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「奥様は本当に素敵な方だよな!この間もお忙しい中時間を割いて差し入れを持ってきてくれて」

「お聞きになりました?また婚約の申し込みをいただいたって話よ!あれだけ可憐でお優しい方ですもの、当然ですわ!」

「この間のテスト結果みたか?また総合一位だってよ!あいつほど努力家ですげー奴、他にいねーよ!」


 私達は恵まれていると思う。優しい執事に使用人達。気心の知れた学友達。

 彼らは私達を慕い、そして尊重してくれる。


 それでも世の中は私達に優しい人だけでは無い。


「確かにお美しいし優秀なのは認めますけど、それなのに旦那様に捨てられるって・・・実は裏で相当性格に難がある方なのでは無いかしら?」

「いつもニコニコ笑ってらっしゃいますけど、なんていうか不気味ですわ・・・自分が愛されていないからこそ、愛されるためにみっともなく愛想を振りまいているって噂よ」

「結局は分家筋だろ?だから死にもの狂いなんじゃねーの?」


 使用人や同級生、舞踏会で会う御令嬢、街の人々。


 それは小さな、ほんのひと握りの者達だけの声かも知れない。

 だがどんなに小さな声も、静かに、ゆっくりと。

 私達の心の中にそれは深く、重く積もって心にのしかかってくる。


「ーーーいずれは追い出されるかもしれないのに、何をあんなに頑張っているのかしら」


 もう、限界だった。




 ***




 日が昇り街の人々が動き出す時間帯。

 まだ早い時間帯だと言うのに、伯爵家の門の前に一台の馬車が停まった。


 中から姿を現したのは、パナシュート伯爵家当主であるブラシノ伯爵。

 およそ寝癖を直しただけだろうと推測される深緑色の髪に、経済的余裕のある伯爵家当主の着る物とは思えない質素な洋服。

 普通だったらこの時点で何があったのだろうかと人々は困惑するだろう。


 しかし執事達は慣れた様子で伯爵を迎えると邸宅の出入り口へと足を進める。

 視察などの帰りであれば労りの言葉がかけられただろうが、執事達から伯爵へとかけられる言葉は出迎えの言葉のみであり、その表情からは呆れや侮蔑、そんな感情が読み取れた。


 そんな様子から察するに、このような朝帰りは日常茶飯事であり、また決して肯定されるべき理由での外泊では無いと容易に推測が可能である。


 当の本人はと言うと、そのような雰囲気を気にも留める様子はなかった。

 すれ違い挨拶の言葉をかけてくる使用人達に挨拶を返しながら、足早に自身の執務室へと向かう。


 そして執務室の扉を開け中に入る・・・と思いきや、執務室の中を確認し目を見開く。


「・・・ここで何をしている、カトレア、ユリウス、ーーーアマリリス・・・」


 伯爵夫人カトレア

 長男ユリウス

 長女アマリリス


 執務室の中でブラシノ伯爵を待ち構えていた3人は待ってましたとばかりに笑みを浮かべる。

 真ん中に立っていたアマリリスは一歩前に進むと、父親を見つめ、薄ピンク色に色付く唇を開いた。


「お話があったので待っていたのですわ、お父様」


 まるで小鳥のさえずりのような声に可憐な容姿。

 彼女が微笑むだけで何人もの男性が心を奪われるだろう。

 しかし今の彼女は笑っているはずなのに、その表情からは感情が読み取れない。


 そのような娘の姿に、ブラシノ伯爵は一瞬冷や汗が流れるのを感じた。

 とは言ってもブラシノ伯爵も名高い上位貴族の当主。


 すぐに表情を締めると再び自分に対峙する娘へと言葉をかけた。


「・・・私は忙しい。話なら後にしてくれ」

「そう言ってお話を聞いてくれた事は今まで一度もございませんわよね。だからこうしてみんなでお父様がどこかのお家からご帰宅されるのを待っていたのですよ」


 間髪を容れずに返される言葉に含まれた嫌味と貴族令嬢らしくない言葉遣いに眉を顰める。


「言葉遣いがなっていないようだなアマリリス・・・一体何が言いたい?」

「そんなお怒りにならないで、お父様?・・・ーーー怒っているのは私達の方なのですから」


 カトレア伯爵夫人とユリウスもアマリリスに並ぶように一歩前へ足を進める。


 いつも自分に従順だった妻。

 幼い頃から厳しく躾け、反抗的な態度などとったことのない子供達。


 今まで見た事のない家族の姿勢から感じ取れる圧に、今度は焦りを抑える事が出来なかった。

 そんな父親の姿にようやくアマリリスは【喜び】と読み取れる感情を乗せて、ふわりと笑った。





「見返りを要求致しますわ、お父様」




 ***



 パナシュート伯爵家。

 伯爵家の中でも上位に位置し、侯爵家に次ぐ上位貴族として王国内で認知されている。

 領土も広い為、領主だけではなく伯爵家夫人に任される負担も大きい。


 そんな伯爵家に嫁いできたカトレア伯爵夫人は元々貧乏伯爵令嬢だったが、20歳の頃に王族の婚約者ではない令嬢の中で一際優秀な令嬢であったため、という理由でこの伯爵家に嫁がされてきた。


 一見寡黙で何を考えているか分からないように見えるが、容姿は金銭的に余裕がない為手入れが行き届いていないとは思えない程透き通った肌でとても美しく、彼女の魅力とも言える緩く結われた深紅の髪がさらに彼女の魅力を引き立てていた。

 元からそのような美しい容姿を持っていた為、カトレア伯爵夫人の魅力はパナシュート伯爵家に嫁ぎ使用人達からの手入れを受けることで更に魅力を増した。


 また人柄も優しく誰に対しても分け隔てなく接する事が出来る女性だったため、嫁いできた当初は舞踏会やお茶会で元貧乏貴族と笑われる事もあったものの、すぐに周囲に受け入れられた。


 そんな彼女でも1日の大半を自身に割り当てられた執務室で過ごし、まとまった休みも取れず働き続けるとなると、流石に身も心も疲弊する。

 それでも愛する子供達のため、自分を慕ってくれている者達のために、彼女は決して弱音を吐かなかった。


 それは子供達も同様。


 長女のアマリリスは幼い頃より、通常よりも厳しい淑女教育の他に、国にいる3人の王子のいずれかに嫁ぐ婚約者候補として、誰に嫁いでも問題ないよう妃教育も合わせて受けてきた。

 長男であるユリウスは後継に恵まれなかったため、5歳の頃に分家筋から次期伯爵家当主となるべく養子として迎え入れられた。そのため厳しい後継者教育を幼いころから受けてきた他に、学業や武術においても同年代の貴族達に負けぬよう、厳しい教育を受けてきた。


 2人とも幼い子供には酷と言えるような教育を受けてきたが、それでも将来国を支えていく中心貴族の一員になるという自覚があったため、弱音も吐かずにひたすら努力し続けてきた。


 そんな3人の唯一の息抜きの時間といえば、夕食後に毎日欠かさず3人で行うティータイムの時間だった。


 そう、3人。


 その中に父親であるブラシノ伯爵の姿は無い。


 ブラシノ伯爵は感情が乏しく、滅多に笑うことのない真面目な男だった。

 行う会話は必要最低限のもののみ。

 それは家族に対しても同様で、妻にも子供達にも気を配る事はしなかった。

 そもそも結婚したのもパナシュート伯爵家当主として必要であると考えたからで、義務として結婚し子供を1人もうけたものの、1人作ればもう義務は果たしたと言いすぐに分家から次期後継者とする男子を迎え入れた。


 有能な家庭教師を雇い子供達に付け、その他の事は妻や使用人に任せ自身は関与しない。

 決して家族を嫌っているわけでも憎いわけでも無いが、立派な住居に裕福な暮らし。それを与えているだけで十分だと考えていた。


 反面、カトレア伯爵夫人はブラシノ伯爵の態度を見て子供達が家族からの愛情に飢えたまま成長するのではないかと危惧し、仕事の合間を見ては子供達と過ごす時間を設けた。

 忙しく一緒に出かける事すら滅多に出来なかった為、その分触れ合いを増やし、あなた達は愛されているという事を伝えた。

 伯爵家に仕える使用人達も心優しい人が多かったため、旦那様の分も自分達がという気持ちで常に笑顔で側に居続けた。


 そんな周囲の人達の愛情という名の努力が実ったからか、2人の子供は真っ直ぐな人間へと成長した。

 どんなに辛くても、たとえ父親から愛情を向けられなくても、自分達を愛してくれる人達がいれば頑張れると思っていた。




 そう、あの無感情な父親が平民の女性と恋に落ちるまではーーー・・・




 最初は少し外出の時間が増えたな、という程度だった。


 いつもは1時間で帰ってくるのにそれが2時間に増える。本当にそれくらい些細な変化。

 そのため誰も気になど留めなかった。


 明らかにおかしいなと思い始めたのは、ブラシノ伯爵が予定外の外出を頻繁にするようになってからだった。

 それでもするべき事はしっかりと行っていた為、何か興味のある事でも出来たのか?と思っていた。


 次に服装が変わった。

 平民と比べると良い作りをしているが、簡素な服で出かけるようになった。


 短時間だった外出が長時間の外出へとなることが増えた。


 執務室にいても、上の空になっている姿が見られた。


 外出前に手土産になる茶菓子を用意させるようになった。


 庭園に咲いてる花で花束を用意させるようになった。


 妻と共に舞踏会に足を運ぶ回数が減った。


 時折考え込むように家族を見てくるようになった。


 夜帰ってこない日が出来た。


 朝帰りした伯爵からは女性物のシャンプーの香りがした。


 ここまでくれば証拠などなくとも分かる。

 でも念のため、勘違いの場合彼の名誉を傷付けかね無い為、一握りの望みを持ってカトレア伯爵夫人はブラシノ伯爵の行動について調べるよう執事に命じた。


 だがやはりというべきか、提出された報告書の内容は、彼女の望みを打ち砕くものだった。



『借金の為に昔売春を行っていた過去を持つ平民の女性と伯爵が恋に落ち、日々甘い時間を過ごしている』



 はっきりとした理由は分かりかねるが、どうやら町を視察している際に女性に出会い、何かしらの経緯で女性の過去を知ると同情し、気にかけていく内に恋愛感情へと発展したらしい。


 女性がまだまともな思考を持っているのが不幸中の幸いか、女性の方は不倫という関係に後ろめたさを持っており、妻に成り上がる事は望んでおらず、密かに逢引きを行っている事だけで満足しているらしい。


 まぁ、不倫をしているという時点でまともな思考と言っていいのかは分からないが。


 問題があるのは伯爵の方だった。


 生まれて初めて手にした『愛』と言う感情に溺れ、次第に周りが見えなくなってきたのだ。


 家族には滅多に見せてくれない笑顔。

 その笑顔を伯爵は不倫相手に向けているという。


(・・・元々愛のない結婚だったのだから、不倫というのもおかしいのかもしれないわね・・・)


 報告書を見ながらカトレア伯爵夫人は自虐的に笑った。


 カトレア伯爵夫人もブラシノ伯爵には恋愛感情を持ち合わせていなかった。

 それでも家族としての情は持っていた。だからまさか、こんな形で裏切られるとは思わなかった。


 ブラシノ伯爵を問い詰めたい感情が湧く。でも子供達の存在が彼女に待ったをかけた。

 ただでさえ子供達は父親からの愛情という物を知らずに育ってきているのに、そこに自分達の父親が外で女性を作っていると知ったらどんな気持ちになるだろう?


 賢い子達だからきっと既に気付いてはいるだろう。

 それでもその事実を明確にはしたくなかった。この事実が明るみにならなければ、気持ちは繋がっていなくても、表向きは家族という糸で繋がっているのだから。そこを断つ事はしたくなかった。


 しかしそんなカトレア伯爵夫人の親心を他所に、ブラシノ伯爵の行動はエスカレートしていく。

 初めての恋心に浮かれて自制が利かないのだろう。人目も気にせずに不倫相手とデートを繰り返すようになり、上位貴族としての政務も疎かにするようになってきた。


 そんな事を繰り返せば、嫌でもこの事実は外部に流出する。


 カトレア伯爵夫人は夫の分まで職務に忙殺されるようになり、子供達も含め社交界に出れば心無い貴族達から後ろ指を指されるようになった。

 また、まだ入って間も無い邸内の一部の者からも噂話をされるようになる。


 変わらず接してくれる者、同情する者、陰口を叩く者。

 その上元凶である伯爵からは、たまに顔を合わせると「貴族なのに何だその姿勢は。上に立つ者ならばもっと胸を張り前を向きなさい」と叱責される始末。


 カトレア伯爵夫人、アマリリス、ユリウスの3人からは日に日に笑顔が減っていった。


 このままでは全てがダメになってしまう。

 そうなる前に何かしらの手を打たなければ。


(・・・そろそろ潮時かしらね・・・)


 カトレア伯爵夫人は伯爵を糾弾すべく決意を固め始める。

 ネジが緩んでいる伯爵を糾弾などすれば、どんな返答が返ってくるのだろうか?


 お相手の方にはそのような意思は無いにしても、カトレア伯爵夫人と離縁し、新たに不倫相手を妻として据えるよう指示するかもしれない。

 相手は何の教養も無いただの平民。それに加え、売春を行っていた過去も持っている。


 そんな女性が伯爵夫人などになれば、使用人達にも領民達にも負担をかけ、虎視眈々と地位を狙っている敵対貴族からも目を付けられあっという間に上位貴族の椅子から引き摺り下ろされ、没落ルートまっしぐらとなるだろう。


 私はこの伯爵領が好きだ。大好きだ。

 豊かな自然に自分たちに好意を寄せてくれる領民達。


 皆を守る為には絶対に離縁してはならない。

 ならばどうすれば良いのだろうか・・・


 優秀と言われる彼女だが、疲れているせいか、上手く頭が回らない。

 久しぶりにアルコールをグラスに注ぎながら考え込んでいると、部屋の扉が叩かれる。


 扉の先にいたのは長女のアマリリスだった。


 何も聞かされずに連れてこられたのだろうか?

 アマリリスの手には混乱しているユリウスの手が握られている。


 取り敢えず部屋に入れ、言われるがままに人払いをするとアマリリスが口を開く。

 どうやら誰よりも先に限界が来たのは、アマリリスだったらしい。


 何故常に頑張ってきた自分達がこんな目に遭わなければいけないのか?

 別に憎いわけではない。あの無感情な父親に恋心が芽生えた事は、むしろ考えようによっては喜ばしい事だ。

 だからといって自分達が辛い目に遭う義理は無い。

 悔しくは無いのか?このまま黙ったままの毎日でいいのか?


 私は悔しい。・・・だから


「伯爵家の一員として、お父様に抗議をするべきですわ」



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