第53話 選択
【光の部屋】
光はベッドの上に蹲り、動けずにいた。
遠くで大きな音が何度も聞こえ、地響きがしたのは彼にも聞こえていた。
緋月が戦っている。それだけは解った。
――大丈夫だ。緋月が負けるはずない。いつも通りヘラヘラしながらまた俺のところにくる
光は何も考えたくなかった。
考え始めると、緋月の最後の冷たい言葉を何度も思い出してしまう。
こうして引きこもっていれば緋月が自分を連れ出しにやってくるという思考と、もう二度と会えないのではないかという思考が何度も何度も交互に光を蝕んだ。
コンコンコン……
部屋をノックする音が聞こえ、光は下を向いていた顔を上げた。
――緋月か?
そう思って光はベッドから転がり落ちるように扉まで走って向かった。
期待を胸に扉を開けると、視線の先にいたのは緋月ではなかった。視界の下方に何かいるのが解り、光は視線をそちらへ落とす。
そこにいたのは緋月の研究室にいた小鬼――――メフィストだ。光はその服や皮膚に付着した大量の血に驚き、1歩後ずさる。同時に嫌な予感もよぎった。
「ご期待に沿えませんでしたかね」
メフィストが光に対してそう問うと、光は心中を言い当てられて明らかに動揺した。
「な……俺に何の用だ。なんで血まみれなんだよ」
「この血液は彼の御方の血でございます」
「!」
色々なことが光の思考を支配する。
メフィストがここに来た意味、血まみれである意味、まだ続いている地響き……――――嫌な予感がいくつも沸き上がり、光はメフィストを掴みあげた。すると、まだ乾いていない血液の感触が光の手に伝わった。
「緋月は!? 生きてるのか!?」
「戦場ですから、存じ上げませんね。この出血量ですし、お止めしたのですがお耳に入れられずに――――」
「なんであいつが怪我なんてしてんだよ!? 怪我しても……死ぬわけないよな……?」
「……死ぬ確率という観点から言えば、0ではありません。むしろ、その確率の方が高いと言えるでしょう。お怪我の理由に関しては時間もないので詳しくは申し上げられません」
「なんで……」
光はメフィストを掴みあげていた手を緩め、彼を解放した。メフィストは乱れた自分の衣服を整え、再び光の方を見た。
「恋路に敗れお辛いでしょうが、今は戦う時です。彼の御方にはあなた様が必要です」
「うるせぇな……俺1人いなくても変わらねぇだろ……」
「恋路に敗れ」などと言われ、光は内心穏やかではなかった。それに「必要」などと言われても彼にとってはそう感じ取れない。
メフィストはその様子の光をまじまじと見つめる。
「左様ですか。光様は彼の御方とこのままお別れになるおつもりなのですね」
「……は?」
「わたくしはそれで結構です。此度の作戦に参加しないあなた様を、彼の御方は責めないでしょう。彼の御方はこの作戦が成功されたら御隠退される予定ですから」
くるりと光に背を向けてメフィストは光の部屋から立ち去ろうとした。それを慌てて光はメフィストの肩を掴む。
「ま、待てよ! 引退ってなんだよ!?」
「質問の多い方だ。彼の御方に直接お聞きになってください。あと、これをお渡ししておきます」
振り返ってメフィストは神経毒の入っている注射器を光に手渡した。
「お取り扱いには十分に注意してください。その神経毒は少しでも体内に入れば人間ならたちまち死んでしまう猛毒ですから。それが最後の1本です」
「俺は……行くなんて言ってねぇぞ!」
「行かなくても結構です。しかし……」
再びメフィストは光に背を向けた。
「ヒーローというのは遅れて登場するものと、相場は決まっているらしいですよ」
「…………」
「わたくしは失礼します」
光は危険な神経毒の入っている注射器を握りしめ、メフィストの背中を数秒見つめていた。
そして、覚悟を決めたように光は走り出す。
メフィストを追い越して走り去る光の背中をメフィストは見守っていた。
「彼の御方の言っていた通り、気難しい御方だ……」
そう言ったメフィストは、静かに研究室へと戻って歩き出した。
走っている最中、光は緋月と出逢ったときのことから今までのことを思い出していた。
――光君、落ち着いて。私は君の味方だから
家具をなぎ倒し、光が暴れまわっても、緋月はいつも光をなだめすかした。
渉と喧嘩をした時もいつも緋月は光と渉の間に入り、仲裁した。暴力が駄目だという事や、話し合いをするということを諦めることなく緋月は何度も光に教えた。
――じゃあ、まず読み書きから教えるからね。「えー」じゃない! 読み書きができないと生活していくのに困るでしょ!
光は読み書きのできないことを恥ずかしく思っていたが、それを素直に言い出せなかった。
緋月に対して嫌がってみせたけれど、光は読み書きが徐々にできるようになって嬉しく感じていた。
緋月が読んでいるような難しい本は読めないが、童話や、振り仮名のふってある本なら徐々に読めるようになっていった。
――私の側近として、仕事先にも連れていくからね
世の中の常識をほぼ知らなかった光を、時間が許す限り緋月はよく色々な場所へ連れていった。
――光君、ちょっと待って。箸……もしかして、箸、使ったことない?
飲食店に連れていかれた時に箸の使い方を知らずに、手づかみで食べようとして緋月を慌てさせたこともあった。
――仕事もやってもらいたいけど、お洒落とかどう? 服とか、髪型とか
伸ばしっぱなしの髪を縛っていた時期もあったが、光が緋月のことを意識し始めたころに、徐々に身だしなみというものを気にするようになった。
妃澄のようにピアスを開けたり、優輝のように髪を染めたり、琉依のようにジムに通って筋肉をつけたりした。
ほんの少しの光の変化に、緋月はいつも気づいて声をかけた。光にとってはそれが嬉しく、徐々に身だしなみも派手になって行った。
――レイ、誕生日おめでとう
誕生日などという概念がなかった光にとっては突飛な話だったが、祝われて悪い気はしなかった。
首飾りをもらってからは光は一度も外したことはない。鏡でそれを目にするたび、自分が特別扱いをされているのだと思い、智春に対しても以前より優しくできた。
今まで色々なことをしてもらったが、一度も光は緋月に礼を言えていなかった。
引退するということも、メフィストの身体についていた大量の血も、戦って死ぬかもしれないということも、光にとっては許容しがたいものだった。
「くそっ……! なんだってんだよ……!」
大きな衝撃音が何度も響く戦場に向かって、光は注射器を握りしめて走った。
◆◆◆
【緋月】
私がれい華とアダムに合流したとき、れい華は満身創痍で、アダムの方も何度も負傷しては再生を繰り返しているのか、首のエネルギーを大量に溜め込んでいる数珠がいくつか減ってしまっていた。
アダムたちが暴れたせいで家がなぎ倒され、瓦礫の山の中に逃げ遅れた人が倒れている。
シャーロットを少し離れた場所へ降ろし、隠れているようにと指示した。
「いざという時のため、ここで待機していて」
「解りました。気を付けてください」
私は息も絶え絶えになっているれい華の元へ走った。もう立っているのもやっとの状態のようだった。
腕、脇腹、太もも、脹脛等、いたるところから出血している。手が血で濡れているにも関わらず、ナイフは手放さないようにしっかりと手に握っている。
そのナイフには神経毒が塗布してあるようだった。注射器や麻酔銃を使うより、こちらの方が使えると判断したのだろう。
「れい華、下がって」
イヴの方を見て、私は絶句した。
茜の身体もボロボロになってしまっていたからだ。
れい華やアダムとの戦闘で皮膚が大きく裂けている箇所もあり、骨まで見えている部分もあった。
特に酷いのが腕だ。防御創と思われる傷がいくつもついていて、骨も折れているのか関節ではない部分が曲がっている。
「へぇ、生きてたの」
そう言いながられい華はイヴに尚も向かって行った。
もうイヴは茜の身体を盾に動かす程度にしか動けない様子だ。しかし、当たり判定が小さくなった分、イヴの方ではなく茜の身体にナイフが当たる。
私はそれを見ていられずにれい華の身体に血の裁量を伸ばし、捕らえて引き戻した。
「ちょっと! 何なの!?」
「やめて、茜の身体が……」
「そんなこと言ってる場合!?」
仲間割れをしている私たちを見て、イヴは笑いだした。
「ははははははは……緋月……お前は死体愛好家か?」
イヴは自分の身体を伸ばし、瓦礫の下に倒れている人間を取り込み始めた。まだ生きている人もおり、悲鳴やうめき声が聞こえてくる。
「アダム! 武器形態!」
私の身体にまとわりつくようにアダムが武器形態となり、イヴの取り込もうとする触手を切り裂いて分断して阻止しようとする。けれど、切られた先の細胞が生きており、市民が次々と取り込まれてしまった。
イヴは一度バラバラになり、それぞれがゆっくりと動きながらこちらへ向かってくる。一瞥するだけでは正確な数は解らないが、10匹以上はいる。
「完全に分裂して意思の統一なんてできるの?」
「いや……意思があるのは本体だけで、後はただ肉を喰らうだけの悪魔の分身ってところかな……でも、取り込めば取り込むほど自我と知恵が芽生えてしまう」
「なにそれ、どうすればいいの」
私とれい華が話している間にもイヴは攻撃の手を止めず、積極的に茜の身体を使って私の方を狙ってきた。
攻撃をかすめると私の皮膚は裂けてそこからまた血が流れる。やはり茜を媒介にしている攻撃は私の身体の傷は再生しない。
何匹かのイヴの分身は市街地の方へノロノロと向かい始めていた。
「マズイ! 市街地に行かせないようにして!」
「めちゃくちゃ言わないでよ……っ! 数が多い!」
イヴの分身たちは動きが遅かった。ゆっくりと動いているところをれい華が首を切り落とそうとする。両手のナイフを振りぬくが、骨が邪魔して切断まではいけなかった。
切断しきれなかった部分はすぐさま繋がった。
「このナイフじゃ切断できない!」
すぐにでもそちらの処理に向かいたいが、茜を動かされている私は集中できない。
取り込まれている動きではなく、マリオネットを動かすように茜の身体を無理やり動かしているようだ。
動きはそれほど早くないが、拘束することもできず防戦一方になってしまう。茜の身体を縫い付けたとしても、バラバラにしてでもイヴは動かし続けるだろう。なによりも、私は茜の身体をバラバラにすることなどできない。
「私ももうやめたいんだ。ここで手打ちにしないか?」
その言葉に、私は心動かされる。
――止めたら、茜を解放してくれるのか?
解放してくれたら私も追うのをやめる……それで、お互い息をひそめて歴史の表舞台から消える。それで手打ちになるのならもう、その手も考えなければならない。
しかし、腕の中で体温を失っていった茜の姿を今でも鮮明に思い出せる。
この憎しみを一度たりとも忘れた時などない。
「絶対に根絶してやる……!」
「アダムも殺すのか? ははははは、滑稽だな」
「滑稽なのはお前の方だ!」
私がイヴの対処に追われている中、れい華は分身たちの相手を懸命にナイフを振りぬいている。複数体で襲い掛かり、れい華の肉を喰らおうとしていた。
普段のれい華の動きならば避けることなど造作もないことだろうが、すでにイヴとの戦いで疲弊している彼女は防御した際に腕の肉の一部を持っていかれた。
それに苦痛の表情を見せながらもナイフを振ってその場を乗り切った。
「対処しきれない! 緋月! 早く!」
トスッ……
麻酔針がどこからともなく飛んできて、イヴの分身の1体に刺さった。
「ぁああぁあぁああ……」
分身はうめき声をあげながらドロドロに融解して動きを止めた。
立て続けに麻酔針とナイフが飛んできて、イヴの分身たちに次々と刺さり、同じように融解していった。
「緋月! あんた、来たら駄目だって言ったでしょ!?」
後ろから優輝の怒声が聞こえた。
恐らく、優輝がいるということはわ子や智春も一緒にいるのだろう。
振り返って確認するわけにもいかず、私はイヴの攻撃を避け続けた。大振りの一撃を避けた際に背中が一瞬見える。茜の身体に根差そうとしているイヴの細胞が見えると、私は憎しみに我を忘れるほど腸が煮えくり返った。
目が大きく見開かれ、無意識に歯を食いしばる。
イヴの細胞の集中している箇所を狙って血の裁量を振るうが、イヴは身体をひねってそれを避けた。私の振りぬいた血の裁量は茜の首をかすめ、皮膚を切り裂いてしまった。
――やっぱり、これじゃ手出しできない……
イヴは散った自分の分身の残骸に素早くそれを回収し始めた。
「アダム! 残骸を食え!」
回収される前にアダムに食べさせようとするが、アダムが食べるよりもイヴが回収する方が圧倒的に早く、その行動を許してしまう結果になった。
その過程でれい華や優輝たちにもイウは触手を伸ばすが、私がそれを切断し、阻止する。負傷しているれい華を血の裁量で巻き取り、優輝たちの側に降ろした。
「優輝、れい華をお願い。傷が酷いから止血して」
「ちょっと! あんたの傷は!?」
「私はシャーロットに治してもらった。平気」
れい華は鬱陶しそうに顔を背けた。心配そうに智春とわ子が見ていたが、れい華は険しい表情をして私の指示を突っぱねた。
「私は別にいい。それほど深手じゃない」
「そのお身体ではこれ以上無理されない方がいいです。食いちぎられた箇所からかなり出血しています」
「相手があれなんだから、この程度は仕方ない。そんなことより緋月、いい加減にしてよ。アダムに茜ごと食べさせれば済む話でしょ。いつまで躊躇ってるの? 緋月も新しい傷で血だらけじゃん。殺されるよ」
「…………」
イヴの動きは遅く、統合に時間がかかっている様だった。崩れた細胞の中の神経毒の排除が中々できないのか、ズルズルと不気味な動きをしている。
れい華の言葉に返す言葉を探していると、最初に反応したのは優輝だった。
「あんた、そんな言い方ないでしょ? 緋月がずっと生き返らせようとして――――」
「緋月が殺されたら、私たちもあれに殺される。それを緋月は解ってるのにまだ躊躇ってる。人類を取るか、恋人を取るか、はっきりして」
いざ、そう迫られると自分の中に明確な答えがなく、はっきり答えることができなかった。
「……両方取るんじゃ、ダメかな?」
「この状況で、よくそんなこと言えるね」
少し強めの口調でそう言われると、判断できないでいる自分の心にグサリと刺さる。
バラバラに散った細胞を集め終わったイヴは、巨人形態のアダムと同等の大きさにまで膨張していく。茜の身体はまだ完全には取り込めないらしく、胸の部分に埋め込まれるように囚われていた。
決断を急がなければもうイヴが動き始めてしまう。
「恋人を取ったところで、救えるとは限らないけど」
「いい加減にしなさいよ! 仲間割れしてる場合じゃないでしょ!?」
れい華は優輝に掴みあげられたが、鬱陶しそうにそれを払った。
両方助けるつもりでいたが、片方を取らなければならないのなら、私はどちらを選ぶ?
その問いの重さに私は簡単には決断できなかった。
選ばなければならないのは解ってる。しかし、選びたいものは決まっている。
「……私は人類の未来より、茜が大切。水鳥麗が木村冬眞の為に人間社会を敵に回したようにね」
れい華は私のその返事を聞いて、ほんの1秒、2秒程度考えている様子を見せた。
「そう。好きにしたら」
そう言ってれい華は両手ナイフを持ち直した。
もうナイフでどうこうできるようなサイズじゃなくなったイヴに対してナイフを構える。
――諦めたら、勝てるのだろうか
違う。
私にとっての負けは、茜を失うこと唯一つ。
古代の悪魔たちが相手の身体を食べ合っては再生を繰り返し、永遠に生き永らえていたように、私とイヴの戦いが永遠に終わらなくても、どうしても茜を取り戻したい。
「ひづき……うごきだしたよ……」
アダムの声で私は改めて膨張したイヴの身体に向き直った。




