2 秘密の対話
鼻をつく、消毒用エタノールの匂い。
静かな空調の音。
栂尾 繕は、はっと息を呑んで顔を上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた東京国立博物館の修復室の白い壁だった。
「……夢、か?」
繕は呆然と呟き、自分の手を見た。
泥もついていなければ、火傷の痕もない。
いつもの白い手袋をしている。
そして何より、視線が高い。 骨ばった大人の指。節のある手首。
つい先ほどまで小さな子供の体をしていた感覚が残っているだけに、当たり前の自分の体が、今はひどく大きく、そして少しだけ寂しかった。
だが、身体の奥底には、まるで何日も山野を駆け回った後のような、心地よい疲労感が沈殿していた。
作業台の上には、国宝『鳥獣人物戯画』甲巻。
八百年以上の時を超え、ボロボロになりながらも、今ここに在る奇跡。
繕は震える手でルーペを覗き込んだ。
カエルがウサギを投げ飛ばしている、あの有名な相撲のシーン。
繕には、カエルの口元が「へへん、どうだ!」と笑っているように見えた。
そして、巻物の終盤。 唐突に物語が途切れ、紙が継がれている箇所。
断簡となった傷跡。
かつては、歴史の中で失われた「欠損」だと思っていた。
けれど今は違う。
あれは、悲しみを断ち切り、楽しみを守り抜いた「決断」の証だ。
その拳は魔を砕き、そのメスは魂を洗う。
繕の脳裏に、あの豪快な僧侶の笑顔が蘇る。
時を超えた約束は、確かに果たされていた。
「……ちゃんと、残ってるじゃないか」
レンズの奥で、カエルがこちらに気づき、ウィンクをした気がした。
繕は涙を拭い、笑顔を作って白衣の襟を正した。
ここから先は、自分の仕事だ。
覚猷が作り、守り抜いたこの「庭」を、次の千年へ繋ぐために。
「メンテナンス、開始します」
静まり返った修復室に、繕の凛とした声が響く。
その手つきは、どこか平安の荒法師を思わせるほどに大胆でしかし限りなく優しかった。
紙の上、墨の彼方で、今日もカエルたちは高笑いしている。
繕は絵巻の余白にふと視線を落とした。
そこには文字など書かれていない。けれど、繕にははっきりと聞こえていた。
さらに、寒がったとき掛けてくれた法衣の暖かさや覚猷の匂いを感じた気がした。
「……聞こえてますよ、覚猷」
千年前の悲しみが、絶望が笑顔に変わってここにある。
それを守り抜くことこそが、託された答えだ。
これは一方的な修復作業ではない。
墨と紙を通じた、終わることのない二人だけの秘密の対話だ。
完
『国宝修復士、平安へ。荒法師・覚猷と遺す「国宝鳥獣戯画」は、祓い清めた怪異たちでした。』に最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
皆さんは、国宝『鳥獣人物戯画』をご覧になったことがありますでしょうか。
擬人化された動物たちが、相撲を取り、追いかけっこをし、川で遊ぶ。あの生き生きとした筆致を見ていると、描いた人はさぞかし楽しかっただろうな、と想像してしまいます。
しかし、この絵巻が描かれたとされる平安時代末期は、決して平和な時代ではありませんでした。
保元の乱、平治の乱、大飢饉……。
明日をも知れぬ「末法」の世の中で、なぜあのような、底抜けに明るい絵が生まれたのでしょうか。
辛い現実から目を背けるため?
あるいは、権力への風刺?
私はこう妄想しました。
「現実が辛すぎるからこそ、それを笑いに変換して浄化しようとしたのではないか」と。
現代において、傷ついたものを「修復」するさまざまな技術者の方々は、単にものを直しているだけではありません。
そのものが経てきた時間、込められた想い、そして歴史そのものを次代へ繋ぐために、さまざまなものと向き合っています。
ならば、その「修復」の精神が平安時代に持ち込まれたら、それは怨念すらも洗い流す「救い」になるのではないか――そんな発火点から、この物語は生まれました。
作中に登場する修復技術(界面活性剤の使用やエタノール洗浄など)は、現代の実際の技法をベースにしつつも、ファンタジー的な解釈を加えています。
そして、謎多き「甲巻」の構成、特に「断簡」の存在や順序の不連続性についても、私なりの「愛ある理由」をつけさせていただきました。
主人公の繕と、荒法師・覚猷。
千年を隔てた二人の職人が作り上げた「秘密の庭」を、楽しんでいただけたなら幸いです。
もし今後、博物館や図録、教科書等で鳥獣戯画を見る機会があれば、その墨の線の向こう側に、泥だらけになって笑い合う二人の姿を思い浮かべてみてください。
きっと、カエルたちも笑ってくれるはずです。
また、どこかの物語でお会いできる日を楽しみにしております。
2026/1/10 筆舌のキュイジニエ 拝
★2026/1/12に【大改訂】しました。
・なぜ繕が小さくなったのか。→潔白を証明する歌にて結実
・断簡について繕が修復士の「業」と向き合います。
・怪異・堕落僧戦で覚猷が大ピンチに!
・制御を失った水龍の始末について
・相撲のところで戦いの記述を一部変更




