4 「賭弓(のりゆみ)に、水遊びか。……風流じゃのう」
きらきら、さらさら。
穏やかな川のせせらぎが聞こえる。
繕と覚猷は、濡れた河原に大の字になって寝転がっていた。
泥だらけの服が、日差しで少しずつ乾いていく。
「……息災※(そくさい)か、繕。」 (「息災※」は仏教用語で「仏の力で災害を防ぐこと」)
(……生きてるか、繕)
「なんとか……。覚猷さんこそ、無茶しすぎです」
「呵呵! 水底を歩むは、生まれて初なる心地じゃったわ!」
(カカッ! 水底を歩くのは初めての経験じゃったわ)
覚猷は体を起こし、傍らに落ちていた絵巻を拾い上げた。
そこには、さらに新しいページが加わっていた。
五匹のウサギと五匹のカエルが、弓遊びに興じている絵。さらに一匹のウサギは扇子を片手にもう片方には弓を携えていた。 的は、蓮の葉で作られている。
そしてその隣では、別の鳥獣たちが川に入り、泳いだり、飛び込んだり、水をかけたりしている。
かつて都を恐怖に陥れた疫病神と洪水は、今、楽しげな水遊びの風景として、紙の中に永遠に留められたのだ。
「賭弓に、水遊びか。……風流じゃのう」
覚猷が目を細める。
都の方角から、人々のざわめきが聞こえてきた。
それは悲鳴ではない。
水が引いたことを喜び、晴れ間を仰ぐ、安堵の声だ。
「空気が、変わりましたね」
繕が深呼吸をする。
肺に満ちていた瘴気は消え、雨上がりの土と草の匂いがした。
さらに荒れ狂っていた濁流が引き、河原には清浄な空気が戻っていた。
覚猷は濡れた法衣を絞りながら、満足げに頷いた。
「然り。これにて、主が申す『ういるす』とかやも、流れ失せにけん。」
(ああ。これでお主の言う『ウイルス』とやらも流れたじゃろう)
覚猷は立ち上がり、びしょ濡れの法衣を絞った。
じゃーっ、と水が落ちる。
「いざ、衣を干すがてら、次へ参らん。」
(さて、乾かしがてら、次へ行くか)
「えっ、まだやるんですか? 少し休みましょうよ」
「何を戯るる! 濡れにし身にて休らはば、かへりて悪しき風を招かん!」
(何を言う! 濡れたまま休んだら、それこそ風邪を引くわ!)
「動け! 動きて熱を生せ! さすれば衣も乾く道理よ!」
(動け! 動いて体温を上げろ! その熱で服を乾かす、そういう理屈だ!)
「えーっ」
覚猷は笑い飛ばし、歩き出した。
その足取りは軽い。
「次は山ぞ。近頃、怪しき経を誦る『猿』の噂ありてな。」
(次は山じゃ。最近、怪しげな経を唱えるサルの噂があってな)
繕が首を傾げた。
「お経を唱えるサル……? それって、鳥獣戯画のあの有名な『法会』のシーンじゃ……」
「ほう? 主は知りたるか。」
(ほう? お前、知ってるのか。)
「ええ。でも、本来はユーモラスな場面のはずです。それが『怪しい経』になっているとしたら……」
「まことの坊主と、化け物の猿。……どちらが良い経を読むか、比べごっこぞ!」
(本物の坊主と、化け物のサル……。 どっちが良いお経を読むか、勝負しようじゃねえか!)
覚猷の目が、ふと鋭くなったのを繕は見逃さなかった。
仏教の都である平安京において、堕落した僧侶ほど厄介なものはない。
それは単なる暴力ではなく、信仰心を利用した精神の毒だからだ。
「……分かりました。行きましょう、覚猷さん」
繕は立ち上がり、泥を払った。 ポーチの中のメスが、カチャリと鳴った。
二人は、虹のかかる賀茂川を背に、比叡山の方角へと歩き出した。




