満ちる器
俺の身体は、もはや俺自身のものではなくなっていた。
肌は、血の気を失い、水を吸った和紙のように青白い。触れると、ひやりと冷たく、常にじっとりと湿っている。体温計の数字は、三十五度を少し上回るだけだった。真夏の盛りだというのに、俺はセーターを着込み、ガタガタと震えていた。
そして、何よりも耐え難いのが、喉の渇きだった。それは、単なる生理現象ではなかった。魂が、その存在の根源から、水分を求めて叫んでいるかのような、絶対的な渇望だった。サーバーの水を飲めば飲むほど、渇きはさらに増していく。俺の体は、彼らの水を受け入れるための、ただの器に変えられつつあった。
「井戸の底の夢」は、もはや悪夢ではなかった。それは、俺が還るべき故郷の光景になりつつあった。井戸の底のヘドロの感触、見上げた時の蒼白い月の光、そして、俺を見下ろす村人たちの、無言の期待。それは、恐怖ではなく、安らぎと、ある種の使命感さえ感じさせるようになっていた。
『はやく、こちらへ』
『我々と、ひとつになるのだ』
『お前が、我々の渇きを癒やすのだ』
その声は、夢の中だけでなく、現実でも聞こえ始めた。壁の中から、床下から、そして、サーバーのボトルの中から、囁き声が響いてくる。俺の精神は、確実に彼らの集合意識に侵食され、個としての輪郭を失いつつあった。
違約金を払ってでも、この連鎖を断ち切る。それが、俺に残された最後の理性だった。俺は、震える手でスマートフォンを握りしめ、アクア・エデン社に電話をかけた。
「…解約だ!金なら払う!今すぐサーバーを撤去しろ!」
電話口に出たのは、あの平坦な声の女だった。だが、今度の彼女の声には、抑揚のない中に、確かな歓喜の色が滲んでいた。
「もう、その必要はございません、相田様」
「どういう意味だ…?」
「お客様は、選ばれたのです。我々の、新しい『源泉』そのものとなられるのですから。誠に、おめでとうございます」
その言葉を最後に、電話は切れた。直後、部屋のウォーターサーバーが、ブーン、という低い唸り声を上げ、青白い光を放ち始めた。見ると、ボトルのキャップがひとりでに外れ、中の水が、まるで生き物のように盛り上がり、溢れ出してくる。
水は、滝のように床へと流れ落ち、あっという間に足首まで浸水させた。それは、ただの水ではなかった。氷のように冷たく、そして、無数の怨念を溶かし込んだ、重い液体だった。
「来るな…!」
俺は後ずさろうとしたが、足が動かない。水の中から、蒼白く、ふやけた無数の手が伸び、俺の足首を掴んで離さないのだ。水面が、ゆらりと揺れ、失踪した村人たちの、表情のない顔が、次々と浮かび上がってきた。
彼らは、俺を取り囲むと、その身体を俺に重ね合わせるように、溶け込んできた。冷たい水が、皮膚を突き破り、血管を駆け巡り、俺の体内の水分と入れ替わっていく。俺の意識が、記憶が、感情が、三十七人の怨念の中に、急速に溶けていく。
ああ、これが、「潤う」ということなのか。
渇きから解放される、この途方もない安堵感。孤独の終わり。すべてが一つになる、この絶対的な充足感。
俺は、もう、相田隆ではなかった。
俺たちは、新たな潤いを求める、龍神の井戸そのものだった。
俺の口から、俺のものではない、幾重にも重なった声が漏れた。
「ああ…やっと…満たされる…」
俺の身体から、青白く輝く水が、とめどなく溢れ出した。それは、この乾ききった灰色の部屋を満たし、ドアの隙間から溢れ、マンションの廊下を濡らし、やがて、この渇いた都会そのものを潤す、新たな『奇跡の水』となるだろう。
そして、また一人、どこかの孤独な魂が、我々の囁きを聞きつけ、新たな契約を結ぶのだ。この、永遠に癒えることのない渇きを、分かち合うために。




