1 夜の船岡山
夜の船岡山。
平安の夜気は、ただ暗いだけではない。そこには重さがある。
じっとりと湿度を帯びた闇は、人の肌にまとわりつき、肺の奥まで侵食してくるようだ。
「これ、繕。遅るなぞ。」
(おい、繕。遅れるなよ)
「……はい。でも、足元が悪すぎです。覚猷さんは頑健ですね。見た目はどう見ても山賊ですけど。」
栂尾 繕は、泥濘に足を取られながら、必死に前を歩く巨躯を追っていた。 覚猷の歩みは速い。高下駄を履いているにもかかわらず、岩場を飛ぶ山猿のように軽快だ。
「カカッ! 口賢うなりたるのう、童。」
(カカッ! 言うようになったのう、童)
「童は止めてください。確かに童顔ですけど、ほぼ30歳なんです。」
二人が突き進んでいるのは、京の都の北限、船岡山の麓あたりだった。かつては葬送の地であり、今も捨て置かれた死体が腐臭を放つ、この世とあの世の境界線。
繕は、懐中電灯の代わりに、覚猷が法力で灯した青白い狐火を頼りに進んでいた。 現代から持ち込んだウエストポーチの中身は、心もとない。 メス、ピンセット、竹べら、極細の面相筆。そして、数種類の有機溶剤と、なけなしの和紙。 これだけで、千年前の怪異と戦えというのだから、ブラック企業も真っ青の労働環境だ。
「あな、三十路とや。」
(はて? 三十路とな?)
覚猷が怪訝な顔で振り返り、繕を見下ろした。その視線の位置が、やけに高い。
現代でも大柄な覚猷と小柄な繕では身長差があったが、今はまるで大人と子供だ。
「髭もなうして、髻も結わねば……主、背なぞ縮かまりたるにあらずや?」
(ヒゲや髻を結っていないし、それだとお主、背が縮んでおらぬか。)
「えっっ。」
言われてみれば、視界が低い。繕は慌てて自分の掌を見た。白い手袋のサイズは変わっていないが、その中にある手は、骨格が華奢になり、肌に十代特有の瑞々しい張りが戻っている。
ポーチからスマホを取り出し、画面に顔を映す。
そこにいたのは、くたびれたアラサーの修復士ではない。中学生――いや、せいぜい十四、五歳の頃の自分だった。
(……精神体の最適化か?)
繕は仮説を立てた。生身の肉体を持たずに過去へ飛んだ精神は、不安定だ。
大人の体積を維持するのは燃費が悪い。だから、無意識にエネルギー消費の少ない
「少年の姿」へと圧縮されたのか。
「縮んでる……マジかよ」
「カカッ! 見目麗しき稚児姿、似合うておるぞ!」
(カカッ! 可愛いお坊ちゃんスタイル、似合ってるじゃねーか!)
体中を撫で回し始めた繕の様子に覚猷は豪快に笑ったが、その瞳は笑っていなかった。
油断なく闇の奥を睨んでいる。彼らがここに来たのは、散歩ではない。
ある筋から「依頼」があったからだ。
都の警護にあたる検非違使すら寄り付かないこの一帯で、夜な夜な、大地を揺るがすほどの「争う音」が響くという。
「……来るぞ。」
(……来るぞ)
覚猷が足を止めた。繕も立ち止まり、眼鏡の位置を直す。少しぶかぶかになった眼鏡が、鼻梁からずり落ちそうになる。
風が止んだ。虫の音が途絶える。
ズシン、ズシン、と腹に響く振動。 そして、嗅ぎ慣れた、しかし決して嗅ぎたくない臭いが漂ってきた。鉄錆と、古くなった血液の臭いだ。
「見ゆるか、繕。」
(視えるか、繕)
「……はい。最悪の保存状態です」
怪異の”ありよう”を捉えた繕の右目が痛みを訴えるように脈打つ。
闇の向こうから現れたのは、二つの巨影とその眷属三体だった。
一つは、煮えたぎるマグマのような赤。
もう一つは、凍てつく深海のような青。
それは「鬼」だった。
だが、絵本に出てくるような愛嬌のある鬼ではない。
武士の鎧兜が肉に食い込み、折れた刀や矢が全身に突き刺さったまま融合して
血と体液を流している。顔は苦悶と憤怒に歪み、口からは常に呪詛の蒸気を吐き出していた。
【対象:武力抗争の怨念複合体(赤鬼・青鬼とその眷属)】
【成分分析:武士の闘争心90%、名誉欲、恐怖、鉄、血】
【状態:過剰興奮。終わらない殺し合いを求めている】
「源氏と平家……いや、それ以前からの武力衝突の記憶か」
繕は呻いた。
都を荒廃させているのは、飢饉だけではない。台頭する武士階級による、血で血を洗う権力争いだ。 その「勝ちたい」「殺したい」「死にたくない」という強烈な情念が、形を成してここにある。
『ウ、ヲォォ……ッ! カ、カタン……我レラガ……カタン!』
(ウ、オオオ……ッ! 勝った……我らが……勝つのだ!)
『殺サン……カウベヲ、奉レェェッ!』
(討ち取ってやる……首を、よこせぇぇっ!)
赤鬼と青鬼、その眷属たちは、互いに掴み合い、殴り合いながら、同時にこちらへ殺意を向けてきた。
彼らにとって、目の前に立つ者はすべて「敵」なのだ。
「あな、むつかし。酒を汲む数寄心だに持たぬか。」
(やれやれ、暑苦しい奴らよ。酒を酌み交わす風流心も持たぬか)
覚猷は法衣の袖をまくり上げ、愛用の独鈷杵を構えた。
その姿は、五条大橋で待ち構える弁慶の如き威圧感だ。
繕は、その脇に立つ小柄な牛若丸といったところか。
「繕、下地は我がせむ。留めは委ねたぞ!」
(繕、下ごしらえはわしがやる。仕上げは任せたぞ!)
「無茶言わないでください! あんなのどう扱えって言うんです!?」
「知らぬこと! そを計らひてこその、匠ならん!」
(知らん! そこをなんとかするのが職人であろうが!)
理不尽な命令と共に、覚猷が地面を蹴った。




