第42話_香りに導かれた少女
ルミナス王国、商業区。
石畳の通りに、香ばしい匂いが漂っていた。
香辛料を油で熱した、少し刺激的で、それでいて食欲を強く引き出す匂い。
「……いい匂い」
思わず足を止めたのは、空色の髪をした少女――アーシャだった。
この国に入ってから、驚くことは多かったが、
“食べ物の匂い”に足を止められたのは、初めてだった。
(これは……料理?)
覗き込むと、素朴な店構えの小さな食堂。
看板には見慣れない文字と絵。
――カレー。
意味は分からないが、匂いが語っている。
「美味い」と。
気づけば、暖簾をくぐっていた。
店内は昼時を少し過ぎたところで、客はまばら。
カウンターの奥では、恰幅のいい女性が鍋をかき混ぜている。
「いらっしゃい!」
気さくな声。
アーシャは一瞬戸惑い、周囲を見回したあと、
アーシャよりも少し下くらいの年に見える少年が一人で座っているテーブルに目が留まった。
(……この人なら)
「すみません」
声を掛ける。
「この国が初めてで……よろしければ、ご一緒してもいいでしょうか」
少年は顔を上げ、一瞬きょとんとしたあと、軽く笑った。
「いいよ。どうぞ」
歓迎するように、向かいの席を手で示す。
アーシャはほっと息をつき、腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「一人旅?」
「……はい。少し事情があって」
少年は深くは聞かず、メニューを指さす。
「ここ初めてなら、これが無難かな」
「これ、は?」
「カツカレー」
「じゃあ……それをください」
運ばれてきた皿から立ち上る香りに、アーシャの目が少し見開かれる。
「……美味しい」
一口食べて、素直にそう呟いた。
「でしょ」
少年は満足そうに頷く。
「この国、変わってるなぁって思うよね」
「はい」
アーシャは正直に答えた。
「信仰も、街の活気も、それに、国民がみんな……幸せそうです」
「まぁそれを目指してるからね」
さらりと言われ、アーシャは首を傾げた。
「……あなたは、この国の方ですか?」
「うん。まあ」
少し間があって。
「正確には、この国の王なんだよね」
一瞬、時間が止まった。
「……え?」
食べていた手が止まる。
冗談だと思った。
だが、少年――アルトは涼しい顔だ。
「信じられないよね」
そこへ、店の奥から声が飛んだ。
「その方は本当にこの国の王様だよ」
おばちゃんが、からからと笑う。
「まぁ、こんなとこに一人でカレーを食べに来る王様なんて、普通はいないからねぇ」
「信じられないのも無理はないよ」
アーシャは、完全に固まった。
(……王)
(この人が)
次の瞬間。
椅子から立ち上がり、床に頭をつける勢いで身を屈める。
「お、お許しください!」
「ちょ、ちょっと待って」
アルトが慌てて止める。
「ここ、店だから。落ち着こう」
「で、ですが……!」
「分かった分かった」
アルトは苦笑して立ち上がる。
「続きは、場所変えよう」
――――――
ルミナス大要塞、応接室。
落ち着いた空間で、二人は改めて向き合っていた。
「で、話したいことって?」
アルトが促す。
アーシャは背筋を正し、はっきりと告げた。
「聖教国エルディア第三聖女、アーシャです」
「あなたの国への宣戦を――止めに来ました」
空気が、わずかに引き締まる。
「私は神からの神託を受けました」
アーシャは続ける。
「争うな。刃を向けるな。道を誤るな。そして――ルミナス王国と友好を結べ。と」
アルトは、黙って聞いていた。
「……それでも、教皇と他の聖女たちは耳を貸しませんでした」
「だから、一人で来た?」
「はい」
少しだけ、笑う。
「無謀だと分かっています。でも……」
アルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「こんなんでも、一応一国の王なんだよ」
その言葉に、アーシャは静かに頷く。
「王は、民を、国を、守る義務がある」
「納得できないかもしれないけど」
「君は賢い。だから分かるはずだ」
視線が、真っ直ぐ向けられる。
「こちらから、手を出すことはしない」
「でも――それでも来るなら、容赦はできない」
脅しではない。
覚悟の宣言。
アーシャは、しっかりと受け止めた。
「……分かっています」
「それでも、私は止めたい」
「神は、兵士たちが傷つくことを望んでいません」
しばらくの沈黙。
アルトは、ふっと力を抜いた。
「優しいね」
「信じているだけです」
アーシャは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと首を振る。
「……わかりました」
声は震えていない。
だが、胸の奥に積み重なった想いが、その一言に滲んでいた。
「でも――私は、諦めません」
アルトの視線が、自然と彼女に向く。
「私は一度、国へ戻ります」
「教皇様や、他の聖女たちを……もう一度、説得します」
言葉を選びながら、しかし逃げずに続けた。
「今日、この国に来て」
「神の信託に、間違いはなかったと……改めて感じました」
アーシャは、静かに目を伏せる。
「街は栄えていて」
「暮らす人たちは、皆、笑顔で」
「恐怖ではなく、安心の中で生きている」
そして、まっすぐに顔を上げた。
「なにより――」
その視線は、アルトを捉えて離さない。
「この国の王は、民を思いやり」
「それを言葉だけでなく、実際に行動にで魅せる立派な方でした」
一呼吸置いて、はっきりと言う。
「異端などでは、決してありません」
それは、聖女としての立場を危うくする言葉だった。
それでも、アーシャは迷わなかった。
「だから私は、神の意図を伝えます」
「争いを止めるために、できることを――すべてやります」
深く、深く頭を下げる。
「……ありがとうございました」
それだけ言って、アーシャは踵を返した。
その背中は小さい。
だが、確かな覚悟を背負っている。
アルトは、何も言わなかった。
引き止めもしない。
説得もしない。
ただ、その背中を静かに見送った。
外では、風が吹いている。
戦争の足音は、確かに近い。
だが――
次に二人が向き合う時、
それは平穏な応接室ではなく、
剣と魔法が交錯する戦場だろう。
その時、アーシャは何を示し、
アルトは何を選ぶのか。
この対話は、まだ終わっていない。
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