3. 首輪の呪い
通りに人気が全く無くなるはずの深夜。
霧が漂う中に、街灯の灯りがぼんやりと浮かぶ下の街路を、バルトは気が気ではない思いで突っ走っていた。
向かう先はモリス子爵の屋敷。完全に勤務時間外である・・・が、まさに今、そうも言ってはいられない緊急事態であることを知らされたのだ。
バルトの住居から屋敷はすぐそこだ。しかし正門はとっくに閉ざされ、夜間出入口から回るとなると、現場まで距離がある。
問題のその場所は、ファトラの寝室だった。
そう思案している間にもバルトが屋敷に到着すると、出入口にいる守衛たちが待ちかねたというように敬礼をして、速やかに中へ通した。
その数分後、へとへとの状態でもう一人男がやってきた。いや、彼は戻ってきたのである。バルトを呼びに向かった者だった。
衛兵や召使いたちで騒然としている通路を空けてもらい、バルトがそこへ駆けつけてみると、ファトラの寝室は血も凍る凄惨な様相を呈していた。
なんとファトラは、何事かと迂闊に部屋に飛び込んだらしい、誰か守衛のうなじに噛みついているのである。血まみれのその体はうつ伏せで、息がある証を微塵も示さず、すでに死んでいることは明らかだ。ほかにも、同じく尋常でない悲鳴を聞きつけた者、それに最初に様子のおかしさに気付いた見回りの者か、残酷に殺害された二人の死体が横たわっていた。
むしろ思わず魅入っていたバルトだが、ファトラが死体から口を放して頭を上げ、ゆっくりと顔を向けてくると、世にも恐ろしいことに出くわした。ファトラの顔は人間の肌の色をしておらず紫色で、血走った真っ赤な目と、口には獣のように発達した牙がある。部屋の照明は消されたままだったが、廊下から漏れている灯りのおかげで、それら状況が分かるほどには見ることができた。もっと明るくしたいが、誰も部屋に入って照明を点けに行こうという勇気が出ない様子。無理もない。
バルトは意を決して入室し、照明の壁掛けランプに手を伸ばした。
すると、その行動に腹を立てたように、ファトラがいきなり動いた。驚くほど俊敏にバルトのすぐそばに現れ、熊手にした腕で彼の脇腹を横殴りにしたのである。まさに熊にやられたような威力で叩き飛ばされたバルトは、肩から近くの壁に激突していった。しかし痛みに呻いている場合ではなく、慌てて体を起こし、顔を上げるバルト。
そして次の瞬間、さらに驚愕する出来事が・・・!
なんとファトラの首輪から、何か黒い鳥のようなものが飛び出したのだ。そうかと思うと、それが見る間に、全長ニメートルほどの二本足で立つ魔物と化したのである。
驚きのあまり遅れをとってしまったバルトを、その怪物の一振りから救ったのは、プライベートでも付き合いのある部下のレイジだった。衛兵たちはみな一番の凄腕はバルトだと言っているが、戦士として最盛期の二十代後半、それに当たる彼は、バルトも一目置く手練れの剣士である。
「バルトさん!」
その叫び声のあと、目の前にいる魔物の腹から剣先が生えてきた。
「すまない。」
「ここはとにかく、戦うしかないようですね。」
勇敢な二人の姿に触発されて、腕に自信のあるさらに二人が鞘から剣を抜き、毅然と顔を上げて入ってきた。
すでにバルトも白刃を引き抜いている。そして、気付いた時には四体になっていたうちの一体に向かっていった。バルトの愛用の剣は片手剣だが、やや大振りのもので重量もある。そのため腕力を必要とするが、その分 鈍器としての威力も増し殺傷能力が上がる。
豪快に振り下ろされた鉤爪を素早くかわして避けた直後、レイジがやってみせたように背中から腹へ向かって一撃を見舞った。バルトにとっては謎の生命体だが、その刃は上手く急所を貫き、魔物はバッタリと前のめりに倒れ込んだ。
ここでバルトの視線は、急いでファトラを探していた。彼女は獣じみた唸り声を上げているのですぐに居場所は分かったが、信じられない勢いで木製の衣装棚を破壊していた。斧など持ってはいない。素手でだ。そして部屋の中央ではレイジが、入口近くではあとに続いた二人の守衛兵が、必死になってそれぞれ化け物一体と奮闘している。目も当てられない姿で絶命した遺体と、魔物の屍が横たわる血に染まった部屋で。
なんたる光景・・・!
この世のものとは思えない現場に、たちまち気が動転しそうになる。
それでもバルトは努めて冷静を保った。
すると、廊下で悲鳴が・・・!
部屋の前には恐ろしさのあまり入って来ることができず、引くこともできないほかの衛兵が何人も待機している。その中へ、いつの間にかまた現れた一体が飛び込んで行ったのである。
バルトと、今度も上手く魔物を斬り伏せたレイジは、入口近くの二人に加勢して二体を退治したあと、その二人と共に一旦廊下へ出た。
だが最後の一体をも倒してファトラの寝室へ戻ろうとしたバルトを、ただ廊下で尻込みしていただけの衛兵たちが引き止める。その間にも扉は閉ざされ、取っ手には鉄のカンヌキが挿し込まれた。
事態を報告しに行っていた一人が、戻るなりそう声を張り上げたのだ。
バルトは見た。あの魔物はファトラの首輪から生まれたのである。
「ダメだ、まだお嬢様が!」
「お嬢様は、今はあれらと同じです!」
「バカを言うな!開けろ!見殺しにする気か!」
「閣下の命令です!お嬢様を部屋に残して封鎖しろと!」
「なんだとっ。」
あれらの怪物は首輪から出て来たのだから、それを外せばきっと正気に戻るはず。そう考えるバルトはもどかしくて仕方がなかったが、それは一人でできることではない。そのあいだ魔物と戦える者、狂っている彼女をつかまえておける者など、ほかに数人の協力が必要だ。ところが主人からそんな命令が下ったのでは、もう誰も手を貸してはくれないだろう。ここはひとまず言われた通りにするしかない。
今せめてできることとして、バルトはただ一心に祈った。