いくらフライパンがあっても
手には、フライパン。そしてドレスの裾は馬車の中で膝の上、更に太もも辺りまでたくし上げて、足を動かせるようにしておいた。
「何しやがるっ」
「おい、捕まえろ!」
もっとも、馬車を出たら屈強な男が十人近くいた。いくらフライパンがあっても、この男達全てを倒して遠くまで逃げられるとは、流石にクララベルも思っていない。
だが、小説の知識に寄れば帝都に向かっていた辺境伯が、殺されたばかりのクララベルの死体と遭遇し、彼女を追いかけてきた体の皇帝に責められるのだ。殺されたばかり、つまりしばらくすれば辺境伯・ウィラードがやってくるのである。
だからクララベルは、必死に抵抗して辺境伯が来るまでとにかく生き延びようと思った。
「来ないで!」
その為にクララベルは動きやすい格好になり、フライパンを振り回して必死に彼女を捕まえようという、男達の手から逃げ回った。遠巻きにされ少しずつだが前に進むけれど、そんな彼女の肩が不意に背後から掴まれる。
「このじゃじゃ馬が!」
最初にフライパンで殴られた男がクララベルを捕まえて、放り投げるように地面に転がした。そして起き上がる前に馬乗りになり、クララベルを剣で突き刺そうとする。
「い、や……っ!」
「……ヒュッ」
「っ!?」
意地と根性で、握ったままのフライパンを何とか持ち上げて、剣を防ごうとしたクララベルだったが──そんな彼女の前で男は喉を弓で射られて、クララベルの上から転倒した。
「ぐっ!」
「おい、誰……ガッ!?」
周りの男達も、次々と悲鳴を上げて倒れていく。そして、いくつもの足音がクララベルに近づいてくる。
「おい! 大丈夫か!?」
呆然とするクララベルに声がかけられ、駆け寄ってきた相手から手を差し伸べられた。
確か、この頃の年は二十歳の筈だ。艶やかな黒髪。深く、鮮やかな緑の瞳。端正な面差し──小説を読んで想像していた通りの、いや、想像以上の美形だった。彼を見たら、確かにエリザベスも『血塗れ辺境伯』と蔑んでいても、手のひらを返して口説くだろう。
……彼に会えたということは、クララベルは無事に生き残れたのだ。
先のことは解らない。だが、少なくとも小説冒頭で読んだ『死体』になることは防げたのだ。
「は、はい。大丈夫です……ありがとう、ございます」
ぽろぽろ、ぽろぽろ。涙が溢れて止まらない。
それでも何とかお礼を言い、辺境伯ウィラードとこうして出会い──その手を取ったことで、クララベルは己が生き延びたことを実感した。




