第45話 バケモノ
【緋月幼少期】
「おい化け物! 近寄るな! あっちに行け!」
無邪気な声。
無邪気に残酷なことを言う子供の声だ。
「そうよ! 化け物が移るからあっちに行って!」
老若男女を問わない冷たい声が耳に響いてくる。外に出るといつもこうだ。
私はまだ生後2年も経っていない赤ん坊のはずなのに、まだ皆に保護され、無条件に愛され、そして生きているだけで祝福される存在のはずなのに。
私の身体は10歳前後の幼体。本来10歳の子供が理解する範囲を大きく逸脱して理解ができるのに、どうしてこんなことになっているのか解らなかった。
――どうして私だけ……?
そこは荒野だった。
そこら中で建物が半壊していたり全壊していたりする。今日は天気があまりよくない。今にも雨が降りだしそうな暗い曇天だった。
私は兄を探して荒野を歩き回っていた。
――身体が痛い……
まだこの前の実験の副作用が残っている。気を抜いたら身体が制御できずに暴走してしまいそうだ。痛覚を遮断して、私は痛みを取り去った。
しかし、心の痛みまで私は取り去ることは出来ない。
不意に私は涙が出てきた。
本来2歳くらいなら、大声を出して泣いても許されるのに、私は泣くことすら躊躇わなければならない。泣いてもどうにもならないことくらい理解していた。
――ツライ、クルシイ、イタイ、カナシイ……
これがいつまで続くのだろう。兄を殺したら私は解放されるのだろうか。
涙を拭うこともなく、歪んだ視界の中歩いて人気のないところまできた。
誰もいないほうがいい。誰に会っても冷たい言葉をかけられるだけだ。その言葉を理解できなかったらどんなにいいだろうか。
どうせ壊しても再生するし、鼓膜を破いてしまえばしばらくは何も聞かなくていいのかもしれない。目もつぶしてしまおうか。そうすれば実験に狂う母も、手を挙げる母も、悪魔細胞実験に悲鳴を上げる母も、見なくて済む。聞かなくて済む。
――心臓を止めてしまえばもしかしたら死ねるかもしれない。脳を壊せば死ねるかもしれない。炎の中に身を投じたら死ねるかもしれない…………
それで死ぬなら、今頃私は死んでいるはずだ。
「…………」
絶望だ。
この世にそれ以外があるように思えなかった。
私は廃屋の適当なところに腰かけ、膝を抱えた。自分の真っ白な長い髪が地面について汚れるのも気にならなかった。
「もう嫌だよ……こんなの……」
誰に言うでもなく、私はそうつぶやいた。
「……何が嫌なんだよ」
私は咄嗟に飛び退いて声のする方へ警戒態勢を取った。身体の背部から無数の鋭い鉄の鍵爪のついた鋭い触手が反射的に出る。目を見開いて、その暗闇に目を凝らした。
はらりと古ぼけた布が落ち、そこから髪の毛が肩まである10歳くらいの少年が出てきた。身体中、白い肌が傷だらけだった。それに異様に痩せている。
兄ではないことが解った瞬間、私は身体から出している物騒なものをすべて身体に戻した。
「うわっ……びっくりした。……お前、大人たちが騒いでる例の化け物か」
「なに……?」
みんなして私をバケモノバケモノと言う。
――好きでこんな身体になったんじゃない……!
バケモノという言葉に私は自分の制御を失った。私はその少年にとびかかり、首を掴み上げて右手の鋭い爪で喉元を切り裂いて殺してやろうとした。
泣き叫んで私に懺悔して、後悔して、苦しいながら死ねばいい。
しかし、爪を喉元に突き立てても、その少年は瞬き一つしなかった。泣きながら睨みつける私の目を冷静に見ていた。
「……どうした、俺を殺さないのか?」
子供らしくない話し方と声色。手から伝わってくる脈拍もけして早くはなかった。
「死ぬのが怖くないんですか……?」
「別に」
私はその少年から手を離した。そして自分の元の身体に戻った。
感情を抑制させなければいけないと私は感じる。危うくこの少年を殺してしまうところだった。
外では雨が降り出し、激しく打ち付ける雨の音が響き渡る。
「ごめんなさい」
「やっと死ねると思ったのに、なんで殺さねぇんだよ」
その少年は、顔も、服から出ている身体の部分すべて傷だらけで痣だらけだった。
そこら中で噴煙が上がっている。何か争いごとに巻き込まれたのだろうか。
「私が怖くないんですか……?」
「怖くねぇよ。…………お前『あっちの化け物』じゃなくて、アレと闘ってる方か」
「………………」
こんな普通に会話をしたのは初めてだった。
私はなんて答えたらいいかわからずに押し黙る。その少年はその場に座り込んだ。
「何でさっき俺を殺そうとしたんだよ」
「…………」
「黙ってたら解らねぇだろ」
「…………みんなにバケモノって言われて……もう嫌だったから、つい頭に血が上って……ごめんなさい」
私は恥ずかしかった。
恥ずかしいという感情を初めて持ったことに内心戸惑ったけれど、それを悟られないように私は視線を逸らした。
「……悪かったよ。お前、名前は?」
その少年は私に謝罪した。謝られたことなんて、今まで一度もなかった私は面食らった。
――この少年は他の人間たちとは違う……何故?
「緋月……」
「ひづき?」
少年は難しそうな顔をした。母以外の人間に初めて自分の名前を呼ばれた。
私はそれが嬉しかった。私のことを『化け物』ではなく『緋月』と呼んでくれたことが、この上なく嬉しかったのだ。
こんなに嬉しいことがこの世にあるんだとすら感じた。
「あなたは……?」
「俺は…………――」
少年は言葉の途中で倒れた。
私は何故少年が倒れたのか解らなかった。少年の身体に触れると、身体が異様に熱く、震えているのが解る。よく見るとものすごく顔色が悪い。
「はぁ……はぁ……」
私はどうしたらいいか解らなかったが、彼を抱きかかえて翼を形成した。
――助けなきゃ……
そう思って雨の中自分の家の方向へ飛んだ。なるべく彼に雨が当たらないように抱きかかえながら。
「お前……すげえじゃん……」
彼がか細い声でそう言ったのが聞こえた。
私は涙が出てきた。
――これはなんの涙なんだろう?
その涙は雨と混じって露と消えていった。
◆◆◆
無我夢中で彼の看病をしようとした。
医学の本を読めばなんとなく内容は解ったけれど、どれが正解なのか解らなかった。
私は怖かったけれど、母に助けを求めた。母は必死に訴える私を見て渋々彼を見る。彼を見た母は顔を歪めていたのを鮮明に覚えている。
「………………」
母は手際よく処置をしてくれた。
彼はそれでも丸1日目覚めなかった。私はずっと彼の傍にいた。何もしてあげることはできなかったけれど、ベッドで眠り続ける彼を見て色々なことを考えていた。
私の記憶が確かであれば、母は初めて私に普通に話しかけてきた。
いつもヒステリックに喚き、私を叱咤し、手を挙げる母が普通に話しかけてくることに私は驚いた。
「この子、どうしたの緋月」
「廃屋でたまたま会いました。とても具合が悪そうで……身体中傷だらけで。急に倒れてしまいました……」
母はわたしが真っすぐ母の目を見ると、罰が悪そうに目をそらした。
「……酷い栄養失調の上、肺炎や感染症にかかっている」
「……助かるのですか?」
「そうね……暫くうちに置いていいわ。私は忙しいから緋月が面倒見なさい」
「はい」
母と普通に話しができた。彼が現れてから初めてのことばかりだ。
私は彼の点滴が切れそうになると点滴を変えた。
額の濡れタオルがずれたら治してあげた。
私が何度目か解らないタオルを交換した際に、彼はやっと目を覚ました。
「あ……目が覚め――――」
彼は飛び起きた。
あり得ないようなものを見る目で私を見た。いつものみんなが私を化け物として見る目だ。
でもがっかりはしなかった。
結局彼もそうだっただけと思っただけだ。
「ここ、どこだよ」
「私の家……ですけど」
「帰らなきゃ……!」
点滴の針を乱暴に外し、少し腕から出血しているのも意に介さず、彼はどちらが出口かも解らないはずなのに走った。
「待ってください、まだ身体が……」
「うるせえ! おい、俺を元の場所に戻せ!」
私は何も言い返せなかった。そうだよね、私なんかと一緒にいたくないよね。
「わかりました……」
彼の傷だらけの身体を抱きかかえた。そして翼を広げて飛んだ。彼は手を震わせていた。真っ青な顔をしている。
「怖いですか……?」
「あぁ……怖い」
そのとき、言葉の真意を私は解らなかった。
彼を出会った場所辺りに降ろして、すぐさまその場から立ち去ろうとした。しかし彼が地面に降ろしたのにまだ震えて真っ青な顔をしているのを私は不思議に思った。
彼はすがるような目で私の顔を見る。
「どうしたんですか……?」
「…………いや、なんでもねぇよ。じゃあな」
彼はフラフラと歩きだした。私は帰ろうと彼に背を向けたが、何か心の奥に引っかかりがあって飛び立てずにいた。そして彼の後を遠くからついていくことにした。
彼がたどり着いたのは一軒の家。大きな家だった。それにこの辺りは家屋が普通に残っているようだ。他の家も壊れていない。
彼が自分の家に入るのを待っていた。しかし、彼は中々入ろうとしない。扉に手を伸ばしては手を引っ込める動作を繰り返している。
――何をしているのだろう?
私が疑問に思ってそれを見ていたら、急に扉が開いた。中から体つきの良い中年男性が出ようとしていたところを彼を見つける。
「あ……」
彼が身体を震わせた。その意味が次の瞬間解った。
「このクソガキ! どこに行っていた!?」
男は怒号をまき散らすと、彼の髪の毛を掴み上げて家の中に引きずりいれた。
バタン!
扉が大きな音を響かせ閉まる。
私は周りに人がいないことを確認して、その家の屋根にそっと飛び乗った。そして中からの声に耳を澄ませる。
「痛い! 離せよ!」
「親に向かってなんだその口のきき方は!?」
「悪い子ね! お仕置きよ!!」
ガシャン! ドンッ!!
「この穀潰し! 外に出るなって言ってるのが解らねぇのか!?」
「やめろ! やめてくれ!!」
私は心臓を冷たい手で掴まれている感覚に陥った。まるで母が私にするかのような暴力を容易く想像させたからだ。
私はどうしたらいいか解らず、キョロキョロと周りを見渡した。しかし、もちろんどこを向いても解決策なんて思いつかない。
「このガキ……いっそのこと殺して――――」
私は『殺す』という単語が聞こえた瞬間、考えるのをやめて慌てて窓を割って中に入った。
新しい傷ができて出血している彼と、その向かいに先ほどの中年男性と中年女性が見えた。3人とも驚いた顔をして私の方を見ていた。
中年男性の手には包丁が握られていた。
――本当に殺そうとしてる……?
「お前……どうして……」
「ひっ……化け物!」
私は背中から数本の血の裁量を形成し、彼の父親と思しき男にとびかかった。
包丁を持っていた手を狙って包丁を弾き飛ばし、壁に殴り飛ばした。中年男性は背中を強く壁に打ち付け、うめき声をあげる。中年女性の方は恐ろしいものを見る目で私を凝視し、完全に腰を抜かしていた。
「…………」
私は血を流している少年を見た。その顔は恐怖にひきつった顔ではなかった。
その顔を私は一生忘れない。
こんな姿の私を見ても、彼は奇異の目で私を見なかったのだから。
「ごめんなさい……殺されちゃうと思って」
「ひづき……」
バタバタと音をさせて、中年男性は弾き飛ばした包丁の方へ行き、それをとった。
「この化け物がぁあああああ!!」
そして私に向かって叫びながら突進してきて、私の心臓に深々とそれを突き立てた。私の心臓が動きを止める。
「ひづき!!」
少年は私の名前を叫んだ。中年男性は包丁を手放し、私から離れた。
不思議と痛みはなかった。
でも、このままにしたら、彼はこの男にいつか殺されてしまうことは解った。
「な……なんで……なんで死なないんだ」
私は包丁を掴み、抜き取った。血はついていなかった。みるみる内に傷が塞がった。
――死なない? 違う……
「死ねないんですよ」
◆◆◆
彼の両親は赤紙に連行されて行った。もうそれから二度と見ることはなかった。
彼は私と一緒に暮らすことになり、私の家に来た。
「あの……ごめんなさい。あなたの両親とのことなのに勝手なことして……」
私が罰の悪そうな顔をしていると、包帯だらけの彼は私の額を人差し指ではじいた。
「ばーか。んなこといいんだよ。あと、俺は『あなた』じゃねぇ。茜だ」
「……茜さん?」
「あー! その気色の悪い話し方やめろよな。茜でいいよ」
「ご、ごめんなさ――――」
「『ごめんなさい』じゃなくて、そこは『ごめん』だろ。ほら、言ってみ?」
「…………ごめん」
「今度その気色悪い話し方したら、殺すからな!」
「どうやって?」
「…………確かに」
彼は……――――茜は笑った。
何がおかしいのか解らなかった。でも、茜が笑っているのを見ると私も嬉しかった。
◆◆◆
少しずつ、私は茜と共に成長していった。
私は身体は彼より大人びていたが、情緒面の発達が酷く未熟だった。それとは逆に茜の方は、身体は年相応の幼さはあったが、情緒面は私よりもずっと大人びていた。
私たち2人は支え合って生きた。
2人で勉強したり、戦いの稽古をしたり、他愛のない話をしたり、笑い合ったり、時々喧嘩したりして、そんな日々が宝物だった。
それが唯一の私の支えだった。
茜は私と共に赤紙で優秀な戦士として、法の番人として活躍していた。
私の母は、日に日に人間らしさを失っていった。意識や記憶の欠落、人間らしさの欠落。身体の奇形。それでも、かろうじて人間の形を保っていたし、仕事面では成果をあげていた。そんな母の姿を見ていると心が痛んだけれど、私にはどうしようもなく受け容れるしかなかった。
茜と支え合って赤紙の仕事をする。そんな生活が永遠に続いていくのだと私は思っていたし、私に問って切なる願いだった。
でも、私のその願いは儚くも崩れ去ることになる。
茜が17歳になったころ、赤紙内でもそれ以外でも茜に対する黄色い声をたびたび聞くようになった。
「ねぇ、茜くんってすごくかっこいいよね!」
「わかる! あの長い髪と白い肌と、あの鋭い目つきが最高よねぇ」
「でもあの化け物と付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってるんじゃなくて、ただの家族じゃないの?」
「えー、気になるー!!」
そんな会話を聞いてしまったことがある。
『付き合う』ということがどういうことかよく解らなかったけれど、要するに他の人とは差別化して特別な存在になるというのは解った。茜がそんな風に言われているのを聞いて、私はなぜか心が痛んだ。
それを本人に聞くのはおかしな気がしたけれど、モヤモヤしたままは嫌だった私は茜に直接聞いた。
一緒の部屋で茜が武器の手入れをしていたときに、私は口を開く。
「ねぇ、茜」
「なんだよ」
茜は長い髪をかき上げながら私の方を向く。
「…………なんでもない」
「あ? 言えよ」
「……茜は、その……誰かと付き合ったり……するの?」
「はぁ? 何言ってんだお前」
茜は馬鹿にするように笑って私の方を見た後、また真剣な顔をして自分の刀の手入れの手元に視線を戻した。
「なんでそんなこと聞いてくるんだよ」
「……別に」
「なにお前、ヤイてんのか?」
「なっ……茜こそ何言ってるのさ」
私はニヤニヤする茜を残して部屋を出た。
そんなこと聞くんじゃなかったと心底私は思った。あの嘲笑ったような目、態度。私はそれを振り払った。
自分の腰まで伸びた白い髪に光が当たって眩しく反射するのを見ると、やはり自分が人間ではなく、イヴと同じバケモノなのだと感じざるを得なかった。
その数日後、茜が綺麗な女性と一緒に歩いているのを見かけた。
いや、茜は前々からそういうことが度々あった。でも、茜のことを意識してから、なんだかそれが凄く嫌に感じる。
赤紙の廊下で偶然に、私が茜とその女性とすれ違ったときがあった。茜は目をそらす私を満足げに見て、すれ違いざまに「ばーか」と私にしか聞こえない声で耳打ちした。
返す言葉が見つからなかった。
なんなんだろうか、この感情は。解らない。私には必要ない感情だ。
そう思って部屋で一人で考えた。考えていると、どんどん気持ちが落ち込んでいく。だから私は仕事に精を出した。夢中で仕事をしているときは茜のことを考えなくてもいい。
今まで一緒の部屋で眠っていた茜と距離を取るようになった。
茜も私が避ければ避けるほど、茜の周りには女の人が増えていった。私はますます茜を避けるようになった。
見たくなかった。
胸の辺りがずっと苦しかった。
その感情はずっと消えなかった。
そんな日が続いていたが、私と一緒に仕事をしていた若い男性が、私によく話しかけてくるようになった。
爽やかで、優しくて茜とは正反対の普通の好青年だ。私はその人とよく話をするようになった。
しかし、頭の中は茜のことでいっぱいだったせいでうまく話ができなかった。それでもその青年、如月はこんな私に良くしてくれた。
ある日、如月に呼び出されて赤紙の中庭の噴水のところに行った。
「用って、なに?」
「緋月様……僕と付き合ってください!」
突然のことだったので驚いた。何を言っているのか私は解らずに半ば混乱する。
――私と? 付き合う? バケモノの私と……?
「ま、待ってよ。私……人間じゃないし――――」
「そんなこと、どうでもいいですから!」
如月は私に近寄ってきて、私の手を取って握った。
「僕は……ずっとあなただけを見てきた。僕ならそんな顔をあなたにさせない。僕が幸せにして見せますから」
如月は私を抱きしめた。
私よりも少し背の高い如月の腕の中に私は収まった。いわれのない感覚に私の身体は硬直した。
「……如月――――」
――もう、いいかな。茜とはもう……
そう思い、如月に承諾の言葉を口に出そうとした私の身体は、乱暴に如月から引きはがされた。その引きはがした人物の顔を見て私の身体をビクッと震えが走る。
その人物は茜だった。
茜は物凄い形相で如月を突き飛ばした。
「何するんですか、茜様」
「てめぇ……俺の女に手ぇだしてんじゃねぇよ。殺すぞクソガキが」
――え……?
「いつも他の女性にかまけて緋月様を放っておいたくせに、何を言っているんですか。だから僕は……」
「うるせえ! 二度と緋月に近づくな!」
茜は私の腕を強く掴んだまま、足早に如月の前から遠ざかった。
捕まれている腕が痛い。折れそうなほど強く茜は私の腕を掴んでいた。でもおかしい、痛覚は遮断しているはずなのに。
「茜、痛いよ。離して!」
茜は聞いてくれない。
以前茜と一緒に歩いていた綺麗な女性が前方から歩いてきて、茜に声をかけた。
「茜君、どうしたの?」
「どけ」
乱暴にその女性をどかして、彼女に目もくれなかった。
茜は赤紙の上位の人間しか入れない書庫の扉の鍵を開けて、私をそこに投げ込んだ。茜は鍵を再び閉める。
すぐさま私は茜に向き直って抗議した。
「どういうつもりなの茜? 如月は……」
「今度そいつの名前を出してみろ、ひでぇ目に遭わせるぞ」
いつもと違って怒りに満ちた茜の顔と声。私は怖くて後ずさりした。
茜は私の腕を再び掴んで、書庫の中にあったソファーに向かって突き飛ばす。されるがまま私はそのソファーに倒れ込んだ。
「なに、茜、どうしたの……怖いよ……」
「あの男のことが好きなのか?」
「え……なに言って――――」
「良いから答えろよ!」
パシン!
私の頬を茜は殴打する。
やはりおかしい。痛みがある。
その違和感を抱えながら、私は茜の質問に答えた。
「別に好きじゃないよ……」
「じゃあさっきのは何だよ!?」
茜は小型のナイフを取り出した。それを私の左頬に当てる。
「あれは、如月が一方的に――――」
ナイフを茜が引くと、左頬に鋭い痛みが走った。赤い液体が伝い落ちるのを感じる。
――なぜ? 何故傷がつくの? なんで痛みを感じるの? なんで傷が塞がらないの……?
「痛い、茜、痛いよ!」
「黙れ!」
両腕を茜の左手一つで頭の上で固定される。茜は私に覆いかぶさるように上に乗っていて、なぜか私は抵抗できなかった。
私の力なら簡単に振りほどけるはずなのに。
「お前は……俺のものだ。誰にも渡さない。誰のものなのか証を刻みつけてやる」
茜が私の頬にナイフを当て、引くたびに何度も鋭い痛みが走り、その度に私は身もだえた。
「はぁ……はぁ……やべぇ。興奮してきた」
茜は私の服に手をかけて脱がせ始める。
「やだ、茜。何してるの。嫌だ、見ないで!」
私の嫌がる声を満足げに聞きながら、茜は私の衣服を次々とボタンをはずして脱がしていく。そして茜が私の服の中に手を入れて身体を触ろうとしたときに、私は耐えきれずに茜の手を振りほどいて突き飛ばした。
「なんだよ、恥ずかしいのか?」
「こんなの……こんなの嫌だ…………」
「何がだよ」
「ふざけないで! 私は……」
茜の恋人じゃないんだから。
そう言えないまま私は泣きながら衣服の乱れも気にせず、扉の鍵も扉ごと壊して飛び出した。
部屋に閉じこもって泣いた。
頬の傷はいつになっても塞がらず、痛いままだった。
◆◆◆
あれから数日、茜とは気まずくて顔を合わせられずに、逃げるように生活していた。
私の頬の傷は徐々に塞がってはいったけど、ガーゼをずっと貼っている状態だ。
母も状態もよくなく、いつ母が母でなくなってしまうのかという面でも、私の精神状態は極限まで張りつめていた。茜という支えがなくなって、私は以前にもまして精神的に不安定になっていた。
それでも、如月の申し出は断った。
こんな気持ちのまま如月に甘えてしまうのは如月に失礼だと思ったし、私は……茜以外の人はどうしても好きになれそうになれなかった。
茜はあれからも相変わらず他の女の人を連れて歩いていたし、何事もなかったかのように楽しそうに談笑していたりしていた。
あれは夢だったのではないかと私は思っていた。しかし、自分の左頬に触れるとまだ痛みがあり、傷が塞がらず、徐々に塞がってきている部分を見ると、傷痕が残ってしまうような気がした。
――今までこんなことなかったのに
その日は天気が悪く、茜と出逢った日のように今にも雨が降りそうな曇天だった。私は自分の部屋であの日のように膝を抱えていた。
「なにしてんだろ……私」
茜に素直になれない自分が嫌だった。あんな態度の茜が嫌だった。茜とこのままの状態は嫌だった。
でも、私は結局人間じゃない。茜と私は住む世界が違う。同じ家で生活しているのに。同じように成長してきたように思っていたのに。結局私は死ねない。
死ねないという言葉を連想したとき、頬の傷の存在を感じた。
――もしかしたら……茜なら私を殺せる……?
その思考を遮るように大きな「ドオォオン‼」という爆音が聞こえた。
何事かと思い外を見たら、土煙が上がっていて赤紙の人たちが逃げまどっているのが見えた。
私は窓から翼を広げてその音のした方へ飛ぶ。
そこに《《いた》》。
成人男性の姿になっていたが、それが兄だと、イヴだと私はすぐに解った。
人を食って口の周りを真っ赤にしているイヴが、私に気づいてこちらを見る。そしてニヤリと笑って私に向き直り、とびかかってきた。
人間離れした跳躍力で跳んで、イヴは私の翼をむしり取った。
「イヴ……!」
バランスを崩してイヴともども地面に落下する。すぐに翼をしまい、体勢を立て直してイヴとの格闘となった。
私は自分の血液で剣を形成し、イヴの腕を切り落として首に深い傷を負わせるが、たちまちそれは再生した。それは私も同じで、イヴに腹部に風穴を空けられてもすぐさま再生する。私が血の裁量で捕えようとしても、イヴはそれをいとも簡単に切り裂いた。
お互いこの程度の戦いで死ぬわけはない。
お互い熾烈な戦いを繰り広げた。私は赤紙の施設の中に入った。ここなら仕留める為の毒がある。
イヴが中で大暴れして、部屋の仕切りもすべて何もかもが崩れ去った。薬品の類もすべてがれきの下に埋まってしまった。
――しまった……イヴに効く毒が……
そちらに意識を持っていかれた私は、イヴの鋭い触手に肩や腕と脚すべて貫かれて壁に縫い留められてしまった。
「っ……!」
イヴはそのまま何度も何度も私を切り裂いた。顔や、首、心臓、内臓部分。それでも痛覚を遮断している私には痛みはなく、抵抗する気力も失いつつあった。
――あぁ……もう、このままされるがままに死ぬのも選択肢かな……
そう考えた先に茜のことが頭によぎる。
こんなときなのに、私は茜のことばかりだ。
「ふん、どうした? 抵抗しないのか? 死なない身体ゆえの慢心か?」
イヴが話したのを私は初めて聞いた。
――それが成人になった兄さんの声なのだろうか
低い声だ。イヴを見ると、整った顔にギラギラした目、凶悪そうな血まみれの口、私と同じ白い短い髪だ。
まぎれもなく私の兄が成長した姿だと感じると、私はズタズタに引き裂かれている胸が痛むような気がした。
「死にたいよ……」
「なに? ははははははは!」
イヴは笑い出した。その笑い声の振動が私の身体に伝わる。
「これは面白い。死にたいだと? そうだろうなぁ……貴様は自我を保ったまま永遠に生き続けることになる。だが……貴様はまだ完全適合になっていないな? どうした? 人間であることへの未練があるのか? もう十分人間ではないのにおかしな話だ!」
ドスッ! ブチブチブチッ……
私の心臓をイヴは掴み、引きちぎった。
大量の血液が流れるがすぐに塞がって新たな心臓が構築されたのが解る。ものの10秒程度のことだ。イヴが私の心臓だったものを食べながら私を見つめる。
「しかし……妙だな。その顔の傷。私たちは傷痕など残らないはずなのに……。原因を言え」
イヴは何もしてこない。痛覚を遮断していることは解っているのだろう。
無気力に死んだような目を向ける私を半笑いで眺めていた。
「お前は何のために生きているんだ……人を食うだけの生は楽しいか?」
「愚問だな。人間の生活をずっと見ていたが実にくだらないものだった。子供を成さない生殖行為、惰眠をむさぼり、挙句の果てにはありもしない愛? 友情? 結局争うことになるのにそんなもの邪魔になるだけだ。それに、私やお前は生殖行為などしなくても永遠の命があれば伴侶すら必要ないだろう? お前こそそんな人間らしい情緒など感じて何を持って生きているのだ?」
「確かにそうだな……考えるだけ……しんどいだけだった」
私はぐったりして、ただ心臓を食べているイヴを見つめた。
――このまますべて食べられたら私は死ぬのだろうか……?
「私を食い殺せるか……?」
「時間をかけてゆっくり……なぁ?」
「…………」
諦めかけていたそのときに、声が聞こえた。
「緋月!」
私の諦めかけていた考えをふり払ったのは茜の声だった。私は一気に青ざめる。
――駄目だ、来たら――……
「おいてめぇ! 緋月から離れろ!」
「うるさい肉塊だな」
イヴが茜に向かって自分の血液を硬化させ、鋭く貫こうと狙った。
ガキンッ!
「ほう、どうした? 急に生きる気になったのか?」
茜に向かった凶牙を、私は自分の血の裁量ではじいた。
「茜、逃げて! こいつは私しか戦えない!」
「じゃあ負けそうになってんじゃねぇよ! 早く殺せ!」
ほんの1秒か2秒の出来事だった。
私は縫い留められている部位を顧みず、四肢を千切った。意識を集中させて一瞬で部位を再生させ、剣でイヴを真っ二つに切り裂いた。
そのままの勢いで私は何度も何度も、細かく細かくイヴを切り裂き続けた。
もう原型をとどめないほどイヴを細切れに、何度も何度も剣を振った。そして無残にイヴの残骸が積み重なった頃、私は体力の限界を感じて息を切らして膝をついた。
これだけ細切れにしたらもうしばらく再生できないだろう。
茜に何もなくて良かった。
――毒を探さなければ……
フラフラと私がよろけると、茜が走ってきて私の身体を受け止める。
「なんで来たの……こんなところ」
ガラガラとそこかしこで瓦礫が崩れ瑠音が聞こえる。建物の隙間から風が吹いてきているのを私は感じた。白く長い髪がその風にもてあそばれて揺れる。
「私のことなんて、どうとも思ってないくせに」
私は茜の顔を見れなかった。泣いてしまいそうだった。でもそんな顔見せたくなかった私は懸命に瓦礫の中から毒を探し、顔を背けた。
「お前……本気でそう思ってるのか?」
「だってそうじゃない。いつも茜は……」
「お前が俺を遠ざけ始めたんだろうが!」
腕を掴まれ振り向かされ、驚いた矢先に強く抱擁された。茜からは懐かしい匂いがした。
子供のころは一緒に眠ったりしたことを不意に思い出す。
「お前と俺は確かに違う。でもお前はガキの頃からずっと当然のように俺の隣にいただろ? 当然お前もそういう気持ちでいるんだと思ってた……なのに、俺に向かって『誰かと付き合ったりするの?』なんて聞いてきて、俺から距離をとろうとしただろうが」
「距離を取ろうとなんか……」
「してただろ? 俺が他の女と歩いてるの見るたびに、お前は俺から距離をとっただろうが」
空から雨が降り出した。天井が壊れていたために雨がそのまま入ってくる。
「……だって、茜は私じゃない人と……付き合ってるのかなって思ったから」
「このバカ! そんなわけ、ねぇだろ? 俺がお前以外の女なんか――――」
視界が急に赤く染まった。
何が起こったのか、一瞬解らなかった。
茜の腹部を貫いて、イヴの血の裁量が茜の背後から伸びいるのが見え、私はイヴがまだ余力を残していたことを知った。
「あ……かね……?」
私はすぐさま動けなかった。雨が容赦なく茜と私を打ち付ける。
「がぁあっ……ッ!」
茜が苦しそうな声と表情を私に見せた。私はイヴの硬化した血液を切断し、茜の身体を抱きかかえる。
「茜……! 茜!!」
――このままでは死んでしまう。しんでしまう。シンデシマウ。アカネがシンデシマウ。ナントカシナキャ。なんとかしなきゃ。ナントカシナケレバナラナイ……
気持ちが切迫し、私は混乱していた。とにかく、止血しなければならないということだけは解っていた。
「緋月……っ……よく聞け……」
「今治療するから」
私は自分の悪魔細胞を茜の腹部に定着させようとしたが、適合者でない者に定着するまでには時間がかかる。適合者でない茜に定着させたら、いずれ母のようになってしまう。
それでも私にとって最も恐ろしいことは茜を失うことだった。
――早く……! 早く定着して……!
「くそっ……! なんで定着しないんだ!?」
「緋月、いいから……聞けって」
イヴはどんどん再生して、概ね元の姿に戻った。雨がイヴと茜の血液を流していく。
「そレガおマえノだいジナおトこカ」
私は戦えなかった。茜を助けないと、他のことは後でもいい。茜だけは助けないと。そう思って正気を失っていた。
「のゾみどオリ、こロしてやル」
イヴの容赦ない血の裁量が身体を貫こうとした瞬間、私の視界は暗くなった。何が起きたのか、解らなかった。
ただ、目の前に人間にしては歪な肉の塊が舞い降りた。
「母さん……」
「緋月、サガッテ……」
母さんはイヴにとびかかった。
激戦となり、建物は床も壁も容赦なく崩れてきた。母さんの形成する血の裁量と、イヴのそれが互いに一歩も引かずに混じり、弾き、雨の中でも火花すら散らした。
私は茜を連れて最後の力で飛んだ。
雨足が強い。雷も鳴っている。あまり茜を濡らさないように、極力私は近くの森の中、木の下に入った。
息も絶え絶えの茜を私は抱きかかえ、腹部の傷に悪魔細胞を定着させようとするが、集中できずになかなか定着しない。
茜は生きているのが不思議なくらいだった。
「茜……ごめん……守ってあげられなくて…………!」
「ばーか……」
「私、茜のことが好きで、でも茜が他の人といるのが嫌で、でもそんなこと……そんなこと……」
言えなかったんだ。
だって私はバケモノなんだから。
茜と済む世界が違うんだから。
「俺も……悪かったよ。お前の……ぐっ……はぁ……はぁ……妬いて……るところが見たかった」
茜が私の顔に触れる。傷をつけた左側の頬だ。
「茜、死なないで。嫌だよ……茜のいない世界なんて、茜がいなかったら……私……」
茜の傷は塞がらずに、真っ赤な血があふれ出るのを止められない。
「俺が……好きな……の……は、お前だけ……だ……ゴホッ……ガハッ……!」
「茜……茜……! 独りにしないでよ……私、茜じゃなきゃ嫌だ……」
「顔……傷つけたこと……後悔し……て……た。でも……その傷があれば……お前は……俺のもの……だ…………ろ…………?」
振れていた手が力を失って崩れ落ちる。
力なく私の腕の中から暖かさが消えていく。
「茜? 茜……起きてよ……茜! ………あかね…………」
身体の奥底で何かの《《タガ》》が外れた。自分の身体が、まるで自分の身体じゃないような感覚。深い悲しみ、怒り、怨嗟。
すべてが私を正気でなくす。
私は、茜の身体を何度もゆすった。けれど、茜は目を開けてくれなかった。
ビチャッ……
母だったものを八つ裂きにして、すっかり身体が元通りになったイヴが私の前に現れる。
「ふん、お前の母もこんな憐れな姿になってまで私を追い続けていたなど――――」
◆◆◆
そこからはよく覚えていない。
気づいたら、地面を這いずり回って逃げようとしているイヴの姿を見た記憶がある。
口の中から血の味がする。それに、赤紙の人たちが恐怖におびえた目で私の方を見ていた。
水たまりの中の自分の姿が見えた。
そこには人間の姿をやめた自分の姿が映っていた。
◆◆◆
それからの記憶も途切れ途切れだ。
気づいたら、茜のお腹の傷は修復された状態でよく分からない液体に入っていた。
それが私の細胞でできた液体であることは後からわかったことだ。それでも茜が死んでいることには変わりなく、それを見るたびに私は何度も何度も暴走していたらしい。
私は事のあった一か月後にやっと正気を取り戻して、自分が何をしているのか理解できた。
私は自分の姿がどんな姿だったのかすら解らなくなっていたようで、元の姿に戻るのにかなりの時間がかかったようだ。
やっと私が正気を取り戻したとき、目の前にいたのは如月だった。
「緋月様、今日はいい天気ですよ。少しお散歩に行きましょうか」
その言葉を聞き取った。
――私は散歩なんか行きたくない……
「如月、散歩なんか行きたくないよ」
私がそう返事をすると、如月は驚いた顔をして私を見た。そして涙を浮かべて私を抱きしめる。如月からは慣れない匂いがした。
「緋月様……よくお戻りになられました。もう駄目……かと思いました」
如月は泣いていた。私は彼が何で泣いているのか解らなかった。
「もう……二度と僕の名前を呼んでくれないかと……っ」
如月から私の空白の一か月の状態を聞いた。
私はイヴを寸前のところで殺しそこなったようだ。イヴの身体を食いちぎって食べていたらしい。あの時の口の中の血の味はイヴのものだったのだろう。
母は再生しなかった。別れの言葉も交わせないまま、母はイヴに殺された。
何もかも失った。
茜が私のすべてだったのに、茜も、私の家族も、何もかも奪われた。
私の身体は以前よりも自分の思い通りに動くようになった。
もう、人間であることに心残りなんてなかった。私はバケモノでもいい。
イヴだけは絶対に殺す。
――絶対に殺してやる……どんなに時間がかかっても……
◆◆◆
私は赤紙の最深部の研究施設に足を運んだ。
幾重にも頑丈な扉をくぐって厳重に施錠されているそこで眠っている《《ソレ》》を私は起こすことにした。《《ソレ》》は黄色い液体の入っている分厚い水槽に入れられていた。
一定量の麻酔を投与し続け、眠らせていた《《ソレ》》の麻酔を切った。
人間の赤ん坊のような体躯ではあるが紫色の肌をして、体毛の一切ない《《ソレ》》は、麻酔を切ってしばらくすると目を開けた。空虚なくぼみがあるだけで、眼球のようなものは見受けられない。
「お前の片割れを殺す。力を貸さなければお前も今すぐ殺す」
殺し方も解らない状態だけれど、絶対に私は諦めない。
憎しみに満ちた私の目は炎の色とも、血の色ともとれるほど赤く染まっていた。
「ころす……?」
「そうだよ『アダム』。『イヴ』を殺すんだ」
「アダム……」
私は分厚い水槽の上の部分を乱暴に外して、その小さな生き物を私はつかみあげた。
「お前は『アダム』。この世に災厄をもたらした一族の末裔の名前だ」
そして私は長い長い戦いの中に身を投じることになる。




