桜舞う季節に
春は出会いの季節、そして別れの季節でもある。
桜の花びら舞い散るこの季節に、いったいどれほどの出会いや別れに遭遇してきたのだろうか。
ふと、考え込む少女の姿がここにある。
まだ真新しい制服に身を包む少女。晴れて高校一年生になった、吉原栞は、桜の木のトンネルの下を通りながら考えていた。新しい学校には、まだ慣れるのに少々時間がかかる。それでも日を追うごとに慣れていき、当たり前のように高校生として生活していくのだと思っていた。
何もなく、ただ平凡に。
しかし、事態は急展開を見せる。
高校の校門に差し掛かった時、必ず校門には風紀委員が立っており、日々生徒の風紀を厳しくチェックしている。その風紀委員の目を潜り抜けて通る生徒、真面目に拘束を守りキチンとした格好で通る生徒、それは様々だ。栞はどちらかというと、校則を忠実に守っている生徒の一人だと思う。髪は染めることなく漆黒の如く真っ黒で肩の長さで切り揃えてあるし、制服のスカートの丈は膝まで、高校生になったからといってここぞとばかりに派手にグロスを塗ったりメイクを施しているわけでもない。メイクをしなくても目はほどよく大きく、鼻筋も通っている。肌の色は真っ白……ではないが、そこそこ白いくらいだ。平均並みの身長に、平均並みの体重。よって風紀委員には捕まった事がなかったのに。なぜ、この日はその歩みを止められてしまったのだろうか。
「そこの一年生、ちょっと待って」
突然呼び止められ、栞は少々焦っていた。と、同時にドキドキと心臓が早鐘を打つ。
何か校則を破るようなことをしてしまったのだろうか……。
栞はドキドキする胸を押さえながら、風紀委員の前に立った。
ドキドキする原因は校則違反をしてしまったのだろうか、ということだけではなさそうだ。風紀委員の中でも飛びぬけて厳しい、風紀委員長の柴田潤平に捕まったことで心拍数を上げたようだ。細く鋭い目の彼は、端正な顔立ちをしているが人を寄せ付けぬようなオーラを放っている。そんな彼に憧れる女生徒も男子生徒も多い。彼は厳しく、何人もの生徒を捕まえては風紀を乱すことを許さぬ、と目を光らせている。そして、そんな彼を疎ましく思う生徒も沢山いた。だが、恐ろしく美しい顔立ちの彼。何人もの女性徒を虜にしては何人も泣かせている。そんな彼に惚れてしまった一人、栞はドキドキを抑えるのに必死だった。
潤平の傍に歩み寄り、俯いていた顔を上げて小さめの声で恐る恐る訊いてみた。
「あの、何か違反でもしましたでしょうか」
「いや、違反はしていないよ。ただ、これをどうしても君に渡さなくてはいけないと思って」
潤平に手渡されたのは、一昨日、失くしてしまったと思っていた生徒手帳。ピカピカの生徒手帳には、色々と高校生活を送る為の大切な事柄を書き込んでいた。それを見られてしまったのかと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうなほど真っ赤に染まってしまう。しかし、そんな彼女の気持ちを察したのか、潤平は慌てて言葉を繋げた。
「あぁ、中は見てないから。一応確認したのは、君の名前が書いてある表紙だけだ」
「あ、ありがとうございます」
「しかし……入学早々、生徒手帳を失くすなんて、感心しないな」
「すみません」
何も言い返したりはできない。確かにこんな入学してから一週間ほどしか経っていない時期に、生徒手帳を失くすなど、自分でも情けないと思っていたほどだったから。何度も、何度も探したのに見つからない生徒手帳。頑張って頑張って勉強をして、ようやく受かることのできたこの高校の生徒手帳を失くしてしまったのだから、そう簡単には諦めたりしてはいなかった。今日にでも先生に聞きに行こうと思っていたところで、まさかの風紀委員長から差し出されたのだ。驚きを隠せなかった。
「はい、もう失くさないように」
「すみませんでした。ありがとうございます」
「あ……と、ちょっと待って。動かないでね」
そっと栞の頭に潤平の手が触れる。栞の心臓は壊れそうなほどの速さで鼓動を打っていた。やがて潤平の手が離れ、栞の目の前に差し出されたのは一枚の桜の花びら。
「花びらついてた」
「ありがとうございます」
花びらを受け取り、お辞儀をしてから潤平と別れた栞は、浮き足立ったまま教室へと向かっていた。
入学式で見た彼の姿は、体育館の壇上で新入生に向けて風紀について語っている、それはそれは凛々しい姿。一目で心を奪われてしまった。
初めてのヒトメボレ。こんな事もあるのかと、栞は高校生活を心の底から楽しみにしていた。
教室に入った栞は自分の席に着き、そっとその生徒手帳を広げる。その中はスケジュール帳のようになっていて、栞はカバンの中から出したペンケースから赤ペンをそっと取り出し、今日の日付にマルをつけた。そして、さきほど取ってもらった桜の花びらを手帳に挟んだ。
初めて、憧れの先輩と言葉を交わした記念に。
その赤丸の印と花びらを見るたびに、頬が緩むのがわかる。わかるけれどどうやったら治るのか、本人にもさっぱりわからないようだ。両頬をピシャピシャと軽く叩き、頭を振ることでいつも通りの表情に戻そうと必死だ。
まもなく授業が始まり、黒板にさらさらと書かれたことを必死にノートに写していた。先生の言葉は半分以上頭に入ってこない。なにしろノートをとる分量が半端じゃない。進学校のここの高校は、授業の進み方も早い。ついてこれない者はおちこぼれとして扱われてしまう。よって、一年のときから塾に通い、必死に勉学に勤しむ者も沢山いる。栞も塾を考えていた。この高校への入学は憧れていたけれど、ギリギリで入った為授業内容に追いつけないのだ。ノートばかりをカリカリ書き込み、気付けば授業が終わっている。いつもそんな調子で、授業に全くついていけていない。
このままでは、確実におちこぼれになってしまう……。
栞を包む不安要素。入学してすぐにこれでは、親も呆れてしまう。ノートすら取りきれず、挙句の果てに黒板を日直に消されてしまう始末。どれほど自分の鈍臭さを呪ったことか。しかし、栞の近くには天使がいる。
「栞、ノート貸そうか?」
「ホント? 借りてもいいの?」
「どうぞ。もうこの辺りは、塾で習い終わってるから大丈夫だし」
「ありがとう!」
クラスメイトの木原雫。栞とは同じ中学からこの高校に入学した、唯一の友人だ。しかし、彼女は栞と違って頭がいい。昔から塾には通っており、進学校の授業よりも先に進んでいる。頭の出来が違いすぎるのだろうか、栞はいつも彼女にノートを借りていた。
ノートを借りた栞は、放課後になると図書室で一所懸命ノートを写していた。復習も兼ねて、図書室の閉館時間までいる常連の一人になってしまっていた。図書室はあまり利用者がいない。自習室という、PCを備えた教室があり、そちらの方が自習しやすいことで利用者はあちらに殺到していた。しかも個別についたてがある為、集中しやすいのだ。図書室はそういったついたてがなく、広い机に何人かの生徒が座る形になっている。利用者は減る一方だが、閑散としたその空間が、栞にはありがたがったのだ。これで、ノートを写す作業も復習することもできる。ゆったりと流れるその時間を、一人で過ごす放課後。それも悪くない、栞はさらさらとノートを写していた。
「随分、丁寧に書くんだね」
突然空から降ってきた言葉に驚いて、声のした方を向いた栞。そして再び驚いた。声の主は、風紀委員長の潤平だったからである。
「あぁ、すまないね。突然声をかけて。今朝、顔を合わせた……」
「柴田……先輩」
「よく名前まで知っていたね」
「入学式で、ご自分の名前を仰ってましたから」
「そうか。確かにそうだったな」
くすっと笑うその表情に、釘付けになってしまう。
いつも無表情で何を考えているか分からない、風紀の乱れがなければそれでいいんだろうと影で言われている潤平の、貴重な笑顔を見る事が出来た瞬間だった。ますます、その笑顔に見惚れてしまう。隣に腰をかける潤平と少しずつ距離が近づいていく。カリカリとノートを取っている栞の横で、静かに本を広げる潤平。まるで、隣にいるのがとても自然なことのように。あんなに緊張していたのに、どうしてこんなに安心できて自然でいられるのだろうか。お互いに、心穏やかな時間を過ごしていた。
そんな日が何日も続いた。図書館でノートを写し復習していては、潤平が声をかけて隣に座る。何日も何日も、日課のように続いていて、お互い笑顔で会話をする日が多くなっていく。栞は嬉しくて嬉しくて、毎日が春のように嬉々としていた。しかし、春のような気分が一気に嵐に変わってしまったのだ。
図書館へと向かい廊下を歩いていると、廊下の窓から見える中庭に、男女の姿が見える。そして、その女生徒が男性の方にそっと身を任せ、お互い抱き合っている。見てはいけないとは思っていても、なんとなく見てしまった栞。次の瞬間、気付いたことはその男性が潤平だったということ。
心が切り裂かれるような、そんな思いに、栞は潰されそうだ。ぎゅっと胸の前で拳を握り、目の前に見える図書室を背にして教室へと駆け出した。放課後の、生徒の少ない廊下を駆けながら教室へと飛び込み、逃げるように帰宅した。いつしか降り出した雨に、目の前が曇る。何度拭っても目の前が霞み、転びそうになってしまう。でも、立ち止まることをせず、まっすぐ家に飛び込んで濡れた制服を脱ぎ捨てて、ベッドに入り丸まった。頭の中から先程中庭にいた潤平の姿が焼き付いて離れない。確実に距離を縮めてきたと思っていた矢先の出来事だった。
その出来事から半年ほど、栞は図書館へ行くことはなかった。勿論、潤平と会うこともない。会いたい気持ちはあったものの、どうしてもあの日の出来事が頭から離れなくて。確認しようと思えばできたのかもしれない。でも、栞はそんなことを訊けるほどの勇気は持ち合わせていなかった。要するに、臆病なのだ。誰だって恋には臆病になってしまう事があると思う。栞もその中の一人だ。遠くから潤平の姿を見つけては、見つめるだけで話しかけることも出来ない。ここ最近では、風紀委員として校門に立つこともなくなっているようで、登校時に潤平の姿を見かけなくなってしまっていた。二人の距離はもう、前のように戻れないほど開いてしまったのだろうか。
栞は以前のように図書室を使用せず、自習室を使用していた。しかし、自習室はなかなか競争率が高く、席を取る事が出来ない事が多い。だから最近では教室に一人残ってノートをとったり復習したりしている。すぐに家に帰らないのは、もしかしたら潤平の姿を見つける事ができるかもしれない……と、淡い期待があるから。潤平へのくすぶった想いを抱えながら過ごす毎日は、栞には辛い毎日になってしまっていた。自分がどれだけ彼を想っていたとしても、彼はもう、自分のことなど忘れてしまっているに違いない。栞はそう決め付けていた。
時間が経ち、潤平の声ももう忘れてしまいそうな頃、再び図書室に訪れた栞。いつも座っている席には誰もいない。それどころか、図書室の使用率はめっきり下がったのか、誰もいなかった。誰もいないことにどこかホッとして、いつも座っていた席に着きノートを広げる。復習のため、教科書と参考書も広げた。以前はここで、潤平にわからないことを教わるほど仲良くなれていたのに。隣は空席のまま。隣で丁寧に教えてくれた彼、本をゆったりと読んでいた彼はもういない――――。
いつしか涙がポタリ、またポタリとノートにシミを作っていく。涙でノートの字が滲んで、やがてその滲んだ字すらもわからなくなるほど視界が歪む。涙が溢れた栞の涙は、止まることなくノートへと落ち、いつしか顔をぐしゃぐしゃにしてしまうくらい流れ出ていた。
――会いたい、先輩に会いたい……
自ら遠ざけたのに、潤平に会いたいという気持ちばかりが募ってくる。遠くからでもいい、ただ一目、彼の姿を目に焼き付けておきたかった。何度も、何度も彼の姿を探しては見つからず、溜息を吐く毎日。潤平は三年生、栞は一年生。校舎も違うし時間割も全く違う。そして彼は受験生だ。受験の為、授業の時間も変則的になっている。すれ違いが生じてから、時間が経ちすぎてしまったのかもしれない。諦めるしかないこの恋心を、栞はどう幕を下ろせば良いのかわからなくなっていた。
潤平への想いを諦められなかったある日の放課後、図書室へと向かった。やはり誰もいないこの図書室で復習をしながらも、押さえ切れない涙を人知れず流し、いつしか眠りについてしまった。誰もいない静寂に包まれた図書室という空間が、自分の全てを包み込んでくれるように暖かく、優しく、時間を止めてくれる……。そんな気がしていた。しかし、時というのは誰にでも平等に、正確に刻まれていく。夕日が差し込む図書室は薄暗く、刻一刻と闇夜へと近づく。眠っている栞の肩をそっと叩き、ゆっくりとその体を揺さぶる人物が、闇と共に現れた。
「……閉館するよ」
「ん……」
ゆっくりと体を起こす栞の肩に触れている手のぬくもり、その手の持ち主は他ならぬ潤平だった。栞の表情は眠たそうにしていたのに、その姿が目に入ると驚きの表情へとみるみる変化する。目を見開き、ガタッと椅子から立ち上がった。
「せ……先輩!」
「久しぶり。よく眠っていたね」
細い先輩の瞳が糸のように細くなり、口元は笑っている。会いたい気持ちが募って仕方がなかったのに、沢山話したい事があったのに、栞はただただ驚いて、口を開く事ができなかった。微笑んでいた潤平の表情が、少しずつ曇りだす。栞が何も言わないことに不満を感じたのか、それとも……。
「どうして……僕を避けていたの?」
「……」
「図書室に、何日も通ったよ。君が来るのではないかと思って。……でも、君は来なかった。閉館まで、毎日待っていたのに」
「ごめんなさい」
「どうして?」
「……先輩に、どう会えばいいのかわからなかったから」
潤平は栞の言っていることが理解できなくて、首を傾げた。栞の言葉が足りなすぎて潤平には何一つ伝わらない。臆病な栞、でも、この日は少々違っていた。募りに募った想いが、一つずつ、言葉を紡ぎだす。一生に一度の勇気を振り絞って。
「先輩が……女の人と抱き合ってたから」
「僕が? えぇと……覚えがないんだけど」
「先輩と出会ってから、一ヶ月位した頃です。中庭で抱き合っているところを偶然見てしまって」
「それ……僕じゃないと思うけど。多分、陽平だ」
「陽平?」
「言わなかったかな。僕は双子なんだ。双子の片割れが陽平、あいつは僕と正反対の性格だからね。女性と付き合うことも多くて。僕はまったくないよ」
「そんな……!」
栞は恥ずかしさでいっぱいだった。勝手に思い込んで勝手に遠ざけて。彼に濡れ衣を着せて、この想いをどうにかして忘れてしまおうと思っていたのだから。彼の言葉も聞かずに、自分勝手に。
――まだ、間に合うだろうか?
栞は潤平をジッと見つめる。ただ、見つめるだけでは何も始まらないのに、何一つとして言葉が浮かんでこない。何を話せばいいのか、それすらわからなくなっていた。緊張状態は続き、栞の掌には汗が滲んでいる。その汗が滲んだ掌をぎゅっと握り締め、口を開こうとしたその時のことだ。
「まだ……間に合う?」
先に口を開いたのは潤平の方だ。しかも話し出そうと思っていた言葉まで、まるで同じ。何も言えず潤平を見つめると、照れくさそうに潤平が視線をそらす。栞を見ずにゆっくりと紡ぐ言葉は、栞が潤平に対しての想いと同じ気持ちだったのだ。互いの想いが重なり、視線が絡み合う。まるで、何も言わなくても互いの言いたい事がわかっているかのように。
思えばあの桜が舞い散るあの日に、全てが始まったような気がする。もしも、栞が生徒手帳を落とさなかったら、もしも生徒手帳を拾ったのが潤平でなかったら、そしてあの校門で生徒手帳を渡されなかったら……図書室で出会っていても、声はかけなかっただろう。たったひとつの小さな出来事が、人の運命を大きく変えていく。いや、もしかしたら出逢うべくして出逢ったのかもしれない。
互いのぬくもりを確かめ合うように、気持ちを確認しあうように、薄暗い図書室でそっと唇を寄せ合った。二人の影が重なり、図書室の中で影が長く伸びていく……。
こうして桜の季節に出逢った二人は、七年後の桜の季節……めでたく『夫婦』になった。
「栞ー? そろそろ行くよ」
「はい、潤平さん」
純白のウェディングドレスに身を包み、カサブランカのブーケが幸せの香りを漂わせる。レッドカーペットに長く伸びるドレスのトレーン、幸せそうな花嫁の涙、そして空からは桜の花びらが祝福するように舞い散る。
――二人で、幸せになろうね。
そう締めくくり、栞はゆっくりと二人の思い出を綴った日記帳を閉じたのだった。