1 鋭い風圧
ぐつぐつ、ぐつぐつ。
平安京の廃屋に、奇妙な煮込み音が響いている。
漂うのは味噌や猪肉の食欲をそそる香りではない。
鼻の奥がツンとするような、獣の皮を煮詰めた独特の獣臭だ。
「……あな、臭し。繕よ、主、またあやしき汁を調ふるか。」
(……臭いのう。繕よ、貴様また奇妙な汁を作っておるのか)
覚猷が鼻をつまみながら、崩れかけた土壁の向こうから顔を出した。
その視線が、先ほどよりもさらに下へ向けられる。
繕は、ぶかぶかになった白衣の袖をまくり上げ、紐でたすき掛けにしていた。ズボンの裾も折り返しているが、それでも少し引きずりそうだ。
(……また縮んだか。今は小学校高学年ってところか)
繕は溜息をつきつつ、覚猷が起こした焚火の炎を調整した。
夜の帳が下りた京の都。
今宵の宿営地は、かつて貴族が住んでいたとおぼしき、屋根の抜けた寝殿造りの一角だ。
「汁じゃありません。『膠』です」
繕は火を調整しながら、穴が一部空いた鍋の中身を竹べらでかき混ぜた。
とろりとした琥珀色の液体が、糸を引いて垂れる。
貴族が抱えていた「女房」といわれる専門職的な使用人がこさえていたものらしいが次の素早い怪異に対応できるかもと 繕が無理を言ってもらったものだった。
「膠……とな? さなり、弓や調度を継ぎ合はする糊のことか。」
(ニカワ? ああ、弓や家具の接合に使う接着剤か)
「ええ。ですが、俺たち修復士にとっては命綱です。絵の具を定着させたり、剥落を止めたり、用途は無限にある」
繕は眼鏡を中指で押し上げた。レンズが湯気で白く曇る。
前回の「鬼退治」から二日が過ぎていた。
二人は奇妙な共同生活を送りながら、都に巣食う怪異の痕跡を追っていた。
覚猷は独鈷杵の手入れをしながら、呆れたようにため息をついた。
「されど、かかる粘き汁にて、次なる相手を調伏し得るとは、思へぬがな。」
(しかし、そんなネバネバした汁で、次の相手がどうにかなるとは思えんがな)
「なりますよ。……相手が『逃げ足の速い』奴なら、なおさらです」
今宵のターゲットは、都を騒がせている「怪盗」だ。 夜な夜な屋敷に忍び込み、金銀財宝どころか、鏡、櫛、美しい着物など、「人の執着がこもった品」ばかりを盗み出す。
目撃者の証言によれば、それは風のように速く、煙のように掴みどころがないという。
ひゅおぉぉ……。 隙間風が吹き抜け、繕の足元の枯れ草が、かさりと音を立てた。
「ようよう、出で来つるか!」
(やっと来おったか)
覚猷の目が、一瞬で僧侶のものから狩人のそれへと変わった。
「あな、疾し。斎の前の腹ごなしとはな。」
(素早いのう。飯の前に運動とは)
二人は示し合わせたように焚き火の明かりを消した。
闇が戻る。
だが、その闇の中に、異質な気配が混じっていた。
屋根の上。
瓦を踏む音がしない。
衣擦れの音すらしない。
ただ、空間そのものが「何か」に切り裂かれるような、鋭い風圧だけが近づいてくる。




