2 「わが言(こと)の葉(は)を聞け!」
ばしゃぁぁぁん!
覚猷が着水した瞬間、水面が爆発した。
彼は独鈷杵を水面へ叩きつけ、真言を唱える。
「オン・キリ・キリ! 水天よ、我が道を開けぇぇッ!」
ごごごごご……! 信じがたいことに、荒れ狂う濁流が、覚猷を中心にして左右に割れた。
モーゼの海割れのごとく、川底の泥が露出する。
覚猷はその泥道を猛進し、水龍の柱へと肉薄した。
『小賢シキ……沈メ、沈メェェッ!』
(小賢シイ……沈メ、沈メェェッ!)
水龍が鎌首をもたげ、何トンもの水圧を伴って覚猷に襲いかかる。
「ぬんっ!」
覚猷は独鈷杵一本でその水塊を受け止めようとはした。
だが、相手は液体だ。
どぷん、と独鈷杵をすり抜け、覚猷の体を飲み込もうとする。
「物理攻撃が通じない……! 相性が悪すぎる!」
繕は土手の上で歯噛みした。
水龍は打撃を無効化し、何度でも形を変えて襲ってくる。
その上、頭上の射手たちが次々と矢をつがえ始めた。
きりり、きりり。
弓を引き絞る音が、雨音の中でも不気味に響く。
狙いは覚猷ではない。都の家々だ。
あの矢が一本でも街に落ちれば、そこから疫病が爆発的に広がる。
『逃レ場ハ無キゾ……皆、等シク病ヒニ伏スベシ……』
(逃ゲ場ハ無イゾ……皆、等シク病ミニ伏セルガヨイ……)
覚猷が独鈷杵を構え直し、脂汗を浮かべた。
「あな、口惜し……。 帝も乞食も選り好みせずとは、あくどき平等もあったものよ」
(くそっ、腹が立つぜ……。 天皇だろうが乞食だろうが、相手を選ばないとはな。 とんだ『タチの悪い平等』もあったもんだ)
「疫病に慈悲はありませんからね……。でも、対抗策がないわけじゃない!」
ひゅん、ひゅん、ひゅん!
十一本の矢が同時に放たれた。
その軌道はありえないカーブを描き、それぞれ別の家屋へと向かう。 自動追尾。
「させないッ!」
繕はポーチから「あるもの」を取り出した。
それは、ただの薄い和紙の束ではない。
現代の技術で作られた、超極薄かつ高強度のレーヨン紙。
修復現場で、繊細な顔料を抑えるために使う保護紙だ。
繕はそれを空中にばら撒いた。
「風よ、運んでくれ! 空間遮断!」
びゅうぅぅ。
雨風に煽られ、紙が舞う。
繕は<眼>で矢の軌道を読み、その予測線上に紙を割り込ませた。
紙ごときで矢が止まるわけがない。
だが、繕の真の狙いは「止める」ことではなかった。
すっ。
矢の先端が紙に触れた瞬間、矢の「意味」が変わった。
鋭い鏃が、紙を突き破るのではなく、紙に「吸着」したのだ。
【処置:余剰インクの吸い取り】
【応用:殺意の吸収】
修復士は、滲み出た余分な水分や汚れを吸い取り紙で吸い取る。
繕は矢そのものを「汚れ」と見なし、空中に漂う紙にそのエネルギーを転写させたのだ。
ぼふっ、ぼふっ。 恐ろしい疫病の矢は、紙に触れた瞬間に勢いを失い、ただの枯れ枝となってぽとりと落ちた。
『ナ、何ト……? 我レラガ 外レヌ矢ガ……』
(何ンダト……? 我レラガ必中ノ矢ガ……)
射手が初めて動揺を見せた。骸骨の顎がかくかくと震える。
覚猷がニヤリと笑い、独鈷杵を突きつけた。
「外れぬ矢なぞ、面白くもなし。
こなたには『予防』といふ、頑丈なる盾があるでな!」
(百発百中の攻撃なんて、つまらねえんだよ。 こっちには『予防』っていう、とびきり頑丈な盾があるんだからな!)
『面白クモ……ナシ……ト? サラバ、カクテハ イカニ……千ノ矢……万ノ病……!』
(面白クモナシダト・・ナラバ、コレナラドウダ……千本ノ矢……万ノ病……!)
射手が天に向かって弓を構えた。
上空の雨雲が渦を巻き、無数の黒い影が形成される。
雨粒のすべてを矢に変えるつもりだ。
空が真っ暗になるほどの攻撃に、繕は息を呑んだ。
これを防ぐ手立てはない。
「……集団感染爆発だ……! こんな量、防ぎきれません!」
覚猷が大きな声をかける。
「うろたふるな、繕! 雨が強ければ、傘を広ぐるまでよ!」
(慌てるな、繕! 土砂降りなら、傘をさせばいい。やることはそれだけだ!)
「そうだった、根本的な『設定』を変えるしかない!」
繕は叫んだ。
「言っても無駄だから飲み込んだ言葉」 の集積がカビの正体としたら、それは行き場を失った大量の言霊ということだ。
言霊が元となったものであれば、言霊を返せばよい。
今回の疫病の恐ろしさは理不尽にも「逃れられない」ことだ。
その「絶対性」が、この怪異の核だ。
――絶対? 必中?
繕の脳裏に閃きが走る。 矢が必ず的に当たる。
それは恐怖だが、文脈を変えれば?
「名手」だ。 百発百中の腕を持つ、弓の名人。
宮中の儀式にも「賭弓」という弓の競技がある。
そこにあるのは死の恐怖ではない。技を競い、的中を喜ぶ「晴れやかさ」だ。
「覚猷さん! 水龍を抑えて! 一瞬でいい、あいつの足場を固めてくれ!」
「無体なることを! ……ええ、南無三ッ!」
(無茶を言いおって! ……ええい、南無三ッ!)
覚猷は泥まみれになりながら、独鈷杵を逆手に持ち替え、自身の足元――川底の泥に突き刺した。
「大地よ、縛れ! 金剛縛ッ!」
(大地よ、縛れ! 金剛縛ッ!)
ずずずずず……! 川底の泥が急激に乾燥し、セメントのように固まった。 水龍の下半身が泥に固定され、動きが止まる。
『グ、ガ……動ケヌ……』
その隙を逃さず、繕は泥の斜面を滑り降りた。体が軽い。重力が弱まったかのように加速する。
手にはメスと、小瓶に入れた金粉(修復用の純金泥)。
金箔が「薄いシート状の金」であるのに対し、金泥は「粉末状にした金
を、膠という接着剤で溶いて泥状の塗料にしたもの」
「的を変えてやる!」
繕は水龍の体を駆け上がり、射手の目の前へと飛んだ。
小柄な体躯は、水龍にとっては蚊トンボのように捉えづらい。
射手が矢を放とうとする。その鏃が繕の心臓を捉える。
だが、繕は避けなかった。
そして金粉を空中に撒き散らす。
きらん。
雨の中に、金色の光の輪が生まれた。 それはいくつもの「的」の形を描き出す。
「わが言(こと)の葉(は)を聞け! おぬしらの矢は、人を殺すためのものじゃない! その腕前を見せつけるためのものだ!」
繕の言葉と共に、射手からあふれ出ていたドス黒い瘴気が、金粉と反応して変質していく。
【概念置換:疫病の拡散 → 技量の誇示】
【ターゲット変更:人体 → 的】
ひゅぱっ。 全員の射手の指から矢が放たれた。 それは繕の体をすり抜け――背後の空中に浮かんだ金色の「的」のど真ん中をそれぞれ射抜いた。 ぱーん! 乾いた、いい音が響いた。
『ア……?』
射手たちは自分の手を見た。
的の真ん中を射抜いた感触が、指先に残っている。
それは、生前決して味わえなかった、純粋な「達成感」だった。
『見事……我ガ手並ミ、見事ナリ……』
(見事……我ガ腕、見事ナリ……)
全員の射手の骸骨の面が割れた。
その下から現れたのは、長い耳を持つウサギやカエルの顔だった。
ただし、目は真剣そのもの。職人の目だ。
ウサギとカエルたちは嬉しそうに弓を掲げ、次々と空中の的を射抜き始めた。
ぱーん、ぱーん、ぱーん!
矢が的に当たるたび、降り注ぐ雨が浄化され、小雨へと変わって賀茂川の水位が下がっていく。
それに伴って水龍の大きさもぐんぐん小さく小さくなっていった。




