから、返されている。
――死なない形で。
その優しさが、今は残酷にも見えた。
教皇の怒号が、また響く。
「まだだ! まだ神は我らを見捨てていない!」
「進め! 進めぇぇぇ!」
命令が飛ぶ。
だが兵士は動かない。
動けない。
それでも、前に出ようとする者がいる。
狂信と恐怖で、脚を引きずりながら。
その姿を見て、アーシャは決めた。
(……止める)
(この戦争を、私が止める)
まだ、神の力を使うときではない。
まずは――“戦いをやめる理由”を作る。
兵士たちの心が完全に折れる前に。
大義が消えたと、誰の目にも分かる形で。
アーシャは、唇を噛んだ。
そして、杖を胸に抱くように握り直す。
(神様……)
(私に、勇気をください)
――――
ルミナス軍の前線で、一番に突っ込んでいた将が笑いながら叫んだ。
「おいおい、もう終わりか?」
「まだ“信仰”を叫ぶ余裕、残ってんだろ?」
その言葉に、教国軍の誰かが泣いた。
怒りではない。
悔しさでもない。
ただ、理解してしまったからだ。
――勝てない。
神の名を掲げても。
数を揃えても。
この一万は、五万を折るためだけに存在している。
アーシャは、静かに一歩前へ出た。
空色の髪が、風に揺れる。
この戦場の“終わり方”を、彼女が選ぶ。
その決断が、次の瞬間に、戦場の空気を変えていくことになる。
※ここまで読んでくださってありがとうございます。
もし続きが気になりましたら、
ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです!




