優しい強い+αな旦那さま
博貴と結婚して1年が経った。今も変わらず博貴が好きで、愛している。
付き合い始めた時のような燃え上がる気持ちは無くなってしまったけれど、穏やかに静かに時を重ねている。私はそう思っている。
のそりとベッドから起き上がると、リビングからはテレビの音が小さく聞こえていた。土曜日の朝にやっている、情報番組だかバラエティ番組だかよくわからない音。寝癖もそのままに、眼鏡を掛けてリビングに行くと博貴が既に起きていた。
ソファーに座り、コーヒー片手に本を読んでいた。起こしてくれても良かったのに。気を使って起こさないでくれていたらしい。そんな小さな優しさに心の中で感謝をする。
「おはよう」
「おはよう」
博貴の横に座ると、ソファーはさらに一人分の重さで軋んだ。そのまま博貴に寄り掛かると、彼はリモコンを引き寄せてテレビの電源を切った。
「真美ちゃん、いびきかいてたよ。もっと寝てなくて大丈夫?」
「うん。お腹、空いた」
「モーニングに行こうか。作るの面倒だし」
「うん、そだね」
私が簡単に身支度をしている間、博貴はじっと静かに本を読んでいた。ページをめくる音と、コーヒーの入ったマグがテーブルにことんと置かれる音だけがリビングから聞こえていた。私達の間に会話は無くても同じ時間を味わっている。
二人して家を出た時にはすっかり時間は10時30分を過ぎていた。モーニングというよりはブランチになりそう。
「モーニング間に合うかな」
「間に合わないかもね」
早歩きをする気も無いので、ゆっくりと通りを歩く。今日は生暖かくて、風が強い。天気予報を見てないけれど、爆弾低気圧がどうとかって昨日言ってた気がする。
「あ、ここ老人ホームが出来るみたい」
「ふぅん」
古いビルのあった場所が売却され、今はビルに背の高い囲いが出来ている。ビルは灰色の養生シートで覆われ、シートは強風でバタバタと大げさに揺れていた。
「老人ホームばっかりだね。この辺り」
「しょうがないよね。需要があるんだか──」
突然にばさりと大きな音がして、養生シートが大きくめくれた。強風に煽られシートが引っ張られるように足場ごと倒れて来た。それはスローモーションのようにくっきりと視界に飛び込んで来る。体は動かない。
「真美ちゃん! 危ないっ」
博貴はとっさに私を抱き寄せ、左手倒れてくる鉄の足場に向かってかざした。途端に鉄の板はひしゃげ、養生シートごと囲いの中へと吹き飛んだ。ばぁんと大きな音を立てて、ひしゃげた鉄の塊はビルの壁にぶつかり下へと落ちた。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう……」
「破片とか当たってない?」
胸から体を離すと、肩に手を置き顔をまじまじと覗き込んで来た。そっと一房の髪を耳にかけて
「よし、怪我はないね。ちゃんと現場の管理ができてないのかなぁ? 行こう」
「……うん」
怖かった。怖かったけど、怖くは無かった。博貴が絶対に守ってくれるとわかっていたから。
顔に怪我が無いのを確認すると、私の手を取り足早にその場を後にした。
生暖かい風が後ろから背中を押し、一歩を踏み出す足は軽い。
空には黒い雲が立ち込め、風は先ほどよりも冷たくなったように思える。ぽつりと額に水が当たる。
「傘持って来てないね」
「早く行こう」
ぽつりぽつりと雨は次第に降る間隔を早めている。そしてコンクリートの地面を黒く穴埋めするように雨が降って来た。
「急いでっ」
博貴に引っ張られるようにして知らないマンションの駐車場に滑り込む。雨は容赦なくざあざあと土砂降りだ。急な激しい雨に視界はぼんやりと霞がかっている。
「参ったねぇ」
「うん」
濡れた肩や髪をハンカチで拭いていると、外の様子を眺めていた博貴が振り返る。
「待っていれば止むと思うけど」
ちらと腕時計を眺めて、腰に手を当てた。
「モーニングの時間には間に合わないね。あと10分だし」
「お昼でも別に良いんじゃない? この後、予定何も無いし」
「でもさ、真美ちゃん。あそこのエッグベネディクト食べたくない? モーニングでしか食べられないよ。もう頭の中では食べる気でいたからさぁ」
博貴は腕を組みながら「うーんうーん」と唸って、何やら悩んでいる様子。すると、背中に掛けていたショルダーバッグの中から袋を取り出した。ベージュ色のくたびれた袋。博貴がいつも持ち歩いている袋。
「あんまりさ、こういうのに頼るの良くないと思うんだけど」
「うん」
「軽蔑しないでくれよ」
「大丈夫だよ。今がその時なんでしょ? 使う基準が良くわからないけど。たまにだったら良いんじゃない?」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
ベージュ色の袋を広げ、博貴は袋の中に腕を突っ込んだ。腕は肘まで入っているけれど、袋は伸びるわけでもなく、ただくたびれて皺がついたままだった。袋の大きさよりも倍以上はある腕がすっぽりと中に入っている。博貴の腕は袋の中で行ったり来たりと何かを探しているようだった。
「お、あった。これこれ」
何かを掴み、おもむろに袋の中より引き抜いた。袋は原型を留めていないくらいに引き伸ばされ、中からは袋の大きさよりもずっともっと大きい扉が出てきた。扉をどさりと目の前に置くと、博貴はふうとため息をついた。
「見つかるとややこしくなるから。喫茶店の裏手に出るようになってる。早く」
ガチャリと取手を回して見える扉の隙間からは、レンガで出来た壁が見えている。この扉を潜った先は目的地である喫茶店だ。
「ありがとう」
「帰る時は使わないよ。使う時は一日一回って決めてるんだ」
「うん。知ってる」
私が先に扉を潜り、その後に博貴が扉から出て来た。辺りをきょろきょろと見渡してから、ベージュの袋をめいいっぱい広げて扉に被せる。袋が被せられた部分から扉はみるみるうちに見えなくなる。吸い込まれているとも違う。消えている、そんな感じ。いつ見ても不思議な光景だった。
「よしよし、5分前だね。ギリかなぁ行こう」
やがて扉は袋の中にすっぽりと入り、元通りの何の変哲もないくたびれた袋だけが手元に残った。博貴はそれを鞄にくしゃりとしまった。
博貴は鞄で頭が濡れないように庇いながら小走りで喫茶店の入り口まで走って行った。私も博貴の背を追いかけるようについて行った。
エッグベネディクトには間に合うと思う。
気に入りましたら高評価&ブックマークいただければ幸いです。
(2021年7月作成)