第36話 好きな人の名前のタトゥーをすると後悔する
楽しかったひと時が終わると、僕は現実に引き戻された。
あの楽しかった非現実がずっと続けばいいと思っていたが、そうはいかない。いつまでも夢の中にいることはできなかった。
黒旗への潜入もそろそろという頃、自分の抱えていた問題をひとつづつ片づけていくということをしなければならない。
ずっと胸のつかえになっていたことがある。理沙さんや聖也さんに謝罪しなければと考えながらも、どう謝ったらいいのか解らずにいた。
忙しそうにしている緋月様にそれを相談するのは気が引けたが、緋月様の部屋に飾られている花を見て「花はどうだろう」と考える。
謝罪に対してお菓子なども考えたが、お菓子はどうにも軽薄な感じがする。
琉依さんにまた花をもらおうかと思っていた矢先、緋月様の部屋で理沙さんと会ってしまった。
「まだこんなのをおそばに置いているんですか?」
僕を見て言い放つ理沙さんの言葉はものすごく冷たいものだった。
「緋月様のおそばにいながら、優生思想を口にしたんですよ」
やけに興奮している様子で緋月様に理沙さんはそう訴える。その様子を光さんと僕は見ていた。
少しすると光さんは興味なさそうに理沙さんから視線を外し、手元にあった本に目を移す。
「落ち着いて。理沙」
「なんでですか? あたしがこいつを殺してでも――――」
「理沙、やめなさい」
強い口調で緋月様に言われた理沙さんは、歯を食いしばるようにその可愛らしい顔を歪ませる。
「殺してでも」という強い殺意の言葉がはっきりと僕の耳に残る。
「それ以上、言ったり、実行したりしたら、今度は謹慎じゃすまないからね」
複数のモニターを見ていた緋月様はモニターを全部止めて、理沙さんと真剣に向き合う。
口の前で指を組んで瞬きもせずに理沙さんを赤い瞳で見つめる。
「どうしてですか!? どうしてあたしをそばに置いてくれないのに、こんな男を傍に置くんですか!?」
「それは前にも言ったでしょ? 悪魔細胞の完全適合者だから、研究に協力してもらってるんだって」
「なら、わざわざ側近にしなくてもいいじゃないですか! あたしたちだって不完全でも適合者です! あたしを使ってくれたらいいじゃないですか!」
「この子は傍に置いておきたいんだ。どうしてもね」
その言葉を黙って聞いていた光さんも、なんだか気に喰わない様子で緋月様の方を見ていた。
「なんですか……もしかして、この男のことが好きなんですか……?」
光さんも僕も、理沙さんも緋月様の方をジッと見つめる。
「好きだよ?」
ガタンッと光さんは立ち上がって「何!?」と緋月様に対して食って掛かる。
理沙さんは相当ショックだったのか、口元を派手な爪をしている手で隠す。その手は小刻みに震えているようだった。
「な……なんてこと……」
「理沙のことも好きだよ?」
「!」
「好きだ」と言われた理沙さんは元々大きい目をしているところ、更に目を見開いた。
「でも、あんまり私を困らせる理沙は好きじゃないかな」
光さんは「そういう意味かよ」とおとなしく座って再び本に目を向ける前に僕の方を見て「ばーか」と口だけ動かしてそう言った。
「聞いてる? 理沙?」
「緋月様ぁ」
緋月様に抱き着くために、理沙さんはヒラヒラの服をひらめかせながら走り寄った。そして緋月様に甘えるように腕を回す。
「理沙も緋月様大好きです。ちゅー」
「ちゅーはしない」
顔を近づける理沙さんに対して、緋月様は理沙さんの口元を押さえて遠ざけようとする。
「ほら、仕事に戻って。智春君も悪気があったわけじゃないんだから、許してあげなさい」
「……はぁーい」
頭を撫でられて理沙さんは満足したようだった。光さんは「けっ」と毒づいている。
上機嫌になった理沙さんはハミングをしながら書類を緋月様に渡し、部屋から出て行こうとした。
その前に僕の近くまで来て、僕の耳に耳打ちする。
「緋月様に手を出したら、今度こそ……殺しますよ」
「は……はい……ごめんなさい」
「緋月様が許せって言うから、あたしはあなたのことを許してあげます。1度だけは」
そう言い残し、理沙さんは出て行った。
「あいつ、相変わらずぶっ飛んでるな」
「こまったお姫様だね」
「お前が甘やかすからだぞ」
「ははは、それをレイが言うの?」
冗談を交えながら話をしているが、さっきの理沙さんは下手をしたら僕をここで本当に殺しかねないほどの殺気を持っていた。
僕はそれ以上に、緋月様に「好き」と言われたことに対して動揺していた。
もちろん“そういう意味”ではないというのは解っていたけれど、簡単にその言葉を受け流せるほど僕は大人ではなかった。
「…………」
手元の資料の内容が入ってこない。それを見た緋月様は僕に対してフォローをいれる。
「あぁ、さっきの“好き”っていうのは、そう深い意味ではないから」
「ったりめーだろ。んなこと言ったら俺のことも大好きだろ?」
「レイのことも好きだよ?」
「ほらな、この調子だぜ? クソガキ」
「は……はい……」
どうしてもそばに置いておきたいというのは、研究のためということだとわかっていても、僕はその言葉にドキドキしないわけがなかった。
「リサのやつ、相変わらず気持ち悪ぃったらねぇぜ。ソノだのカオルだの、お前の周り、ろくなやつがいねぇな」
「一番ろくでもないのは葉太だと思うけど……」
「あいつはロンガイだ」
「それには同意する」
緋月様は再びモニターを起動し、監視カメラ映像を見ることを再開した。光さんも手元にあった本を再度読み始める。
「あの……緋月様」
「なに?」
「理沙さんに対してもそうなんですけど、聖也さんにも謝りたくて」
「聖也に? なら今日聖也休みだし、聖ラファエル病院にいるんじゃない? 行って来たら? 聖也は根に持つタイプじゃないけどね」
あっさりと緋月様は承諾してくれた。
「いいんじゃない? 行ってきなよ。その行ってきた帰りに、これを葉太に届けてくれない?」
緋月様は机の引き出しから1本の時計を取り出した。
高級感のあるその時計は、受け取ると重厚感があって重い。
「時計ですか?」
「そう。この前のパーティの時に無理やり持たされちゃってね。返さなくちゃとは思ってたんだけど、なかなか行けなくて」
「んなもん捨てちまえよ」
「さすがに勝手に捨てられないよ」
無理やり渡されたという状況が僕にはいまいちわからなかった。どうしてそんなことをする必要があるのだろう?
「プレゼントで渡されたってことですか?」
「あー、違う違う。全然違うよ。これは葉太の手口。私に時間を作らせようっていう下心が見え見え」
心底嫌そうに緋月様はそう言う。
なら最初から受け取らなければよかったのでは? と僕は疑問に思う。
「受け取りたくなかったんだけどさ、気づかない間にドレスにつけられちゃって。やられたね。後で葉太から電話かかってきてさ。取りに来てって言ったんだけど、“届けに来い”って話を聞かないの。“大事な時計だから”とかなんとか言って。大事なら私を釣る口実にするなって怒ったんだけど、全然悪びれてないんだよね……」
「なんでそんなのをいつまでも区代表なんかにしとくんだよ。おろせ」
「葉太は本当に女性関係にはだらしないし、どうしようもないやつなんだけど……これが敏腕なんだよね。実力はあるんだけど、あぁいうどうにもできない性格なわけよ」
「けっ」
光さんは「ばかばかしい」と言いながら首を横に軽く振る。
「僕が代わりに行って大丈夫ですか……? 葉太さん、怒るんじゃ……」
「葉太が怒りだしたら電話して? 怒ってるのは私の方なんだから」
どうやら、緋月様はなかなか時間が取れなくて行けないのではなく、葉太さんに会いたくないようだった。
僕もそれを察して承諾する。
「わかりました。聖也さんと葉太さんのところに行ってきます」
「ごめんね。ありがとう。…………ちなみに、その時計、いくらするかわかる?」
「えっと……100万くらいですか?」
「ははは、そう見えるよね? それ1万円くらいだよ」
「え?」
「いったい、何百本の時計で女たちを誘い込んでるのやら……」
確かにそれを聞くと、凄腕の区代表のように聞こえた。
向かっているベクトルがおかしいような気もしたけれど。
◆◆◆
僕は聖也さんに会うべく、聖ラファエル病院に足を運んだ。
ラファエルの5人が住む部屋に向かって歩いていく。相変わらず医療従事者は皆が忙しそうに動き回っていた。
人の波を抜けて聖也さんの住んでいる部屋の前につくと、僕は息を整えて、部屋のインターフォンを押した。
病院の部屋の一室が、そのまま部屋になっている。病室のプレートに『聖也』と書かれていた。
「はい」
爽やかな声がインターフォンから聞こえてくる。この声は聖也さんだと僕はすぐわかった。
「突然ごめんなさい。僕です。智春です」
「智春……? 何の用だ?」
「少し話をしたくて……」
せめて顔を合わせて謝罪したいと僕は考えていた。インターフォン越しの謝罪ではわざわざ来た意味がない。
「…………入っていいぞ」
聖也さんは横にスライドする式のドアを開けて、僕を入れてくれた。
中は散らかっていて、物が雑多に置かれている。ベッドと机の周りは特に物が多いような気がした。
そのことよりも、聖也さんの身体中に巻かれている包帯の方に僕は目を奪われた。左頬にはガーゼもつけられていた。そのガーゼの端から線状の赤い傷がいくつか見える。
「話ってなんだ?」
――自傷行為の傷……?
それとも何か実験の為なのだろうか。
触れるべきかどうか2秒ほど迷ったが、僕は聖也さんに包帯のことを聞いた。
「……身体、大丈夫ですか?」
「大した事じゃない」
聖也さんは自分のベッドに座って、自分の手の包帯の位置を直している。
「えっと……この前はごめんなさい。きちんと謝りたくて来ました。無神経なことを言って怒らせちゃったので」
「別に……気にしていない」
本当に気にしていないという様子で、僕の方を見てくる。
「聖也さんや理沙さんが気にしていなくても、僕はずっと謝らなきゃって思ってました。本当にあのときはごめんなさい」
深々と僕は頭を下げた。
「理沙は根に持っているようだったが、俺はなんとも思ってない。頭上げろ」
「理沙さんには午前中に会って、緋月様の仲介もあって事なきを得ました…………多分」
「よかったな。下手したら殺されかねなかったぞ」
「……僕もそう思いました」
いや、これからも下手なことをしたら殺されかねない。
「智春は悪魔細胞と適合する予定はあるのか?」
聖也さんは手のひらを握ったり開いたりして包帯の調子を確かめながら、唐突に僕にそう聞いてきた。
「緋月様にやめておきなさいって言われちゃいました」
「智春自身はどうしたいんだ?」
「僕は……これといった特技もないですし、緋月様の隣で役に立つ存在になれるなら、そうしたいって思ってますけど……」
僕がそう言うと聖也さんは険しい顔で僕を見る。
「その考えは危険じゃないか?」
「危険ですか……?」
「誰かの為に何かするっていうスタンスなら、辞めておいた方がいいぞ。惚れてる相手の名前とかを刺青するとか、その類だろ。身体全体の話だから、それよりもっと危険だ」
「……確かに、好きな人の名前のタトゥーをすると後悔するってよく聞きますけど……」
入れるのは個人の自由だ。でも、一度入れたタトゥーを消すのに物凄くお金がかかる上に、傷痕も残ってしまう。
それで後悔する人はたくさんいるようだ。
「智春は緋月様のこと、好きなんじゃないか?」
「!」
突然そう言われて僕は返す言葉に困る。否定するのも違う気もするし、肯定するのも違う気がする。
「どうしてわかるんですか……?」
「図星かよ……」
聖也さんは呆れたように肩をすくめる。
「光ほど露骨じゃないにしても、お前も緋月様大好きって感じだもんな。自分の身体を差し出したいとか言ってるやつが好きじゃないわけがない」
「か……身体を差し出すって、変な意味に聞こえますからやめてください……」
「ははは、智春お前、思春期か?」
「聖也さんも同じくらいの歳じゃないですか!」
「いや? 絶対に智春よりは年下だ。絶対に」
「僕まだ18ですよ? 僕より下って言ったら、17歳とかですか?」
「それは教えられないんだけどな。まぁ、絶対に年下だ」
何故教えられないのだろう。
歳を聞かれてサバを読むような歳でもないはずなのに。
「悪魔細胞で大人っぽく見せてる……とか……?」
「まぁ、そんなところ。俺に対しては敬語じゃなくていい。“さん”とかもつけなくていいから」
なんだか弟と話しているような感覚に陥る。聖也さん――もとい、聖也はバラバラに切られた髪の毛をかきあげた。
「そう……ありがとう。聖也」
なんだか気恥ずかしくて僕はうつむいてしまう。
男友達がいないので、どう話ていいのか、話し方すら僕にはよくわからなかった。
本当に僕は何も知らないし、何も持っていないなと自分自身に落胆する。
「まぁ、緋月様のことは諦めろ。あんなに綺麗な人を毎日見てたら、他の女の人に興味なくなるかもしれないけど」
「別に……緋月様とどうこうなろうとかは考えてないよ。そういう聖也は緋月様に対してなにもないの?」
「俺? ないよ。緋月様とか、理沙は家族みたいなものだから」
「家族か……」
母さん、父さん、雪尋のことを思い出す。楽しかった思い出と、それを失った思い出が同時に思い出される。
久々に自宅に帰ってみようかと僕はふと思った。
「僕は弟がいるんだけど、正直うまくいってなくて。僕は赤紙にいるけど、弟は黒旗にいるんだ」
「黒旗にいるのか。なんで仲悪くなったんだ? もとからか?」
「小さい頃は仲良かったけど……なんか、お互い思春期になって話さなくなっちゃって、それからずっとかな。母さんが死んで、家族が全員バラバラになっちゃった」
「別に、血のつながりだけが全部じゃないと思う。でも、そういうのも大事かもな。俺は血のつながった家族いないし」
聖也は立ち上がり、今着ているラフな服の上に上着を羽織った。
「俺、これから用事あるから、そろそろいいか?」
「ありがとう。謝りに来たのに話し込んじゃって」
「別にいい。また来いよ。患者と医者は別にして周りが女ばっかだからさ」
「うん。そう言ってもらえて僕も嬉しい」
まだ気さくな話し方には慣れないけれど、なんだか友達ができたみたいで本当に嬉しかった。
気はずっと進まなかったけれど、話しに来て良かったと感じる。
緋月様にあずかっていた葉太さんの時計を握りしめ、5区の葉太さんの場所へと向かった。




