1. 文化財保存修復室
この物語はフィクションです。
かつて、この国には「鬼」がいた。 「疫病」がいた。 「怨霊」がいた。
それらはどこへ行ったのか?
――耳を澄ませてほしい。 紙の上の、墨の彼方から。 楽しげな「カエルの歌」が聞こえてくるはずだ。
『戯画の庭』 開門。
東京国立博物館、平成館の裏手。 一般の来館者が決して立ち入ることのできないエリアに、その部屋はあった。
文化財保存修復室。
温度上がると紙の酸化や変色が早まることがあるため21℃前後と年間通してほぼ一定に、湿度も乾燥しすぎや湿りすぎは文化財に重大なダメージを与えるため55~60%前後とほぼ一定に保たれている。
刀剣や金属類などは状況によってさらに低い湿度に保たれるなど細やかな配慮がなされていた。
それをコントロールできる恒温・恒湿空調機により徹底管理され、外気を取り入れる際もケミカルフィルターにより劣化原因物質を除去されている部屋の空気は、年中変わらず冷やりとしていて、どこか病院の手術室を思わせる。
漂うのは、古びた紙の甘い匂いと、微かな薬品の臭気。 だが、そのわずかな臭気すらも局所排気によって浄化されている。
ここにあるのは、日本の歴史そのものだ。千年の時を超えた仏像、経典、刀剣。それらが満身創痍の体を横たえ、修復士達の治療を待っている。
深夜0時。静寂に包まれた室内で、ただ一人、顕微鏡を覗き込む男がいた。 その日、興が乗り効率が上がったことに高揚した栂尾 繕は、残業予定時刻を大幅に超えて繊細な作業を続けていた。
ピンセットの先で和紙の繊維を一本だけ撫で、小さく息を吐き独白する。
「……定着、完了。これで十年は持つ」
繕が顔を上げると、レンズ越しの極彩色の世界から、無機質な蛍光灯の現実に引き戻される。
彼は文化財修理技術者だ。傷ついた文化財を化学的見地と確かな技術で蘇らせる、歴史の医師。
だが、彼には同業者に明かしていない「特異体質」があった。
――モノのありようが、なんとなく視える。
オカルトじみた感覚ではない。
対象を見た瞬間、その素材の劣化具合、混入した不純物、あるいは染み付いたものが、視覚情報としてノイズのように浮かび上がってしまうのだ。
彼自身の言葉によると、『エラーコードが視界にポップアップする』感覚に近い。
その感覚のおかげで、彼は若くして業界屈指の腕利きと呼ばれていた。
「さて……次は大物だな・・今日は状況だけを確認するか・・。」
繕は手袋を交換し、作業台のメインスペースへと向き直る。
そこに鎮座しているのは、日本美術史上、最も有名と言っても過言ではない絵巻物。
国宝・紙本墨画鳥獣人物戯画。甲巻。 通称 鳥獣人物戯画。
擬人化されたウサギやカエル、サルたちが生き生きと遊ぶ姿を描いた、日本最古の漫画とも当時の人間社会を風刺したものとも称される傑作である。京都の高山寺に伝わる国宝の絵巻物で甲巻、乙巻、丙巻、丁巻からなり、現在では平安時代末期から鎌倉時代にかけて別々に描かれたという説が知られ、現在も多くの謎に包まれたミステリアスな絵巻物となっている。
今回の依頼は、経年劣化による剥落止めの処置。定期的なメンテナンスの一環だ。
繕は慎重に巻物を広げた。 照明の下、約九百年前の墨の線が躍る。
相撲を取るカエル、逃げるウサギ。作者不明とされるその筆致は、現代の目で見ても驚くほど達者で、そして何より「楽しそう」だった。
「いつ見てもいい線だ。……ん?」
繕の目がその第十一紙、有名な相撲のシーンの手前で、あるはずのない「黒いシミ」が脈打っていた。
「……成分分析には出なかったぞ。なにこれ?仕事のしすぎか。」
眼をこらしていると繕の感覚が警告を鳴らす。
黒いシミは、インクを水に垂らしたように爆発的に膨張し、紙面から「あふれ出し」た。
じゅわっ。肉が焼けるような音と共に、黒い墨に変化して繕の腕を掴んだ。
『――怨……ミ……』
その総毛立つ気持ち悪い感触に、繕は戦慄した。これは単なる汚れではない。
長い時を経て蓄積された悲しみに繋がってしまったと感じた。
「離せッ! この!」
黒い墨から繕が国宝を守ろうと繊細な修復を行うときに用いる圧倒的な切れ味と精度を併せ持つ医療用メスを振るった瞬間、視界が反転し、意識は闇の底へと引きずり込まれる。
修復室の白い壁が溶け落ちる。
床が抜け、無限の暗闇へと落下していく。
重力が消失し、時間の感覚が引き伸ばされる。
極彩色の走馬灯の中で、繕は見た。
燃え落ちる都。
飢えと疫病に苦しみ、道端で朽ちていく人々。
その死体から立ち上る黒い煙が、空を覆い、形を成していく様を。
――これは、歴史だ。 教科書には載らない、「穢れ」としての歴史の澱。
鳥獣戯画が描かれた平安末期。
それは決して雅なだけの時代ではない。末法思想が蔓延し、誰もが救いを求め、そして飢えと絶望の中、死んでいった暗黒の時代。
繕の意識は、黒い濁流に飲み込まれ、完全に途絶えた。




