渇望の契約
俺、相田隆の人生は、灰色で乾いていた。
都心のワンルームマンションで、システムエンジニアとして在宅勤務をこなす毎日。窓の外に見えるのは、隣のビルの無機質な壁だけ。人との会話は、ビデオ会議の画面越しか、コンビニの店員との「温めますか?」という定型句のやり取りくらいのものだ。三十歳を過ぎ、友人たちは次々と家庭を持ち、社会的な地位を築いていく。一方の俺は、ひたすらコードを書き、バグを修正し、仮想のサーバーを監視するだけの、代替可能な部品のような存在だった。
心は、とっくの昔にささくれ立っていた。焦燥感と孤独感が、じりじりと魂の水分を奪っていく。その渇きを癒やすように、俺はインターネットの海を彷徨った。「QOLの向上」「丁寧な暮らし」「自己投資」。そんな耳障りの良い言葉たちに、俺は救いを求めた。オーガニック食品、高級なマットレス、そして、「水」だった。
人間の体の七割は水でできている。ならば、その根源である水を最高のものにすれば、この乾ききった人生も、少しは潤うのではないか。そんな安直な考えから、俺はウォーターサーバーの比較サイトを漁るようになった。
数多ある業者の中で、ひときわ俺の目を引いたのが、「アクア・エデン社」が提供する『天然アルプスの奇跡の水』だった。
ウェブサイトは、洗練の極みだった。雄大な山々の映像、雪解け水が岩に染み込み、悠久の時を経て磨かれる様をCGで再現した動画。そして、利用者の声として掲載されているのは、誰もが知るモデルやインフルエンサーたちの、輝くような笑顔だった。
『この水を飲み始めてから、肌の調子が見違えるほど良くなりました』
『朝の目覚めが、まったく違います。体の内側から浄化されていく感じ』
謳い文句も詩的で、俺の承認欲求を巧みにくすぐった。
―――あなたの身体は、神聖な聖域となる。
―――一口ごとに、生命は原初の輝きを取り戻す。
採水地:長野県神水村 秘境『龍神の井戸』
神水村。聞いたことのない地名だったが、その秘境めいた響きが、逆に俺の心を捉えた。月額料金は他社より二割ほど高かったが、これは未来の自分への投資だ。俺は、まるで何かに憑かれたように、申し込みフォームに個人情報を打ち込んでいた。
数日後、アクア・エデン社の配達員がやってきた。清潔感のある真っ白な制服に身を包んだ、感情の読めない、能面のような顔の男だった。彼は、サーバーの設置場所を尋ねる以外、一言も発さなかった。ただ、その目が、値踏みするように俺の部屋全体を、そして俺自身を観察しているようで、少し気味が悪かった。
設置されたサーバーは、無駄な装飾を一切排した、ミニマルで美しいデザインだった。青く輝くボトルが、まるでオブジェのように俺の殺風景な部屋を彩る。男が帰ると、俺は早速、付属のグラスに最初の水を注いだ。
一口、飲む。
「……うまい」
思わず、声が漏れた。それは、俺が今まで飲んできたどんな水とも違っていた。硬質で無機的なミネラルウォーターとは一線を画す、驚くほどまろやかで、ほんのりと甘みさえ感じる、絹のような舌触り。水が、喉を通り、食道を下り、胃に収まるまでの軌跡が、はっきりと感じられる。乾いた大地に染み込む最初の雨のように、その水は、俺の体の隅々にまで、優しく染み渡っていった。
その日から、俺の生活は変わった。朝起き抜けの一杯、仕事の合間、食事の時、そして寝る前。俺は、強迫観念に駆られたように、その水を飲み続けた。コーヒーや茶を淹れるのも、米を炊くのも、すべてサーバーの水を使った。水道水は、カルキ臭い毒物のように思えて、もう飲む気にはなれなかった。
不思議なことに、ウェブサイトの謳い文句は、本当だった。肌の乾燥は収まり、寝起きの気だるさが消えた。仕事の効率も上がり、何より、精神が安定しているのを感じた。俺は、正しい選択をした。この水が、俺の人生を良い方向へ導いてくれる。俺は、心からそう信じていた。
最初の異変は、契約から一週間が過ぎた、月曜の深夜に起こった。
その日も、俺は深夜まで仕事に追われていた。静まり返った部屋に、キーボードを叩く音だけが響く。ふと、集中が途切れた瞬間、俺の耳は、異音を捉えた。
ガコン。
それは、ウォーターサーバーの注水レバーが、強く押し下げられた時に鳴る音だった。
俺は一人暮らしだ。この部屋に、俺以外の人間はいない。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。空耳か? だが、音はあまりに明瞭だった。俺は息を殺し、サーバーの方を凝視する。暗闇の中で、青いボトルがぼんやりと光っている。それ以上、何も起こらない。
見間違い、聞き間違いだ。疲れているんだ。俺は自分にそう言い聞かせ、仕事を切り上げてベッドに潜り込んだ。
その夜、俺は夢を見た。
暗く、深く、どこまでも続く、井戸の底にいる夢だった。手足の自由は利かず、ただ、水底のヘドロに半身を埋めたまま、上を見上げている。円く切り取られた空には、蒼白い月が浮かんでいた。
助けてくれ。叫ぼうとしても、声にならない。口から漏れるのは、ごぼり、という空気の泡だけだ。
そして、俺は気づく。井戸の縁から、誰かが、俺を覗き込んでいることに。
それは、一人ではなかった。何人も、何十人も。黒い人影が、ただ、無言で、俺を見下ろしている。
彼らの顔は見えない。だが、俺にはわかった。彼らは、俺に「期待」しているのだ。俺が、この井戸の底で、何かを成し遂げることを。
その、無言の圧力に耐えきれなくなった時、俺は叫び声と共に目を覚ました。全身は、寝汗でぐっしょりと濡れていた。喉が、焼け付くように渇いていた。
俺は、夢遊病者のようにベッドから這い出すと、キッチンへ向かい、サーバーの水を、グラスに三杯、立て続けに呷った。冷たい水が、悪夢の熱を冷ましていく。だが、あの井戸の底から見上げた、蒼白い月の光景だけは、脳裏に焼き付いて、消えなかった。
その日から、毎晩、俺は同じ夢を見るようになった。そして、深夜の「ガコン」という注水音は、気のせいなどではなく、確実に、俺の部屋で鳴り響いていた。
誰かがいる。
俺の留守中に? いや、俺はほとんど家にいる。俺が眠っている間に?
俺は、自分の部屋が、自分だけのものではないという、じっとりとした恐怖に、少しずつ蝕まれ始めていた。そして、何よりも不可解なのは、サーバーの水の減りが、異常に早いことだった。俺一人で飲んでいる量とは、到底思えなかった。
まるで、この部屋にいる「もう一人」の誰かもまた、この『奇跡の水』を、俺と同じように渇望しているかのように。




