表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スーザン・ソンタグの「キャンプ」に対する、距離感と態度  作者: ガニミズム・わいばーん/牝牡蠣
2/2

キャンプとはトンカチかもしんない



"大きな声でご挨拶、おはようございまぁ〜す!! ガニミズム・わいばーんことわいちゃんでぇ〜す! 今回はタイトルにある『キャンプとはトンカチかもしれない』について考えていくのね!

 彼は言ったのね。「キャンプという感覚そのものを内容を伴わない純粋な経験として、そのルックスの輪郭をなせぞりたい。感覚の形式を理解したい」僕はすごっ、と思ったのね。どうかその思いを捨てないで、その純粋な感覚の領域を目指してほしい! 僕はそう思うのね。


 僕は図書館でソンタグにキャンプとして認知されていた詩人のジャン・コクトーの「ポトラック」と「恐るべき子供達」を読んだのね。そしたらわいちゃん、「あれ? この感じどこかで……」と思って思い出したのが「坂口恭平の『現実宿り』」だったのね。以下、牝牡蠣さんが過去に書いた「現実宿り」の感想を転載するね!


____________________



前回私はエッセイで坂口恭平について考えた。そこに「私は0円特区ができたら移住したい」との旨を書いた。だがそれは誤りであると思ったのでここにまた書いていこうと思う。それは私が坂口恭平に嫌悪を抱いたというわけではない。単刀直入に言えば「坂口恭平はきっと0円特区を作らない」と思ったからである。それはなぜか。なぜなら坂口恭平はノマドだからである。ノマドとは一つの場所に定住せず移動し続けるライフスタイルである。ただ前回のエッセイで私は彼を超精神ノマドと言った。その時私はそれに気づけなかったというのか。そうである。私は気付けなかったのである。

彼は最新の著作「現実宿り」を出版した。私はこれを読んだ時初めて彼がノマドであることを認知した。

ではその「現実宿り」とはいかなる文章か。非常に一言で捉えにくい内容なのだが私が読んで感じたのは意味のない文章ということである。これは私が彼を侮蔑しているように感ぜられるかもしれないがそうではない。坂口恭平によると彼の中で重要なのは音楽だそうである。それはトークイベントでもギターを持ち歌う姿をみれば感じられる。音楽とは刹那のものである。そこには行為しかない。音が重ねられ音楽になったとしてもそこに意味を見出すのは音と関係のないただの他人である。この「現実宿り」も音楽のような文章である。そこに意味はなく書くという、音楽でいえば弾くという行為だけである。現実を一時忘れ音のような文章に心傾ける、雨宿りならぬ現実宿りということである。こう思えば今までの「0円ハウス」から「モバイルハウス」「新政府」などの坂口恭平の軌跡はすべてこの現実を一時忘れ音に耳を傾ける現実宿りなのかもしれない。

坂口恭平は自らの身体感覚・聴覚で私達が気付きもしなかった埋もれた道を鮮やかなステップとともに通っていく。それはまさにノマドのようにである。私はその姿に魅了されるのである。だからこそ坂口恭平は一か所に留まらない、「0円特区は作らない」。おそらくモンゴルのノマドよろしく様々な場所をもしか新しい場所を通りながら転々とするであろう。歌いながら、踊りながら、音楽を弾きながら。もしかしたらそこに意味はないかもしれない。だが、それこそが音楽でありそれこそに現代社会に対しての意味があるのだ。

坂口恭平は言った「革命はすでに起きている、そのレイヤーにあなたが入れるか否かだ」。坂口恭平の通った道を整えるのはきっと我々の仕事だ。だから「0円特区」は私が作らねばならない。それは多摩川のホームレスのように。そこに入れるか否かだ。さぁ、行為をしよう、音楽を奏でよう、そんなスタンスで。



____________________


 つまりは、坂口恭平の「現実宿り」の文章そのものに意味やメッセージは無く、その文章を《道具》として雨傘として現実という雨から濡れないように《使用》する、雨宿りならぬ現実宿り、そうだと見たのね。

 そしてそれはジャン・コクトーの二作にも、これと同じように意味やメッセージを見ることなくその文章を《道具》として喜怒哀楽を起こすために《使用する道具》である、と見たのね。それがつまり《道具=トンカチ》ではないか、ということなのでぇぃす。だとしたら、「内容」や「解釈」なんて意味も無いし邪魔だということが成り立つのね。トンカチに対して「このトンカチの内容はぁ〜」とか、「このトンカチを解釈するとぉ〜」とか、トンカチは《釘を打つために使用される道具》以下でも以上でもないんだから、そんなトンカチに「内容」とか「解釈」とか言うのは、バカげているのね。僕はこれで《使用性》というものがキーワードだと見たのね。




 では今度はこの《使用性》というものが審美として美たりえるのか、について考えるの〜ね。

 僕はこんな実験をしたことがあるのね。


 机の上にある空き缶をAくんに「はい」と渡す。

 するとAくんは「?」と言いながら受け取る。

 今度は空き缶をゴミ箱の中に入れる。

 そしてそれを拾い上げてAくんに渡す。

 するとAくん「そんなゴミ渡すなよ! 汚い!」と言ったのね。


 確かにゴミ箱の中は汚いかもしれないけど、ではしかし通学で電車の吊り革を握った僕の手の方がゴミ箱の中より清潔だと言えるかな? その吊り革は鼻水を手で擦って手を洗わずに握ってるかもしれないし、おしっこした後に手を洗わずに握ってるかもしれない、そして手の細菌はいろんな所に触っているからとっても多いとも言われているのね。つまりAくんの言った「汚い!」というのは科学的な細菌の数ではないと思うのね。

 では何か。それは僕が《捨てるという行為=使用》によって空き缶だったものをゴミに変化させたからAくんはそれをゴミと認知し「汚い!」と言った、のだと考えたのね。僕はこの変化を、物が《捨てる=行為=使用》によって変化する、物に魂が宿る=アニミズムをもじった造語として"ガニミズム"と名付けたのね。


 そしてこの《行為=使用》によって物に魂が宿る、は、芸術そのものの運動ではないかと考えるようになったのね。


 画家は【キャンバスという物】に対して《描写という筆の動き》によって絵画を、

 彫刻家は、【木材や石、鉄塊という物】に対して《削る、叩く、切断する、くっつける、etc…という行為》によって彫刻を、

 小説家は【紙、石板、羊皮紙etc…という物】に対して《書くという行為》によって小説を、


 《行為=使用》こそが、《物に魂を宿す=ガニミズム? 変化させる》その運動性、これが美の本質では? とも考えたのね。だからゴミはガニミズムという《行為=使用》による変化によって生じたアートだ! と学生時代に言っていたのだけれど、これ、キャンプについても言えそう、そう考えたのね。

 それは、

 ティファニーのランプ、

 「白鳥の湖」、

 「サロメ」

 ジャン・コクトーの「ポトラック」、

 同じく「恐るべき子供達」、

 ドラァグ・クイーンの衣装が、

 そのものがトンカチのような道具として「内容」や「解釈」など見るのはバカげているのは当たり前、しかしそれを認知者が《読んだり見たり触ったりの審美》することで《行為=使用性》が発生し、《ただの道具、第一、第二感覚の外だというならばとるに足らないもの……》に"ガニミズム"としての運動性として物に魂が宿り、アートとなる! 僕はそう考えたのね! 

 僕はまだちょっとキャンプにおける形式というものを理解していないけど、このガニミズム、物に魂が宿りゴミという美、アートになる際の運動性が、形式カモカモ? なんて考えたりもしたのね。形式? 様式? については、時間と空間が重要だとも書いてあったのね。つまりはこの《ガニミズム、物に行為=使用によって魂が宿る一連の運動性》には、時間(=認知者の年齢、四季という時期や朝から夕方か夜かとか)空間(=周りの環境、刑務所か遊園地か)とかでも変わるかもしれない、とも考えたのね。


 最後に。総括すると、つまり僕が見た『キャンプ』とは、


"トンカチのような「内容」や「解釈」を与えるのもバカらしい物に、《行為=使用、審美》をすることで、(物に魂が宿りゴミになるガニミズムのように)物に魂が宿りそれがアート、美となる、その運動性"


 だということなの〜ね!




 今のところ僕が言えるのはここまでなの〜ね。後はみんなに任せていろんなこと考えて、こうゆうのもあるよって、教えてほしいの〜ね。


 じゃあ! また遊ぼうね〜! 元気な声でご挨拶! ありがとうございましたぁ〜!"


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] すごく良いですね。特に「運動性」、柔軟でしなやかにその出来事を反映させた最適な言葉だなと思います。 しかし審美という過程に認知者の自発性があって欲しく無いというのが僕の考えです。 美への感…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ