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2 潔白を証明する歌

 

 涼殿せいりょうでん南庭なんていは、この世の終わりのごとき様相を呈していた。

 炭と化した老松おいまつが無残なむくろを晒し、腰を砕いた公卿くぎょうたちが、泥にまみれて戦慄わなないている。

 その阿鼻叫喚あびきょうかんの中心、災禍さいかみなもとに、一人の男がたたずんでいた。


 正装たる束帯そくたいみやびに着こなし、しゃく正眼せいがんに構え、静かにまなこを閉じている。


 だが、その身体は現世のことわりにあらず。

 半ば透き通り、内側から「紫炎しえんのごとき燐光りんこう」をあやしく立ち昇らせていた。

 男の足元から漂うのは、焼け焦げた臭いを塗りつぶすほどの、冷たく甘い梅の

 見れば、梅花ばいかの形をした紫電しでんが、次々とつぼみのように生まれては、パチパチとはかなく、そして致命的な音を立てて弾け飛んでいた。


『……私は……ただ……』


 男が口を開いた。  

 その声は雷鳴のように大きくはない。

 鈴を転がしたように澄んでいて、けれど聞く者の魂を直接鷲掴みにするような、冷たい響きを持っていた。


『ただ、みかど御為おんためにとこそ存じ上げたてまつりてさぶらひしか。などて、まこととはおぼしめさざりける……』


 身の潔白を信じてもらえなかった悲嘆(ひたん)の念が男の頬に紫色の雫となって伝う。  

 その涙が地面に落ちた瞬間。

 大地が割れ、光の柱が噴き上がった。  

 悲しみが深ければ深いほど、雷は激しくなる。  

 右大臣うだいじんのとき無実の罪で大宰府へ流され、失意のうちに死んだ天才詩人・菅原道真。


 彼の涙は、都を焼き尽くす天神様とまつられた後も鎮まらず悲憤の(しずく)となっていた。


菅原(すがわら)(きみ)! (しずまり)(たま)へッ!」

 覚猷(かくゆう)が前に出た。

 独鈷杵を両手で構え、渾身の法力を練り上げる。

 だが、その背中は小刻みに震えていた。


(ぜん)(はら)()ゑたか!

 (こや)つ、腕尽(うでづく)にて(ふせ)らるる相手(あいて)にあらず。

 (われ)()にて、(いかずち)(うけ)()めん! (その)刹那(せつな)(すき)に…… (ぬし)が『(すすぎ)』にて、(なげき)(あらひ)(なが)せ!」


「やってみます! でも……」

 繕の声は、変声期を遥かに遡った、鈴のような幼子の声だった。  

 繕は言い()どむ。本当に洗っていいのか?  

 これまでの怪異は、欲望や殺意といった「(けがれ)」がついていた。

 だから洗えた。


 だが、目の前の道真公にあるのは、悲しみと慟哭に揺れ動くあまりにも純粋な「心」そのものだ。  

 それを「(けがれ)」として扱っていいのか?


『還りたい……愛しき庭へ……東風こち吹かば 匂ひおこせよ 梅の花……』

 道真の霊体が、涙と共に詠う。その悲しみの波動だけで、繕の小さな体は吹き飛ばされそうになる。


「……あるじなしとて 春な忘れそ」  

 (ぜん)は、その下の句を静かに続けた。


 道真にかかわる全ての動きが止まる。

 紫色の雷を帯びた道真の瞳が、怪訝そうに繕を見下ろした。  

 その眼光は、大人の嘘を見抜く、冷徹な知性に満ちている。  

 もし今の繕が、三十路の分別臭い大人の男だったなら、道真は聞く耳を持たなかっただろう。

「どうせまた、口先だけの世辞おべっかだろう」と。


 だが、そこに立っているのは、五歳の童子だった。  

 無垢で、無防備で、それゆえに「嘘」がつけない存在。

『……(わらわ)よ。如何(いか)で、かの歌を知れる』


「千年後の未来じゃ、誰もが知ってる美しい名歌です。」  

 繕の声は、鈴を転がすように高く、澄んでいた。  

 そこには、相手を論破しようという計算も、媚びへつらいもない。  

 ただ、「あなたの歌が好きだ」という純粋な感嘆だけがあった。

 ……ああ、分かった。


 繕は、確信した。  

 なぜ、自分の体がここまで縮んだのか。  

 この「天神さま」と向き合うためだったんだ。


 策謀渦巻く宮中で、誰も彼もが仮面を被っていた時代。  

 道真公が最後に求めたのは、地位でも名誉でもない。  

 ただ、「自分の潔白ほんとうのこと」を信じてくれる、純粋な心だったはずだ。


「あなたの怒りも、悲しみも、全部『天神さま』として祀られて、みんなが手を合わせている。……だから、もう泣かないでくれ」

 繕は懐から『鳥獣戯画』を取り出し、大きく強引に広げた。


「カエルたち、頼む! この人を招き入れてくれ!」

 絵巻が光る。

 紙の中から、ウサギやカエルたちが心配そうに顔を出した。  

 彼らは手招きをする。


「こっちへおいでよ」

「一緒に遊ぼうよ」と。  


 道真の霊体が、ふと動きを止めた。

 楽しげな動物たち。

 平和な世界。かつて彼が愛した庭の風景。


彼処(かしこ)になら…… (われ)(よる)()、ありや……?』

 道真の体が光の粒子となって崩れ、絵巻へと流れ込み始めた。


「果はたしつるや!?」  

 覚猷が叫ぶ。

 だが、次の瞬間、繕の顔色は蒼白になった。


「だめだ……入らない!」

 絵巻から火が上がった。  

 道真の魂が絵巻の巻末に触れた瞬間、紙がその莫大な魂に耐えきれず、墨が赤く変色し、繊維が炭化し始めたのだ。


「キャァァッ!(熱い!)」

「ケロォッ!(きゃ無理ムリ!)」


 絵の中の動物たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。  

 道真の「悲しみ」は、あまりにも重すぎた。

 戯画あそびの世界に収まるには、あまりにも真剣だった。

 笑顔で遊ぶ動物たちの隣に、血の涙を流す天神様は共存できない。  

 世界観が、決定的に違う。


ぜん! はなて! 絵巻えまきもゆるぞ!」

 覚猷が叫ぶ。

 だが、繕の指は離れない。皮膚が焼ける音がする。

 柔らかなてのひらから煙が上がっても、彼は絵巻を離せなかった。


「だめだ! これは俺たちが……あんたと俺が守ってきた戯画だ!」

 ――手放せば、すべて無になる。 修復士の倫理が、職人の(ごう)が、警報を鳴らし続けている。 『オリジナルを破壊してはならない』 『現状維持こそが絶対の正義だ』


「……切れない!」

 繕は葛藤する。

「これは原型(オリジナル)なんだ! 未来へ『そのまま』残すのが俺の仕事だ……自分の手で破壊するなんて、できない!」


 道真の魂の熱量が絵巻を焦がし、中のカエルやウサギたちが、熱さに逃げ惑う悲鳴が聞こえる。 守るべき「戯画あそび」が、自分の執着のせいで死んでいく。


「繕!」

 覚猷の太い腕が、震える繕の手ごと絵巻を鷲掴みにした。

 その熱を、岩のような掌が共有する。

 覚猷が痛みに顔を歪めながらも、鋭く吼えた。


「『本来無一物ほんらいむいちもつ』……!かたち執着しゅうちゃくするはおろかなり……と、かのましらいたはたれぞ! ひとりして背負せおふな。れは、われらがつみなり!」


「……!」

 繕はハッとして、その叱咤の痛みに引きつった顔で笑った。 まったくその通りだ。

 俺は今、紙切れにすがって、かなしみたちを見殺しにしようとしていた。

 繕の目から迷いが消え、その幼き声には冷徹な職人の覚悟が宿っていた。

「覚猷、しっかり持っててください。……浄化できないなら……この『執着』ごと、切り捨てます!」

 メスを強く握りしめながら繕が叫ぶ。


『あな、(かな)しや……。 (はて)は、()()(よる)()など…… 何処(いずこ)にも()かりしか……』

 道真の嘆きと共に、雷光が再び激しさを増す。  

 行き場を失った魂が、自暴自棄になって爆発しようとしていた。


 繕はメスを構えたまま、キッと空を見上げた。  

 雨雲が割れ、そこから一筋の蒼白い月光が、道真の霊体を照らしていた。


「……ありますよ。この紙の中より、もっと広い場所が」


 繕は、心静かに、しかしきっぱりと伝えた。  

 それは呪文ではない。

 千年後の未来で、知る人ぞ知る「天神さま」の潔白を証明する歌だ。


「――(うみ)ならず!」

 繕の声に、道真が”はっ”として刹那に動きを止めた。  

 子供の高い声が、朗々と夜気に響く。


(たた)へる水の (そこ)までも……!」

 繕はさらに一歩踏み出した。  

 恐ろしい雷の奔流の中へ。  

 それでも誰かに分かってほしかった孤独な魂へ向かって。


(きよ)き心を、(つき)()らさん!!」

 喉が裂けそうなほどの叫び。

 この歌の意味を、道真自身が忘れるはずがない。


 ――海のように広くはないけれど、私の心の底まで、月は見通してくれているはずだ。

 かつて彼が詠んだ、無実を訴える血の叫び。

 それを今、千年後の未来から来た自分が突き返す!


 その言葉は、鋭いメスのように道真の胸に突き刺さった。  

『……! (その)(うた)は……。 よもや……()(よみ)し……』


「あなたの心は澄んでいる。……千年後の(みらい)は、ちゃんとあんたの潔白を照らしています!!!」

 繕は叫び、そして振りかぶった。  


覚猷(かくゆう)絵巻を広げて!!」

 これは拒絶の刃ではない。  

 地上の重力くびきから、彼を解放するための介錯だ。


「だから、還りましょう! 狭い紙の中じゃなく、あの広い空へ!」

「えぇいっ」

 掛け声とともに繕のメスが、絵巻の末尾以降を断ち切った。  

 切り離された”断簡(だんかん)”は、紫色の光に包まれてふわりと浮き上がった。


『……左様(さよう)か。 (とどき)たりしか。 (わが)(こころ)は……』

 道真の顔から、鬼の形相が消え、憑き物が落ちたような、穏やかな貴人の顔。

 彼は満足そうに微笑んだ。

 荒れ狂っていた黒雲が晴れ、夜空に美しい満月が顔を出した。

 その光は、雨に濡れた京都の町並みを優しく、青白く照らし出す。

 道真の霊は、穏やかな光の粒子となり、月の方へ昇っていく。


 最後に一度だけ振り返り、繕と覚猷に微笑みかけた。

見事(みごと)なり、(のち)()(わらわ)(され)(われ)は、(なんじ)(しめ)せし『(つき)』となり……(よる)(みやこ)見守(みまも)らん。』


「……はい。ずっと、ずっと見ていてください」

 繕が深く頭を下げると、月は一層輝きを増し、都の夜を静寂で包み込んだ。

 切り離された紙片は、蛍火のように淡く発光しながら、夜空へと舞い上がっていく。


 怨念の塊だった紫電は、優しい月光に溶け、星屑となって天の川へ還っていった。

 それはまるで、新しい星々が生まれたかのような、神々しい光景だった。



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