第三話
「本気で言ってるの?」
結婚の契約を書き換えた後で、すぐさま離婚を言い出した俺に、妻は顔色をなくして聞いてきた。
「当たり前だろ? なんだよ、財産の半分はお前のもんだろ。無制限なんだ、その半分も無制限てことだろ?」
至極当たり前のことを言ったつもりなんだが、あいつは何をとち狂ったか、いきなり俺に躍りかかってきた。
“28歳まで、残りは50年”
「いやよ! 騙して契約をすり替えておきながら! 全部あたしのものだ! すべてよこせ! 嫌なら殺してやる!」
「うわ! 」
俺に馬乗りになって首に手をかける妻を、立ち会っていた弁護士はガタガタ震えて見ているだけ。そりゃあ、こんな鬼のような形相の醜い女に誰が近づきたいもんか。
とは言え、このままでは、息が出来ない・・・・本当に死んじまう。
あ、そうか、俺が死んだら財産は全部こいつの物か。
? いやちがう。
「ま・・・・まだ」
「?」
「全部・・・・おまえのもん、じゃない、お・・・れの、親が・・・」
切れ切れになんとか言葉をひねり出すと、余計に指に力がかかる。
「ふん、あんたさえいなくなればそんなもん、こっちのもんよ」
「うぐう・・・」
「奥様。坊ちゃまに手をかけて犯罪者となった貴女には、1円の財産も入ってきませんよ」
薄れかけた意識の中でジルベールの声がすると、急にのどから手が離れた。いきなり気管に空気が入ってきたため、俺は大いにむせかえる。
「ごほっ! ゲホッ! ウェ、ぐぇぇぇ・・・」
「くそ!」
およそ淑女とは言いがたいセリフが聞こえた。
どうやら俺は、一命を取り留めたらしい。
ジルベールが俺を見殺しにするはずはないと信じていたものの。
「もうちょっと早く止めてほしかったぜ、ジルベール。けどまあいい、ありがとな」
起き上がってジルベールの腹にげんこつを軽く当ててやった。けどこいつは少しの動揺も感じさせずに言う。
「どういたしまして。ですがあと30秒は大丈夫でした」
肩をすくめた俺は、冷静とは言いがたい妻ではなく弁護士に向かって言う。
「ま、今のは見なかったことにして。で、このあと諸々の手続きはあんたとジルベールに任せるよ。こいつはそこらの弁護士よりよっぽど有能なんでね」
震えている弁護士は、ジルベールにちらと目を向けたあと、ガクガクと首を縦に振る。
で、無事に・・・。
(脅しがきかないと知ると、妻は泣き落としをしてみたり、しなを作って見せたり、はたまた子どもがほしいわ! 離婚はそれからにしましょ! と、さっきとは違う意味で襲いかかってきたり、等々、あらゆる手を使ってきたが)
まあ、ものすごく抵抗しながらも、唇をかみしめつつ届けにサインをした妻とそして弁護士が、ようやく屋敷を後にしたのはそれから30分以上過ぎた頃たった。
「ああ、やっと一つ片付いた~」
うーんと伸びをする俺を見ながら、ジルベールはいつものようにわかりにくく微笑んでいた。
実は俺が妻に襲いかかられている最中に(おかげで髪はぐしゃぐしゃ、シャツのボタンは吹っ飛んで前がはだけ、ズボンはよれよれ、お見事な格好だ)、この恐ろしい妻が今後一切俺に関われないような誓約文を付け加えてくれたそうだ。
へえ、やるな。
しばし感心していた俺が、ありがとうと珍しく素直に頭を下げると、ふっと緩んだような雰囲気がした。
「ひどい格好ですね。着替えてこられては? その間に午後のお茶を用意しましょう」
自分の姿を見下ろした俺は、「まったくだ」と苦笑して部屋を後にした。
妻との離婚話が世間に広まると、後釜を狙う淑女や紳士(え?)がハイエナのように押しかけてきた。俺はそいつらをちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・、ってほど簡単にはいかず、ゼエゼエと憔悴するほど頑張って時間をかけて一匹残らず追い払った。
また、違う意味のヤツラもわんさか押しかけてきた。
「お前フリーになったんだって? けど、あの金の亡者みたいなのにたっぷり慰謝料ふんだくられただろ」
「おかわいそうに~」
「そうそう、慰めてあげますよお」
「楽しもうぜ」
「けど、もちろんパトロンは、お・ま・え」
こいつら・・・。
けれど、俺もちょっと前までこんなヤツらと同じだったんだな。
冷静に物事を考えるようになると、周りがよく見えてくる。違う自分が高いところから俯瞰しているみたいに。
いくら誘っても全然乗ってこない俺に、そいつらは、「どうしたんだよお、今更貞操観念が身についたの? 冗談だろー」とか言っていたのだが、俺が変わらない態度を見せているうちに、1人、また1人と離れて行った。
「ちぇ、つまらねえ奴」
だけ言う輩はまだいい。
「どうせお堅い執事に入れ知恵されたんだろうよ。そのうち財産ごっそり持ってかれるぜ」
と、ジルベールの事を引き合いに出してくる奴は、さすがにぶん殴ってやろうかと思って・・・・我慢した。良くやったぞ俺。
で、そんな感じの頭のわっるーいのは、まだいいんだ。
世の中の仕組みを知るにつれ、本当に怖いのは、頭が良くて心がない奴なんだと言うのが、わかってきた。
そういう奴は自分が悪いことをしている感覚がないのだ、もうそれは純粋に。
心がないから、怒ろうが怒鳴ろうが、何をそんなにムキになる? と不思議そうにするだけ。むやみに怒る俺の方が悪者かよ、とか思っちまったり。当然のことながら、あいつらには脅しは通用しない。
やたらと利口だから俺みたいな馬鹿が何考えたって対抗できるわけがない。
だったら、それに対抗するには・・・。
子どものように無邪気に良いことをする、だ。
無邪気な悪には無邪気な良いことをぶつけてプラスマイナスゼロって訳だ。
でもさ、この世界って変だよな。
良いことをしてるのに、なんで、なんかこう、格好つけてるとか自分を良く見せようとしてるとか、なんで良いことには罪悪感がつきまとうんだろ。これも誰かの陰謀か。
だから俺は、へら~って感じで人を助けたり良いことをして、とっととその場を去る。それこそ疾風のように去って行くってわけ。まあ、俺にはお似合いの方法かもな。
それはいいとして。
そんなこんなで、ハイエナを追い払ったり頭の悪い奴の対応をするのにけっこうな時間を費やしてしまった。
あとは留守中の家屋敷の管理を誰に任せるかだけだ。そっちはジルベールの知り合いに頼む方向で話を進めている。俺の知り合いにはほとんどまともな奴がいなかったから・・・ちょっとへこむけど、これも自業自得ってやつだ。
それからもう一つ。
俺が諸国漫遊をするって宣言したとき、使用人たちが何人か連れて行ってくれ、と頼んできた。それは、俺がものすごく出来た主人だからって言う事ではなく、誰かさんと同じく、途中でくたばりでもしたら後のことが大変だから、などという失礼な理由だ。
けれどそれも、ジルベールがついて来るから、と伝えただけで皆あっという間に納得して辞退した。
なんだよ、俺ってそんなにすぐくたばりそうなのかよ。
「坊ちゃまは、とてもサバイバル出来るようなタイプではありませんよ」
「そうそう、火のおこし方知ってます? テントの張り方は? 食べられる植物の見分け方は?」
「う・・ぐ・・・、全部わかんねえ」
「「「ほーら!」」」
「なんだよお前ら! だいたい俺は、野宿なんてするつもりねーし!」
「いやいや、世界を甘く見てはいけませんよ」
なんてやりとりがあったことは、この際置いておく。
そして、ジルベールとの長い長い旅が始まる。
変わりたい! と宣言してから、早くも5年の日々が過ぎていた。