2 相撲(すまい)
戦闘は、一方的な「蹂躙」から始まった。
ただし、覚猷が蹂躙される側ではない。
「咄!」
(喝ッ!!)
覚猷の一撃は重かった。
独鈷杵が赤鬼の膝関節を砕き、その反動を利用した回し蹴りが青鬼の兜を吹き飛ばす。
法力で強化されているのか覚猷の肉体は、人間の域を超えていた。
平安最強の密教の使い手は伊達ではない。
だが、相手は「概念」の化け物だ。
赤鬼の膝は、砕けた直後に血が糸のように伸びて繋がり、一瞬で修復される。
青鬼もまた、首から上がないまま太刀を振り回し、暴れまわる。
「あな、くどし! されば兵は疎ましきぞ!」
(しつこいのう! これだから武辺者は嫌いじゃ!)
覚猷は舌打ちし、二体の鬼の攻撃を紙一重でかわす。 物理攻撃は効く。だが、致命傷にならない。 彼らの核にあるのは「闘争本能」。戦えば戦うほど、そのエネルギーは増幅され、鬼たちはより強大になっていく。
「繕! いまだか! 我が息上がる前に、なんぞせぇッ!」
(繕! まだか! わしが息切れする前に何とかせえ!)
「分析中です、黙って!」
繕は戦場から少し離れた岩陰で、必死に<眼>を凝らしていた。
(……くそ、視界の高さが違うだけで、距離感が狂う)
小さくなった体を恨めしく思いながらも、繕の脳内では、目の前の光景が高度な化学シミュレーションとして処理されている。
(打撃による粉砕は、一時的な分解にすぎない。彼らの結合組織になっているのは『敵意』だ)
視界の中の鬼たちは、赤と青の強烈な補色関係で結ばれている。 互いに憎しみ合いながら、互いがいないと存在できない。 『敵』がいるから『自分』がいる。 その歪んだ依存関係こそが、無限再生の源だった。
(この結合を断ち切る? いや、無理だ。彼らの存在理由そのものを消滅させることになる。それは『修復』じゃない、『破壊』だ)
繕の修復士としての信条は、オリジナルの尊重だ。
たとえそれが怨念であっても、元は人間が抱いた感情。完全に消去することは、歴史の一部を消すことと同義だ。
――除去するのではなく、変質させる。
酸性の汚れをアルカリで中和するように。
太陽の熱で衣服を脱ぎたくなるように。
「殺し合い」というベクトルを、別の形に「リフォーム」できないか。
その時、繕の脳裏に、博物館の実物で見た 『鳥獣戯画』 の甲巻がフラッシュバックした。
有名なシーン。 カエルとウサギが取っ組み合っている。カエルがウサギを投げ飛ばしている。
その周りで、他の動物たちが笑っている。
繕はハッとした。 「相撲……!」
そうだ。相撲だ。 現代では国技だが、平安時代において相撲と呼ばれた相撲は、宮中行事(相撲節会)であり、神事であり、そして戦場で敵をねじ伏せるための、武士たちの実戦的な鍛錬でもあった。 力と力をぶつけ合うこと自体は、悪ではない。
そこに「殺意」が混じるから「殺し合い」になる。 ならば、「殺意」だけを洗い流し、「競技性」という枠組みを与えれば――?
「覚猷さん!」
繕は岩陰から飛び出した。少年のような身軽さで瓦礫を飛び越える。
手には、朝汲んでおいた水に特殊な溶剤(現代から持ち込んだ界面活性剤)を混ぜた繕の小さな手にも収まるスプレーボトルが握られている。
「二体をくっつけてください! できるだけ密着させて、動きを止めて!」
「言ふは易し!」
(簡単に言うてくれるわ!)
覚猷は悪態をつきながらも、即座に行動に移した。
赤鬼が振り下ろした金棒を受け流し、その勢いを利用して青鬼の方へ投げ飛ばす。
もつれ合う二体の鬼。
「吽ッ!」
(ぬんっ!)
覚猷はその背後から跳躍し、二体の鬼の首根っこ(青鬼は再生したばかりだ)を、左右の腕でヘッドロックのように締め上げた。
『『グ、ガァァァッ!』』
「今ぞッ!」
(今じゃあぁッ!)
覚猷の筋肉が悲鳴を上げ、血管が浮き出る。凄まじい膂力で、暴れる二体の巨体を強引に「四つん這い」のような姿勢に縫い止める。
繕がスライディングで鬼たちの下端に肉薄した。
距離はゼロ。鬼の吐く腐臭が鼻をつく。
だが、恐れはない。今、繕に見えているのは怪物ではない。
「修復すべき作品」だ。
「これでもくらえ!」
繕はスプレーを鬼たちに吹き付けた。
シュッ、シュッ! 霧状になった液体が、赤と青のオーラに触れる。
「な、何ぞ!? 酒か!?」
(な、なんじゃそれは!? 酒か!?)
「ただの中性洗剤ですよ!
ただし、俺の『眼』の”ありよう”を通して、概念的な『洗浄力』を上乗せできているみたい!」
続いて、繕は左手で刀印――人差し指と中指を剣に見立てた破魔の型――を結び、右手でメスを振るった。 物理的に切るのではない。
鬼たちの間にある、ドス黒く濁った「殺意」だけを、外科手術のように繊細に除去していく。
<不純物除去:殺意>
<残存要素固定:闘争心・遊び心>
「お前たち相撲で 合わせよ!」 繕が叫んだ。
(相撲で対戦しろ!)
ジュワワワワ……ッ!
繕の叫び声を聞いた鬼たちの体から、さらに黒い煙が猛烈な勢いで散華し始めた。
それは、長年こびりついた油汚れが強力な洗剤で分解されていく様に似ていた。
鎧が、兜が、錆びついた刃が、ボロボロと剥がれ落ちていく。
『カ、勝ツ……俺ハ、強イ……!』
赤鬼の声が変わった。
地の底から響くような怨嗟の声ではない。
もっと軽く、高く、純粋な――
『負ケン、負ケンゾォォ!』
青鬼の声も変わる。 光が溢れた。 覚猷の手の中で、三メートルあった巨体が、急速に縮んでいく。 赤色が、鮮やかな緑色へ。 青色が、純白の毛並みへ。
「こは……」
(……え?(思考停止するほどの驚き))
覚猷が呆気にとられて腕を緩めると、そこには二匹の小動物がいた。
カエルと、ウサギだ。
彼らは、まだ戦っていた。
だが、それは血みどろの殺し合いではない。
カエルがウサギの腰(といっても毛皮だが)を持ち、ウサギがカエルの首に足をかける。
がっぷり四つの、相撲だ。
「ケロケロ!(のこったのこった!)」
「ムギュゥゥ!(負けるもんか!)」
三体の眷属たちもカエルに変化し、しきりに声援を送っていた。
そんな声が聞こえてきそうなほど、彼らの表情は真剣で――そして何より、楽しそうだった。 カエルの口元は笑っているように大きく裂け、ウサギの長い耳は興奮でピンと立っている。
「こは……奴原が、本地なりしか。」
(これが……あやつらの正体か)
覚猷がポカンと口を開けて呟いた。
武士たちの殺意の核にあったのは、ただ「己の力を試したい」「強者と競い合いたい」という、男の子なら誰もが持つ原初的な欲求だったのだ。
それが戦争という状況下で歪み、鬼となっていただけのこと。
繕はへたり込むようにその場に座り込んだ。
体が小さくなったせいか、普段よりも疲れが重い。
「はあ、はあ……成功、ですね。」
カエルとウサギは、しばらく夢中で取っ組み合っていたが、やがてカエルが見事な投げ技でウサギを転がした。 「ぷぎゅっ!」 ウサギは悔しそうに地面を叩いたが、すぐに起き上がり、カエルの健闘を称えるように肩を叩いた。 そこにはもう、一切の遺恨はない。
覚猷が懐から白紙の絵巻を取り出し、地面に広げた。
「いざ、参れ。かしここそ、汝らが庭※(にわ)なれ。」
(さあ、逝くが良い。そこがお主らの土俵※じゃ) (※平安時代には存在しなかった。)
カエルたちとウサギは顔を見合わせ、頷いた。
彼らは光の粒子となって分解し、和紙の上へと舞い降りた。
スゥッ、と墨が滲む音がする。
絵巻の上に、あの名場面が浮かび上がった。
足を高く上げて投げを打つカエル。 バランスを崩して倒れるウサギ。 笑い転げる三匹のカエル。
墨の濃淡だけで描かれたその絵は、今にも動き出しそうな躍動感に満ちていた。




