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3 別れの時

 

 切り口から煙が上がっている。

 繕の手には、短くなった絵巻だけが残された。

 雷鳴が止んだ。  

 雲の切れ間から、蒼白い月光が差し込んでくる。

 清涼殿の前は瓦礫の山だったが、不思議と静謐な空気に包まれていた。


 繕はその場にへたり込んだ。

 短くなった手足が泥だらけだ。  

 手の中の絵巻を見る。カエルやウサギたちは無事だ。

 彼らはまだ、紙の中で楽しそうに遊んでいる。

 だが、巻物の最後には、鋭利な刃物で切断された痕跡が、痛々しく残っていた。


「……継ぎ目」


 繕は呟いた。現代に残る『鳥獣戯画』甲巻。  

 そこには、物語の順序が入れ替わったり、唐突に終わったりしている箇所がある。

断簡(だんかん)」として、別の掛け軸になって残っている部分もある。  

 それは、経年劣化やヒトの手によって散逸しただけではなかった。  

 強大すぎる悲しみを封じるために、あえて切り離した名残でもあったのだ。


「……見事みごとなり、繕。」

 覚猷が、ボロボロになった体をひきずって近づいてきた。  

 彼は繕の肩に手を置き、切断面を覗き込んだ。


ことごとくをすくふは、かなはぬねがひなり。

 れど、ぬしは『きょう』をまもとおせり。 ……れにて、れり。」


「……道真公は、成仏できたんでしょうか」

「さあ……如何いかならん。 されど、みやここぼあらこころは、せたるごとし。

 断簡だんかんうちにて、 たれにもさまたげられず…… ひとしずかに、ぎんじおはすやもれぬ。」


 覚猷は空を見上げた。

 夜空に、梅の花のような形の雲が浮かび、ゆっくりと流れていく。  

 それはもう、雷を落とすことはなかった。


「……なあ、覚猷(かくゆう)。最後に一つだけ聞いていいか?」


「なんじゃ、改まって」


「あんた、俺と会う前から『入れ!』って怪異を絵巻に吸い込もうとしてたよな。普通の僧侶なら、数珠で縛るとか、壺に封じるとかするだろ。……なんで『絵巻』だったんだ?」

 覚猷は、きょとんとした後、懐の絵巻を取り出してニヤリと笑った。


「……打擲ちょうちゃくには、 いたればな。」

「え?」


「物のもののけどもは…… くだくとも、調伏ちょうぶくすとも。 なんじもうすごとく、当世とうせいの『なげき』そのものなり。

 ひとごうきざるかぎり、 奴原やつばらまたづらん。 さい河原かわら石積いしづみごとし。らば……むしろ『姿すがた』をへ、 かみうえしばけてくれん……とおもひてな。」


 覚猷は遠くの都の灯りを見つめた。


奴原やつばらもとは、 ゑたるたみたましひなり。 ほろぼすは、しのがたし。

 ……せめてかみうちにて、 くまであそばせんと、おもひしが……」


 彼はポリポリと頭をかいた。


法力ほうりきにては、 いたずらにひじかさぬるのみ…… しるしなかりき。

 其処そこぬしたりて、 ひじを『すみ』へとへたり。」

 覚猷は繕の方を向き、悪戯っぽく、しかし真剣な目で言った。


絵巻えまきは、 われが『慈悲じひ』と、ぬしが『わざ』。

 ふたそろひてはじめて、 彼奴きゃつらの『あそびのには』とりしことわりじゃ。」


「……そうか。あんたは最初から、あいつらを救おうとしてたんだな」


 繕は胸が熱くなるのを感じた。  

 この荒法師は、ただの暴力僧侶ではない。

 誰よりも深く深く、この時代の悲しみを見つめていた(おとこ)だったのだ。


「終わりましたね」

「ああ。れにて…… 絵巻えまきは、成就じょうじゅせり。」

 覚猷は繕から絵巻を受け取り、愛おしそうに撫でた。

 そして、懐から筆を取り出し、切断された末尾に、さらさらと何かを書き加える真似事をした。

 実際には何も書いていない。ただ、その心意気を封じたのだ。


「お疲れ様でした、覚猷」 繕が深く頭を下げる。

「……最高傑作ですよ」


ぬしがおらねば、らざりき」

「さて……」  

 覚猷は繕に向き直った。

 その瞳は、出会った時のような獰猛な光ではなく、穏やかな、慈愛に満ちた僧侶の色をしていた。

わかれのとき……いたりしごとし。 ぜん。」


 繕はハッとして自分の体を見た。指先が透けている。  

 現代への帰還が始まっているか?

 役目を終えた俺は、元の時代へ戻らなければならない。


「覚猷……俺、あんたに……」

ことごとくはかたるなかれ。 無風流むふりゅうなる挨拶あいさつは、にあらず。」

 覚猷はニカッと笑い、右手の拳を突き出した。  

 ゴツゴツとした、岩のような拳。数々の怪異を殴り、都を守ってきた拳。


ぬし御蔭おかげにて、 くまであそばせつべき、きょうあるにはりたり。

 ……千年ちとせさきにて、 ものどもたのたてまつるぞ。」

 繕は涙がこみ上げるのをこらえ、自分の拳を突き出した。

 それは、まだ柔らかく、紅葉のように小さな子供の拳だった。  

 だが、その手は間違いなく、歴史を守り抜いた職人の手だった。  

 消毒液と薬品の臭いがする、誇り高き職人の手。


「……任せてください。最高の状態で、守り続けます」


 こつん。  

 拳と拳が触れ合った。巨大な岩と、小石のようなサイズ差。  

 その刹那、繕の視界が白い光に包まれた。  

 平安の夜風。土と墨の匂い。

 そして、相棒の豪快な笑い声。  

 それらが急速に遠ざかり、意識が途切れていった。


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