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1 俺たちが戦っているのは、妖怪や怪異ではない。この時代の『絶望』そのものだ。

 

   ざあざあ、ざあざあ。  天が裂けたかのような豪雨だった。  賀茂川かものがわの水面は膨れ上がり、黒い濁流となって都の東側を飲み込もうとしていた。


「……ひどいな」


 栂尾(とがのお) (ぜん)は、傘の代わりに被ったみのの隙間から、土手の下を見下ろして絶句した。

 その姿はみのが大きすぎて、まるで歩く藁山わらやまだ。

 中身の繕は、いまや十歳の童子どうじほどにまで縮んでいた。  

 雨に濡れた地面は、子供の短い脚には過酷だ。  

 川には、流木や瓦礫に混じって、人のものらしき桶や衣服、そして時には土左衛門(水死体)が流れていく。  

 だが、もっと恐ろしいのは「空気」だ。  

 雨の冷たさに混じって、甘ったるく、肺に絡みつくような瘴気が漂っている。


咳逆しわぶきやまいぞ、流行はやりておる。」

((せき)の病が流行っておる)

 隣に立つ覚猷かくゆうが、険しい顔で濁流を睨んでいた。

 この(せき)の病は現代のインフルエンザや流行性の風邪に相当するものが多く、当時は怨霊によるものとされ、加持祈祷による本人の生命力頼みの治療しかなかった。


 覚猷は時折、足元のおぼつかない繕の襟首を掴み、猫のようにヒョイと持ち上げて泥濘ぬかるみを越えさせていた。もはや相棒というより、はた目には保護者と迷子の様相になりつつあった。

 彼もまた、ずぶ濡れになりながら仁王立ちしている。


長雨ながめに、都人みやこびといきえなり。 そこへ瘴気しょうき……。 こは、ただの天変てんぺんにあらずぞ、繕。」

(この長雨で、都人の体力は限界じゃ。そこへ来てこの瘴気……。これはただの天災ではないぞ、繕)

「ええ、視えます」


 繕は曇る眼鏡を乱暴に拭った。

「……まただ。視界が曇る」  

 繕は眼鏡を外し、激しく咳き込んだ。雨上がりの都。なのに、空気は重く淀んでいる。

 繕の<眼>には、都全体を覆う 「黒いねっとりとした霧」 が見えていた。


【環境分析:高濃度「末法まっぽう」粒子】  

【性質:希望の酸化、精神の腐食、エントロピーの増大】


「これが……末法思想の正体か」  

 繕は戦慄した。  

 飢えや疫病そのものではない。


「『詮術せんすべなし』、『すえなり』……。 さなる人々のあきらめ、甲斐かいなしとみしなげきが、くうよどみ…… おおいなる『くろかび』となりて、みやこのどふさいでおるのよ。」

 (「どうせ救われない」「世の中は終わりだ」など人々の諦めという 「言っても無駄だから飲み込んだ言葉」が空気中に蓄積し、巨大な「黒カビ」となって都の呼吸を止めているのだ。)

「……カビ、ですか。僕ら修復士にとって、一番厄介な敵ですね。……」


 ブワッ。  

 路地裏で、死にかけた野良犬に黒い霧がまとわりついた。  

 すると野良犬の目が赤く濁り、牙をむいて巨大化し始める。


ぜん! はなれよッ!」

 (繕! 離れろ!)

 覚猷が犬を追い払うが、霧そのものを殴ることはできない。

「厄介なもんじゃ。この霧がある限り、どれだけ怪異を祓っても、次から次へと『再感染』しよる」


「……酸化か」  繕は呟いた。

「空気が、時代そのものを錆びつかせようとしている。」


 どんなに個別の修復をしても、保管環境(空気)が悪ければ、文化財はすぐに劣化する。  

 平安末期という末法の世そのものが、最悪の保管状態だったのだ。


「だから……『戯画あそび』が必要なんだ」  繕は気づく。  

 この重苦しい空気を変えるには、力でねじ伏せるのではなく、「笑い」という風穴を開けて、風通しを良くするしかない。


「覚猷さん。……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

まったく、もっともなり。 されどぬし、そのこわ姿すがたにて、禅問答ぜんもんどうかされむとは、おもひもおよばざりき。」

(まったく同意じゃが、お主のその(子供の)声と姿で禅問答を聞かされるとはおもわなかったぞ)


 ひゅん。


 風切り音が聞こえたかと思うと、川向こうの霧の中から、一本の矢が飛んできた。  

 狙いは正確無比で狙われたのは繕の眉間だ。


  「フンッ! あな、あやうし。」

  (ふんッ!危ないのう)


 がしぃん。  

 覚猷がとっさに突き出した独鈷杵どっこしょが、その矢を弾き飛ばした。  

 火花が散る。  

 弾かれた矢は、近くの柳の木に突き刺さった。  

 じゅぅぅぅ……。  

 矢が刺さった箇所から黒いシミが広がり、青々としていた柳の葉が一瞬で枯れ落ちた。


「……かすっただけで即死かよ」  

 繕は背筋が凍るのを感じた。


「ようよう、おましになりしか。疫神えきじん……と、そがる『けだもの』か。 ……あな、むさくるしき道中どうちゅう双六すごろくかな」

 (いよいよお出ましじゃな。疫病神やくびょうがみと、その乗り物か。やれやれ、むさ苦しいコンビだことか。)


 覚猷の視線の先。  

 濁流が渦を巻き、巨大な水柱が立ち上がった。  

 その頂点に、十一人の「射手」が立っている。  

 ボロボロの狩衣かりぎぬを纏い、顔には白い面をつけているが、その隙間からは肉が削げ落ちた骸骨の顎が見える。手には身の丈ほどもある巨大な和弓。  

 そして、彼らを乗せているのは、泥水が凝縮して形を成した、胴回りが朱雀大通りの道幅にちょうどおさまろうかという大きな大きな「水龍」だった。


『ゴ、ボ……ゴボボボボ……』 『たる……かならず、たる…… がさじ……』

(ゴ、ボ……ゴボボボボ……)( タル……必ズ、中タル……逃ガサヌ……)

 水龍の泡立つような咆哮と、射手の乾いた呟きが重なり合う。


【対象1:疫病の射手】  

【特性:絶対命中、感染拡大】  

【対象2:洪水の水龍】  

【特性:物理無効、質量圧殺、汚染】


 最悪の組み合わせだ。  足場はぬかるみ、相手は水の上にいる。  

 しかも、あの矢は「狙って」撃っているのではない。「当たる運命」を撃ち込んでいるのだ。


「いざ、ぜん! みずわれめん! そのひまに、ぬし射手いてをなんぞせよ!」

 (行くぞ、繕! わしが水をせき止める! その隙に貴様があの射手をどうにかせえ!)


此処ここにては水漬みづきなん。繕、絵巻えまきあずかれ。」

 (ここでは水浸しになってしまう。繕、絵巻を預かっておけ。)

 繕は慌ててキャッチし、服の中へ押し込んだ。

  「了解です! 覚猷さんはどうするんですか!?」


われは……水龍すいりゅうあそびとかん!」

 (俺は……水龍と一遊び(ひとあそび)してくるとするか!)

  覚猷は独鈷杵を構え、自ら濁流の中へ飛び込んだ。


 覚猷はそう叫ぶと、なんと氾濫する賀茂川へと飛び込んだ。


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