第39話 俺はもう、ここから出られないだろうから
暫く走った後、街中で日下部さんは僕の方を確認するように立ち止まった。
僕は肩で息をしているのに、彼女は息一つ乱れていない。本当に普段はベッドでぐったりしているのだろうか。お世辞にも体力があるようには見えないのに。
「大丈夫ですか」
「いえ……はぁ……はぁ……大丈夫じゃない……です……」
「ですよね」
日下部さんは僕の手首の辺りをがっちりと掴んでいて、離す気配はない。もう片方の手には分厚い黒い本がしっかりと握られている。
彼女は息を切らしている僕をなおも引っ張り、赤紙の本部へと向かった。
「智春さん」
「はい……なんでしょうか」
「あなたのせいじゃないですからね?」
「何がですか……?」
「……全部、緋月のせいですから。だから気にしないでくださいね」
「……?」
僕は何を言われているのか解らず、疑問符が頭の上に浮かぶ。
疲れ果てているのと、先ほどあった衝撃的な事件が頭を支配し、日下部さんが何を言っているのか理解が及ばなかった。
「日下部さん、その……『黒の教典』持ってきたらマズイんじゃないですか……? 曲がりなりにも窃盗ですよ……というか、強盗……?」
「窃盗……ね」
「緋月様に知れたら……処刑になってしまいかねません」
「これは、元々水鳥麗が木村冬眞に宛てたもの。これは木村冬眞のものです」
「でも、今は黒旗の所有ですし……」
「いいんですよ。大丈夫です。それに、私は死にたいんです。緋月が表立って処刑するというのなら、黒旗関連ですし、彼らとの溝が埋まるかもしれないでしょう」
その投げやりな言い方に、僕は言葉に詰まった。「死にたい」などとあっさり打ち明けられて、どう返事をしたらいいか分からなくなってしまう。
「死にたいだなんて、そんな……そんな方法で簡単に投げ捨てたら……」
「簡単じゃないですよ。緋月は私を殺させないように躍起になってるんです。本当に鬱陶しいですよね」
「どういうことですか……?」
僕のその質問には日下部さんは答えてくれなかった。
日下部さんは手に持っている『黒の教典』を何度も読もうかどうか迷っている様子だった。
しかし、一度も開くことはなかった。
お互いに無言のまま日下部さんの部屋につくと、彼女は僕の方に向き直った。
「私、これ部屋で読んでるから。緋月が帰ってきたらよろしくお願いしますね」
「…………はい」
「『黒の教典』のことなら、あなたのせいじゃないんですから、そんなに青い顔をしないでください」
「……でも、助かりました。助けていただいてありがとうございます」
「別に……緋月に言われてたから。いざとなったら守るようにって」
「あはは……僕が守るんじゃないんですね……男なのに情けないです」
「男だって、守られたっていいじゃないですか」
「そう……ですかね」
「ええ。それでは、また」
バタリと日下部さんの部屋の扉は閉じられた。
その前に僕は呆然と立ちすくんでしまった。
――黒旗ともめ事を起こしてしまった……しかも『黒の教典』を強奪……とんでもないことになってしまった……緋月様になんといえば……
僕がようやく少しだけ落ち着いて、やっとの思いで緋月様の部屋にたどり着いたら、緋月様は部屋にいなかった。
渉さんと光さんが中にいるのが目に入る。光さんは本を読んでいて、渉さんは書類の整理をしていた。
「早かったのですね。日下部さんとの潜入、どうでしたか?」
渉さんが僕を一瞥した後にそう聞いてくる。僕は何と答えていいかわからずに目を泳がせた。
「くさかべ? 誰だよそれ」
「日下部れい華、緋月様のご友人です。以前会ったことがあると思いますが?」
「あぁ……前に緋月の連れてきたやけに色白でほせぇ女か」
どうでもよさそうに光さんは手元にある本を再度読み始める。渉さんが僕の方を見て回答を求めてきたので、僕は人呼吸置いて報告した。
「……僕が赤紙の人間だと、ばれてしました」
「!」
「よく無事に帰ってこられたな?」
「それで? なにがあったんですか?」
「捕らえられそうになったのですが、なんとか逃げてきました」
渉さんは人差し指を口元に宛てて考える様子を見せた。
「緋月様にご連絡は?」
「いえ……ほんの先ほどのことでしたから、まだ」
「怪我はありませんか? 日下部さんは?」
「はい。僕も日下部さんも無事です。彼女は部屋に戻っています」
「そうですか……怪我がなくてよかったです。落ち着いたら報告書をお願いします。今緋月様は出かけられておりますので」
「わかりました」
思いのほかと言うべきか、暖かい言葉をかけられて僕は少し安堵して落ち着いた。
しかし、事を大きくしてしまったことは事実。最終的な判断を下すのは緋月様だ。
――日下部さんが『黒の教典』を持ってきてしまったことは黙っておいた方がいいのだろうか……
「……それにしても、緋月様はどちらにいらっしゃるのか……研究室にもいらっしゃらないし、連絡もつきませんし」
「そういえばアダムもいねぇな。どこいったんだか」
僕は報告書をまとめながら、何度も雪尋のことを思い出していた。
――もう、雪は僕のこと……家族とは思ってくれないのかな……
パソコンのキーを叩く手が度々止まる。
雪尋のことを思い出すのと同時に、母と父のことを思い出す。家族との楽しかった思い出がひとつひとつ崩れていくのがつらかった。
――父さんは……今どうしているのかな……
ふと、僕はそう思う。
僕もいつまでも現実から目を背けていられない。もし、もしこれで赤紙と黒旗が大きくもめたら、そのときは僕の命はないかもしれない。黒旗が赤紙の人間を殺害するという事件も実際に起きていることだ。
雪尋にも、父さんにも、向き合っていかなければならない。一度は全てなげうって捨てようとした命だけれど、僕は向き合う時間を緋月様にもらった。
一度は殺したいとすら思い、激しく憎んだ父だけれど、それでも僕の肉親だ。骨の髄まで憎悪しているわけではない。
――緋月様が戻る前に、父さんのところへ行ってみよう……雪とのこと、話してみたら何か変わるかもしれない
僕は報告書をまとめながらそう考えていた。
◆◆◆
赤紙の廊下を優輝と園が二人で歩いていた。別に仲が良いわけではない。たまたま一緒に歩いていただけだ。
「相変わらず緋月はめちゃくちゃで嫌になるわ」
優輝がピンク色の、手入れの行き届いている長い髪をもてあそびながら、緋月の不満を口に出した。艶やかな着物に身を包み、しなやかにその脚を前へと運ぶ。
「ふふふ、私は緋月様のこと大好きですけどね」
「あんた頭おかしいわ」
「緋月様のどこがお嫌いなんですか?」
優輝は真っ赤に塗っている唇の、下唇を軽く噛んだ。
「……いくらでも綺麗になろうとすればなれるのに、なる努力をしないところよ。顔の傷だって隠そうともしない。化粧もしてない。髪の毛も伸ばしっぱなし。なのにものすごく綺麗な顔してるのが許せないのよ」
優輝はイライラして自分の着物の裾を強くつかんだ。
「それに、あんなに男に言い寄られているのに、恋人の一人も作ろうとしないでしょ? あたしとは根本的に正反対なのよ」
「優輝さんは少し節操を持った方がいいと思いますが……」
「綺麗な時期なんて一瞬なのよ。緋月は永遠にあのままかもしれないけど、あたしはいつか歳をとって醜くなってしまうの。遊べるときに遊んで何が悪いわけ?」
「ふふ、それもそうですね」
園は口元に手を当てて笑った。
「ていうか、あんた。この前1区にいたでしょう? 何をしてたの」
「お休みだったので、ちょっと羽を伸ばしていただけですよ」
「黒旗の拠点のあるところで?」
その言葉が出たとき、園は薄笑いを浮かべていた表情が無表情になった。
「それは誰から聞いたんです?」
「小耳にはさんだだけよ。最近黒旗のやつら、かなりピリピリしてるんだから気を付けてよね。刺激しないでほしいわ」
優輝はそう言って、園と別れて自分の担当区である1区の方へ、向かう列車の方向へ向かって行った。
園は優輝の後ろ姿を見送った後、腕を組んで微笑んだ。
「ふふふ……見られてましたか……」
園が一人でくすくすと笑う声は列車の発車音にかき消されて消えていた。
◆◆◆
僕は7区の罪人と面会する待合室へと訪れた。
赤紙として面会することもできたけれど、僕は自分の立場を使いたくなかったので、正規の面会手続きを踏んだ。
番号札を渡されて、順番になるまで待たされる。
中は最新設備が整えられており、様々な区の人を完璧に区切って接触しないようにしていた。
面会時間は1時間前後だ。朝から晩までいつでも面会の許諾が下りる。双方の承諾がなければ面会はできない。
潔癖なほどの白の壁が続く中、何人もの人が待っていた。老若男女、様々な人がその待合室で待っているようだった。
「私も7区に移動させてもらえないかな……」
「駄目ですよ、そんな考えを持ってしまっては」
「でも……こんなところに一人、置いておけません……」
まだ若い女性と、老婆がそう話しているのが耳に入る。
「もう十分反省しているのに、これ以上罰を与え続けるのはやはり賛同できません」
「そうね……でも私たち1区の人間が平和に暮らしているのは緋月様が厳しく取り締まってくれているからよ」
「でも……! 私は……私の大切な人は戻ってきません」
「今、半年に1度普通に会うことができるよう、緋月様が調整してくれてるから」
「それじゃ少なすぎますよ……いつになるのか解らないですし……」
緋月様が導入しようとしている新しい制度だ。
今までは全くの隔離で面会を通じてでしか接触できなかったが、それが認められた者は半年に1度、普通に外で面会できるようになるという。
もちろんそのための設備を準備している段階だという。
「面会番号103番の方、32号面会室へどうぞ」
落ち着かない気持ちで待っていると僕は呼ばれた。
色々話そうと思っていたことは考えていたはずなのに、面会室へいざ呼ばれると頭の中から飛んで行ってしまう。呼ばれたということは、父さんが僕の面会の求めに応じてくれたという事。
緊張がピークになり、頭が真っ白になりながら僕は面会室へと向かった。
自分自身が父さんを7区へと引き渡す原因となった。憎まれていても仕方がない。
――僕も、父さんを憎んでいても仕方がないのだろうか……?
面会室は武骨な部屋だった。あまり広くない部屋の真ん中にこちらとあちらを区切る窓ガラスが張られていて、マイクと音響機械がついている。
互いにガラスを隔てて向かい合う用の椅子が置いてある。何の変哲もない椅子だ。
なんというか、独特な匂いがする。少し埃っぽいような匂いだ。
僕が少し戸惑いながら待っていると、奥側の扉が開いた。7区の赤紙職員が一人の男を連れてきた。
その、以前より見た時よりもやつれた男を見て、僕は息がヒュッ……と一瞬詰まるような感覚に見舞われた。
「座って」
そこには、以前よりやつれていた父さんがいた。
以前よりやつれていても、それが自分の父だということは解った。顔を合わせ、目を合わせ、互いに椅子に座る。
以前骨折した部分はもう良くなっている様子だった。
「…………」
何と、声をかけていいかわからなかった。そのまま僕は目をそらしたり、合わせたりしながら沈黙するしかなかった。
「……何の用だ」
沈黙を破ったのは父の方だった。
「怨み事でも言いに来たのか?」
「……違うよ」
言葉に少し棘があるけれど、怒っている様子はない。
「父さんと向き合いたくて……」
「今更……なんの理由で……」
父さんも僕の目を見るのが気まずいのか、僕から度々視線を逸らす。その仕草がやけに僕と父さんが親子だと感じさせる。
「最近、雪と喧嘩して……向き合いたいんだけど……なかなか難しい。ずっと逃げ続けてきたから……向き合うっていうことに……」
「…………」
「あのときは殴ってごめん……僕が赤紙に入ることになったのは、父さんの一件があったから……だからってわけじゃないけど……父さんに向き合いたいんだ。ひとつひとつ、向き合っていきたい。心の整理をしたいんだ。母さんがいなくなったことも……まだ心の整理ができていないから」
僕のとりとめのない言葉を聞いて、父さんはやはり気まずそうに視線をそらした。
「僕と雪は……今、明らかに対立してる。赤紙と黒旗……っていうだけじゃなくて、雪は僕のことを嫌ってると思う」
「雪尋はお前と違って長いものに巻かれないタイプだからな。小さい頃からソリは合わないと思ってた……」
「……でも、家族だよ」
「家族なんて……不確かなものだろ。俺の一件でよくわかっただろう」
「夫婦のことは解らないけど……兄弟だから」
同じベッドで母さんに同じ絵本を読んでもらった。
一緒の家の中で成長して、同じご飯を食べて育った。考え方が違うのは仕方がない。でも、対立する意味はないはずだ。
「……父さんは、どんなふうに育ってきたの?」
「は?」
父さんは目を丸くして僕の方を見た。
「僕、緋月様の下で記録係をしてるんだ。色んな人を見てきて思ったんだけど、悪いことをしてしまう人は、過去に家庭に問題があったり、生い立ちに理由がある人が多かったから、父さんもなにか……過去にあったのかなって思って」
「…………」
父さんは気まずそうにしている。手をしきりに動かして落ち着かない様子だった。
「俺の記録、見てないのか?」
「……見てない」
「俺の口からこんな話はしたくない。書面を読め」
「うん、解った」
「…………」
「………………」
沈黙が流れる。気まずかった。
――前は父さんとどんな話をしていたんだっけ……
こういう場所だから話しづらいのもあるけれど、やはり父に馴染みが薄い僕にはなにやら落ち着かない気持ちになった。
「雪尋と……なんで喧嘩したんだ」
「喧嘩っていうか……思い違いがあって……誤解があって……」
「誤解があったなら、解けばいいだろう?」
「でも……雪は僕の話なんて聞いてくれない」
「そうだな……雪尋は反抗期というか……思春期というか……兄の話を大人しく聞く時期でもないな」
「落ち着いて話がしたいんだけどな」
「子供のころのように取っ組み合いの喧嘩をすればいいだろう。気が済むまで」
「そんなこと……できないよ」
「緋月様付きじゃ、そうかもな」
父さんは腕を組み、「はぁ」と軽くため息をついた。
また少しの沈黙が訪れる。
「…………お前は、7区の生活について色々知っているだろう?」
「うん。区代表とも一応面識もあるし……報告書は僕も読むから」
「その……あぁ……あの…………」
父さんが自分の髪の毛をぐしゃぐしゃと書きながら、歯切れの悪い様子で僕に何か言おうとしていた。
僕はそれを察して遮らないように黙って言葉を待った。
「ここにきて、結構しんどい思いして……母さんの苦労が解ったよ……母さんのこと、後悔してる……お前がもし来たら、それを言おうと思ってたんだ。悪かったな……」
そんな言葉を父さんから聞くと思わなくて、返事に困ってしまい何も言えなかった。
ただ、目頭が何だか熱くなってきた気がして、何度も僕は瞬きをしてそれを誤魔化した。
「俺はもう、ここから出られないだろうから。お前と雪尋は……仲良くやれよ」
「……うん」
「…………まぁ、たまに顔見せてくれよ。雪尋も一緒に……さ」
僕は父さんのその言葉で不意に泣きそうになり、席を立って父さんに背を向けた。
「また、来るから。身体には気を付けて」
「あぁ……」
僕は逃げるように面会室から出た。
――父さん……
黒旗の人の気持ちが少し解るような気がした。緋月様の厳しい政策に疑問を持つような感覚を抱いてしまう。
大昔は刑事収容施設で懲役を過ごせばまた普通に社会に戻れた。再犯率などももちろん問題として挙がっていたけれど、更生する人間も沢山いたはずだ。
――もう少し優しくしてあげられないんだろうか……
僕は面会所を後にし、緋月様の部屋へと向かった。
◆◆◆
【黒旗 拠点】
「『黒の教典』までもが盗まれました。しかも堂々と我々の目の前で!」
「雉夫様! もう我慢なりません! 戦争を起こしましょう!!」
「そうです! 赤紙の好き勝手にさせてはなりません!!」
「あの殺人鬼を殺すのです!」
黒旗の中では接見室に信者が集まり、大騒動を起こしていた。全員、目を血走らせて教祖に向かって口々にまくし立てる。
「静まれ……」
雉夫の声によって、その騒ぎが一瞬で静まり、全員が雉夫の次の声を待った。
雪尋もその最前線で言葉を待っていた。自分の兄が連れてきた者が『黒の教典』を持って行ったということに対し、雪尋はより一層の責任感を感じていることもあった。
「期は熟した……大義名分も十分ある」
しわがれた声が静寂の中、静かに響く。
「戦争だ。全黒旗員に通達せよ……期日は追って連絡する」
黒旗内部で大きな歓声が上がった。
雪尋は自分に課せられた大きな使命を胸の内に強く秘め、そして決意を抱いた。




