苦い水と、消えゆく指先
しとしとと降る雨の中、深夜の廃寺。
崩れかけた土塀の陰で、チロチロと燃える焚き火だけが、二人の影を照らしていた。
湯飲みの中に入れたのは、スティックタイプのインスタントコーヒーだ。
「……苦ッ!」
覚猷が顔をしかめ、湯飲みを遠ざけた。
「何度飲んでも慣れんわ。なんじゃこの泥水は。焦げた豆の煮汁か?」
「コーヒーです。……カフェインを摂らないと、頭がシャキッとしませんから」
対面に座る栂尾 繕は、湯気の立つカップを両手で包み込むように持っていた。
その仕草は、完全に子供のそれだ。
ここに来た当初は三十路の男の手には小さすぎた湯飲みが、今は逆に大きすぎて、まるでスープ皿を持っているように見える。
袖口もブカブカで、まくり上げてもすぐに落ちてきてしまう。
「……繕よ」
覚猷の声から、先ほどまでの豪快さが消えていた。
彼は焚き火越しに、繕の「手」をじっと見つめている。
「お主、また縮んだな?」
「……」
繕は答えず、ただ静かに黒い液体を啜った。
舌を刺すような苦味。子供の味覚に戻った舌には、それは毒物のように強烈だ。
だが、その刺激だけが、自分がまだ「大人の理性」を保っている証のような気がした。
「此処に来たりし折は、我とさして変はらぬ丈なりき。 されど先の戦にて一回り縮かまり……今は寺の稚児よりなほ小さし。」
(ここに来るときは、わしとそう変わらぬ背丈じゃった。それが先の戦いで一回り縮み、今では寺の小僧よりも小さい)
覚猷は独鈷杵を地面に突き立て、真剣な眼差しを向けた。
「その『若返り』、タダ事ではないな? 術を使う代償か」
鋭い。
繕は苦笑し、湯飲みを置いた。誤魔化しても無駄だろう。
この荒法師は、霊的な変化には敏感すぎる。
「……燃費の問題ですよ」
繕は自分の掌をかざした。炎の光を通して、指先がうっすらと透けているのが見える。
「俺の体は、この時代にあっちゃいけない異物です。精神だけで無理やり形を保ってるんだと思う。 俺の『眼』を使って怪異を解析したり、修復したりするのは、いわば魂を燃料にして燃やしているようなもんです」
「……魂を削りて、筆を執るか。阿呆めが」
(……魂削ってまで、描くってのか。 大馬鹿野郎が。)
「ええ。減った分だけ、器を小さくしてエネルギーを節約するしかない。 三十歳が十五歳になり、今は十歳……といったところですかね」
繕は淡々と語ったが、それは死への宣告に等しかった。
アストラルボディの維持限界。
質量保存の法則を無視して存在しているツケは、確実に払わされている。
「……あと、幾たびじゃ」 覚猷が短く問うた。
(あと何回じゃ?)
「猶ほ幾度、彼の荒業を為さば……主は嬰児に戻り、遂には『無』へと帰すか?」
(あと何回、あの『大技』を使えば……お主は赤子に戻り、そして『無』になる?)
繕は眼鏡の位置を直そうとしたが、顔が小さくなったせいで、眼鏡はずり落ちたまま止まらない。 彼はため息をつき、指を三本立てた。
「計算上、あと三回」
「!」
「三回、本気で力を使えば、俺の自我は消滅します。未来へ帰るための『芯』も残らないでしょうね」
沈黙が落ちた。爆ぜる薪の音だけが響く。
あと三回。
都に残る怪異は、まだ多い。比叡山の堕落僧、そして北野の天神様……。
明らかに足りない。
「……去ね。」
(……帰れ)
覚猷が絞り出すように言った。
「もはや、よし。此よりは、某が独りにて為さん。」
(もうよい。ここからは某一人でやる。)
「覚猷さん! まだ僕は……」
「主は、行末の世へ帰れ。今ならば、猶ほ及ばん。……よき夢を見せたな、繕。」
(お主は未来へ帰れ。今ならまだ間に合う。……いい夢、見させてもらったぜ。繕。)
「無理ですね」
繕は即答した。
そして、残りのコーヒーを一気に飲み干した。胃が焼けつくような熱さを感じながら、彼はニヤリと笑ってみせた。
その表情は、幼い顔立ちの中に、熟練の職人の矜持を宿していた。
「俺(修復士)は、依頼された仕事を途中で投げ出すことはしません。
それに……『鳥獣戯画』は、まだ完成していない。あんたが始末をつける様子を、俺はこの目で見届けたいんです」
「痴れ者め……。命に代ふべき業なぞ、有りやせぬ!」
(阿呆が……。命と引き換えにする仕事などあるか)
覚猷は吐き捨てたが、その瞳は潤んでいるように見えた。
夜の帳が下り、気温が急激に下がってきた。
繕がガタガタと震え出すと、その指先が陽炎のように揺らぎ、輪郭がぼやけ始めた。
覚猷はうなり声をあげ、焚き火のそばへ繕を引き寄せた。
覚猷は温まった石を布に包み、繕の懐に入れた。
「熱を逃すな。……消えて無くなりとうなくば、な。」
さらに彼は自分の着ていた法衣を脱ぐと、震える繕の小さな肩にバサリとかけた。
「寒からん。……冷ゆれば、其の分、身は削がれん。」
(寒かろう。……冷えれば、それだけ減るぞ)
「……あたたかいです。借りておきます」
繕は大きな法衣にくるまった。温かい。
千年前の人の体温。墨と、土と、線香の匂い。
「許さるるは、あと二度なり。」
(許されるのは、あと二回だ。)
覚猷が炎を見つめながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
「其れ以上は費やさすまじ。……残る泥は、此の覚猷が泥塗れとなりて被らん。道は空けてやる。主は、最後の仕上げのみを為せ。」
(それ以上は使わせん。……残りの泥は、この覚猷が泥まみれになって被る。お主は最後の仕上げだけをせよ)
「此よりは、我を覚猷と呼べ。名のみにて良し。」
(これからわしのことは覚猷と呼び捨てにするが良い。)
「……はい、相棒」
夜が更けていく。
小さくなった手と、大きな岩のような手。
二人は暗黙のうちに覚悟を決めていた。
次に訪れる夜明けが、あるいは二人で見られる最後の景色になるかもしれないことを。




