5 この絵巻、まだまだ余白だらけじゃぞ
「ふぅ……」
繕は、残った膠がこびりついた鍋を見つめ、疲れ切った息を吐いた。
「お疲れ様です、覚猷さん。酒瓶、無事でよかったですね」
「然り、然り! 此れ無くば、永き日も過ごし難し!」
(おうともよ。これがなくてはやってられん)
覚猷は取り返した酒瓶の栓を抜き、ごくごくと音を立てて喉を鳴らした。
そして、その口元を袖で拭いながら、繕の方へ瓶を差し出した。
「ほれ、お主も飲め。膠臭い口直しにちょうど良いぞ」
「俺は酒は……じゃあ、少しだけ」
繕は瓶を受け取り、一口だけ含んだ。
強烈な酸味と雑味のある濁り酒だ。
現代の精米された日本酒とは程遠い味だが、疲れた体には妙に染みた。
「……まずいですね。それに子供の舌だと酔いそうです。」
「呵呵! 直き者かな。 されど、此の味の悪しきこそ、生ける証なれ!」
(カカッ! 正直な奴め。だが、このまずさが生きている証拠よ)
覚猷は笑い、夜空を見上げた。
雲が晴れ、月が輝いている。
「繕よ。汝が技、確と見届けたり。 物を続ぐ膠をもて、かの者が足を留めしこと、 さながら蜘蛛の如とし。」
(繕よ。お主の技、確かに見届けた。物をくっつける膠で、あやつの足を止めるとはな。まるで蜘蛛じゃ)
「修復士は、あるものを何でも使いますから」
「うむ。……次はいかにせん。この絵巻、いまだ白き地あまた残れるぞ。」
(ふむ。……次はどうする? この絵巻、まだまだ余白だらけじゃぞ)
覚猷が広げた絵巻には、まだ長い長い白紙が続いている。
この時代の闇は深い。
疫病、天災、聖職者や貴族の堕落、そして菅原道真の怨霊。
これから立ち向かうべき敵は、単なる力自慢の鬼や、すばしっこい泥棒とは桁が違うだろう。
「行きますよ。全部埋まるまで、帰れそうにありませんから」
「その意気やよし! いざ、次なるは水の辺へ参ゐらん。 聞くならく、水神の荒れ御魂、猛り狂ふとかや!」
(その意気じゃ! さあ、次は水辺へ行くぞ。なにやら水神が荒ぶっておるらしい)
覚猷は立ち上がり、独鈷杵を帯に差した。
繕は道具を片付け、洗浄したばかりのメスを光にかざした。
小さな鳴き声がした気がした。
それは絵巻の中から聞こえた、鳥獣たちの感謝の声だったかもしれない。
夜明け前の都を、二つの影が歩いていく。
足取りは重いが、その背中には確かな信頼と、ほんの少しの「遊び心」が芽生えていた。




