とりあえず一個書いたよ
これは論文でも評論にもなりきれない、感想文です。注意してください。
私はスーザン・ソンタグの「キャンプ」に批判的である。それは「キャンプ」が審美の対象とした物それへの批判ではなく、「キャンプ」を示すこととはつまり「キャンプ」を否定することだと考えるからである。私の所感ではそれは60年代のカウンターとして「捉えどころのない雰囲気に名をつけた上昇気流」のようだと見受けとった。その姿勢そのものが「キャンプ」だ。つまりそれを「お堅く」「偉そうに」「アカデミックに」「形」を与えてしまえば、それはもはや「キャンプ」ではないのだ。もし私が今において「キャンプ」を示すならば(私はもはやそんな必要もないと思うが)反「キャンプ」で、美であり政治であり真面目であり自然であり超越的人工、非誇張だろう。そしてその時において、私は何者でもあり何者でもない。強いて言えば身長2mの巨大な赤ちゃん、ガニミズム・わいばーんという私のアルターエゴ、神のレプリカである。以下はガニミズム・わいばーんことわいちゃんこそが公的、美、善たる活動とした、私の考えうる現代の「キャンプ」である。
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"元気な声でご挨拶! おはようございまぁーす!! わいちゃんでぇ〜す! よろしくねぇ〜。では、お話するのね。
2019年に「キャンプ」をテーマにし開催されたファッションショーがあったのね。そこではモデルがけばけばしい、過剰な、大袈裟なファッションをまといランウェイを歩いたのね。しかしそれに対して「これは『キャンプ』ではない」という人もいたのね。僕もそう思うのね。
僕の思う「キャンプ」とは、否定美学=美そのもの否定、から始まると思うのね。美というものを神なる知性の類いの、人智では決して到達し得ないものとした上で、であるならば目前に「これは美だ」というものがあったら、それは美なんて人史にあろうはずもないのにその「内容」を評論家や作家が作品にこれでもかと詰め込み、周りの人がそれを美だと「解釈」する、徒労そのものなのね。と言うと「でも現に我々の世界に美しいものはある」と反論されるのね。そのとおり、この世に美はある。しかしそれは形あるものではなく、エネルギー、音楽なのね。
「キャンプ」は、けばけばしい、極端な、異常な、不真面目な、失敗と言われてるみたいなのね。それはつまりこれは美であると美の内容も美の解釈も伴わなれていない、美の徒労ではない! ということなのね。それが誰からも美と認められていない美の徒労を経てもいないのに美と見るならば、それはその対象物が美なのではなく(美の徒労、紛い物の美でもないから)それを感じた認知者の感情、エネルギーの方に美が宿っているのね。それはきっと美の徒労、紛い物の美を美と認知するよりずっと難しくてずっとカロリーが要り、だからこそ一等強い熱を持つのね。それは形に現れない残らない、もしか様式っていうものだけかもしれない、だからこそ一等神なる知性に近い美、力強い審美眼なのね。
そう考えると、汚れ、異常、悪こそにこそ、普遍性があるかもって、美に近いよって、思うのね。美は人が永遠に辿り着けない神なる知性であり、徒労の上で目指すもの、そして人史に随所に現れる紛い物の美、美の徒労は時代各々で多様に変わりそれをいくら収集し帰納法的に観察したとてとても神なる知性を観測はできない。しかし汚れ、異常、悪は我々の前に確かにブレることなく存在しそしてそれは嫌悪であれ熱狂であれそれを感じる認知者の感情、エネルギー、一等強い熱、つまりはそこに美の種子があるのね。したがって美とは道具のように半永久的にそこにあるものではなくて、音楽のように現れてはどこかへ霧散してゆく、感情、エネルギー、熱、演技=活動! のようなものなのね。ソンタグの「キャンプ」を肯定しそこに内容や解釈、形を与えようとすればそれはたちまち音楽ではなくなりもうソンタグの「キャンプ」ではない、「キャンプ」を背負うに値しないのね。最初に話した2019年のファッションショーが違うのは、まさに音楽でなく、形を与えてしまったからなのね。……もしかしたら入眠幻覚や妄念の方が近いかもね。だからソンタグはジャン・コクトーを認めたのかな?
そして、僕は三島由紀夫の「金閣寺」はそれらの動きを描いてるかもって、考えたのね。若僧の前に戦争を乗り越えて存在する金閣寺の実体としての美がある。これを僕は美の徒労だと思って。若僧はそんな本当の美ではない美の徒労に人生を蝕まれていく。様々な苦しみを経て若僧は紛い物の美、美の徒労すなわち金閣寺を打ち倒すことに決めるのね。その感情、エネルギー、熱、演技こそが炎なのね。「金閣寺」のラストが金閣寺が燃えることで終わるのはそれは美の徒労が感情、エネルギー、熱、演技たる炎という本当の美になる極列なダイナミズムであるからなのね。
だけど。火は怖いのね。ダメダメなのね。悲しいのね。燃えちゃうの怖くて悲しいのね……。だからわいちゃん芥に魂を見出すガニミズムを僕はやるのね。その方が安心安全みんなニコニコなのね。もはや昨今の世界において悪を為すことは、強権として、家父長として、消費資本主義帝国搾取について、圧倒的にそれらがマジョリティ、世界の内容と解釈たりえているのね。もし人が今「キャンプ」を示すならば、それらと相対する善行、美徳、想像、寛容、平凡素朴の中にしか見出せないのね。
最後にまとめるのねのね。
①本当は美なんてこの世に成り立ちようもないのに美という形を与えてもそれは本当の美でもない偽物なのに本物であるかのように振る舞うことの愚かさ。それならば偽物を示した上でそれを認めてその中に必死に美を見出そうとする感情、エネルギー、熱、演技、執念の方がはるかに美に近い!
②「キャンプ」は対象世界への否定という、対象世界とそれを見た認知者との間にやりとりされる力そのものに美が宿る、刹那だけの音楽的な作用。
③個人各々が自らの中に審美眼、私には私の、貴方には貴方の美がある。善たろうとする意思、活動をもつことが現代における「キャンプ」だと、思うのね。
あとね、「キャンプ」というのは乱発せず、口を閉ざし、五感を研ぎ澄ました中でやりとりされる神秘的なものだと思うのね。形を与えちゃうから。あと最後に。ソンタグは「空の大怪獣ラドン」と「地球防衛軍」を駄作だから「キャンプ」といったのね。僕怒っちゃうもんね〜っ!!円谷英二の特撮は凄くて、ラドンのビルを壊す羽ばたきの特撮は素晴らしいのね!! 駄作なんて言っちゃやーよ!! も〜!! プンスコプン大将軍にわいちゃんなっちゃうのね。
僕のこの「キャンプ」を間違っている、愚か、ふざけている、読むに値しない、そう貴方が言ったなら、あとは僕の真摯さと真面目ささえ揃えば「キャンプ」かもしれない。でも僕はなんであろうと2mの巨大な赤ちゃんガニミズム・わいばーん! だよ!
最後まで読んでくれてありがとうなのね。またいつか遊ぼうね!
元気な声でご挨拶! ありがとうございましたぁ〜〜!!"