第二話
結婚生活は最初から散々だった。
事情を知る友達は、
「子どもが出来る前で、良かったんじゃない?」
と、慰めを言ってくれたが、妻は最初から子どもなんていらなかったらしい。
「だって体型が崩れるじゃない。そんなの耐えられないわ」
だとさ。
“28歳まで、残りは50年”
それに気づいたのは、結婚生活が1時間もたたずに破れた28歳のとある日だった。
その日の夜、俺はいつものごとく、今日1日の記録をはじめていた。
今日はタブレットじゃなくて、パソコンにその日の出来事を入力している。
すると「どうぞ」の声とともにキーボードから少し離れたあたりに俺の好きな紅茶を置いたのは、ジルベールだ。
「お、ありがと。気が利くねえ、お前がいれば妻なんて必要なかったと気づいた今日この頃、だよ」
俺は自嘲の意味も込めてジルベールを見上げる。するとこいつは方眉を上げて俺を見下ろす。怒っているらしい。わかりにくい奴。
「・・・っと、これでよし」
俺は今日の記録を打ち終わると、ひととおりさらっと読み返してページを閉じた。
そして、ここ何日か考えていたことをジルベールに相談するべく彼に目をやる。ジルベールは記録を打ち始めた時と寸分変わらぬ姿勢でそこに立っていた。ロボットかこいつは。
「ジルベール」
「はい」
「相談したいことがあるんだ」
「なんでしょう」
俺は近寄ってくるジルベールに椅子を勧めたが、奴は頑として座ろうとせず、立ったまま俺の横で話を聞く。
「俺は変わりたい」
「?」
「産まれたときからある無限の財産とこの容姿のおかげで、俺はなーんにも考えずに、ただ自堕落な生活を送ってきた」
「自堕落ではなく、ただ流されるまま、です」
ジルベールが絶妙の間合いで合いの手を入れる。俺はちょっと咳払いして言った。
「ま、まあ、そうとも言う。で、その結果がどうだ、あの銭金にしか興味のないハニー、・・・いや、頭の悪いあいつにすら踊らされてこの始末。離婚したくてもそのときはすべての財産はあいつのもんだ」
「自業自得です」
なんの憐れみも感じない口調。
「だから、俺はこれから心を入れ替えようと思う。とっとと離婚して一文無しで出て行けばいいんだろうが、俺はいいが、それだとここにいる使用人たちにすげえ迷惑がかかる、そうだよな?」
わかっていながら、どういう意味だ? と言うように首をかしげて先を促すジルベール。
「使用人たちの待遇は今、お前の采配で労働条件も給金も言うことなしだ。けど、俺が出て行ったあとは、使用人は妻の所有になる。そしたら、あいつがどんなひどい条件を突きつけるかなんて、目に見えてる。だから、俺がいなくなっても使用人たちがきちんと自分の権利を守れるようにしておきたい。それと・・・」
「はい」
「今まで俺は、誰かのために何かするなんて考えたこともなかった。ぜーんぶお膳立てされていた。俺はただそれに乗っかってれば生きて行けた。けど、そこに俺の意思が入る余地はなかったんだ」
微動だにしないジルベール。
「ガキの頃からお前が口を酸っぱくして、自分で考えろって言ってたのに、俺は面倒くせえって理由で、ぜんぶ右から左に聞き流してた。そんでもって、頭は良くてもずるがしこい奴らの言いなりだった。けど、それじゃダメなんだよな?」
念を押すように下からジルベールをのぞき込むと、冷たい目ではあるがきちんと力強く頷いてくれる。
「だからさ、これからきちんと勉強したい。俺がいなくなっても使用人に迷惑がかからないよう、彼らの契約を変更するにはどうすればいいか。それと、契約を書き換えて離婚したとしても、妻のあいつに半分財産が入るだろう、それはかまわない、それがおれの自業自得だから。けど残り半分は誰かの幸せのために使いたい。それにはこの世界がどうなっているのか、どうやって動いているのか、わかってなきゃならない。いまさら小学校からやり直す時間はないから、ジルベール、俺の家庭教師になって、お前が一から教えてくれ」
ジルベールはここへ来てはじめて、え? と言う顔をした。
「お前ってさ、何でもすげえそつなくこなすから、何でも知ってるんだろうと思うし。それにあいつにばれないようにちゃんと勉強するためには、お前が適任だ! そうだ、嫌とは言わせないぞジル! これは命令だ!」
ジルベールが断れないよう、俺は卑怯だと思ったが主人の権限を使わせてもらう。
眉をひそめた嫌そうな顔で俺を見るだろうと思っていたジルベールは、暗に反してさっきの、え? と言う顔のままでいる。そのあと俺から目線を外し、何かを考えるようにしていたが、やがてコクコクと頷いて小さくつぶやいた。
「そうきましたか。これはこれは・・・」
そしてほんの少し口元をゆがめたジルベールが(どうやら笑ったらしい)こちらを見ると珍しく明るめの声で言った。
「かしこまりました。それでは、これより私が貴方の家庭教師として勤めさせて頂きます。もともと貴方はそれほど馬鹿では・・・失礼、頭は悪くなく聡明な方だと思いますし。・・・ただし」
「?」
「私はたいそう厳しいですよ?」
そう言って、はじめて俺にもわかるくらいニヤリとするジルベール。
俺はなんだか背中がぞわっとして、ほんの少しだけ、早まったか! と後悔した。
それからの苦行の日々は、まあ、もうご想像におまかせするとして。
あれから半年が過ぎようとしていた。
まず、それまで目すら通してなかった妻との契約書を、ここへ来てはじめて読み込んだ俺が気づいたのは、なんだか穴だらけだな、これ、と言うものだった。やたらと難解な語句を使っているだけで、中身はたいしたことないし、ちょっとした文言を書き加えるだけで、すぐに覆せそうな内容だ。
「素人の俺が気づくんだから、ジルベールなんかもっとアホらしく感じるよな?」
「そうですね、ですが以前の貴方でしたら、間違いなく真っ青になられていましたよ。本当の素人なら気づかないくらいには巧妙です」
はっきり言ってくれるよな。けどこいつのこういう所は嫌いじゃない。
「契約の更新日はは半年後、って事は1年ごとの見直しか。1年更新なんかにしなくたって、一生にしておけば問題ないのに。こういう所が詰めが甘い」
「いいえ、あちらが年々有利にしていくために短い期間での更新にしたのだと思われます」
「げ」
俺は露骨に嫌な顔をして、そのあとべーっと舌を出した。
「まあ、奥様の色仕掛けに引っかかるような弁護士は、三流・・・四流?五流?か、それ以下ということでしょう」
「言うねえ、もっと言ってやれ!」
そんな俺の挑発に乗るジルベールではない。俺のこういう所がこいつには馬鹿に見えるんだろうな。
「まああいつとの契約はそれでいいとして、お次は使用人たちの方だな」
「はい」
俺は、使用人たちの権利が保証された後、結婚の契約内容を書き換えて、それから離婚に持ち込むつもりでいた。
無制限の財産の半分がいただけるんだ、なんの文句がある、と思うが、餓鬼に陥った人間がどんなに食っても腹から食い物がボロボロこぼれ落ちるごとく、それで満足することはない。執着ってのはそのくらい恐ろしいもんだ。
まあ、半狂乱になる妻の様子が目に浮かんだところで、俺はブルブルと頭を振って、そいつを頭から追い出した。
そして財産を整理して屋敷を誰かに預けたあと、リュック一つの身軽な格好で世界を見て回るつもりだった。
ありがたいことに、ジルベールがお供をすると言ってくれた。
「貴方1人で行かせてどこかで野垂れ死にされては、後味が悪いですので。旅に慣れるまでは私がノウハウをお教えしながらご一緒します」
とね。
「勝手にしろ」
俺はそんな風に言ったが、心の中では感謝してたんだ。
向かう方向が決まったあとは、それが成就するまで日々慎重に努力を続けるのみだ。人に言われて動くのではなく、毎日、毎時間、毎分、毎秒、自分で考えて自分で選択して、最終的に責任を負うのは自分だと、強く心に刻みつけて。
ただ一つだけ、どうしても腑に落ちないことがあった。
ジルベールのバンバンとたたき込まれるような授業を受けていると、俺って学校で何を習ってたんだろうと改めてずずーんと落ち込まされる日々。
と同時に、その頃の俺はどんな記録をつけていたんだろう、と考えた。
あれ? そういえば小さい頃に書いた記録って、どこに仕舞ってあるんだ?
覚えてるはずがないよな、その頃は、全部人任せだったし。
そこで俺はある日、ジルベールに聞いてみた。
「ジルベール、俺が小さい頃に書いてた記録って、どこにあるんだ?」
すると奴は涼しい顔をして答える。
「存じません」
「え?」
「ご両親が、勝手に処分されたのかもしれません」
俺の両親は、俺がご幼少のみぎりに離婚し、どちらも俺を引き取りたくなくて、財産を少しばかり残して出て行った。
で、その頃にはもううちに仕えていたジルベールが俺を引き取る形になって、それからあいつは俺の面倒を見つつ、与えられた少しの財産をどう運営したのか、それはみるみるふくれあがり、今では無限大とまで言われるほどになっている。
で、で! 大資産家になったのをどこかで聞きつけた両親が、俺にすがってくるのなんて目に見えてるよな。
今では2人はどこぞの別荘で(もちろん別々に)優雅な暮らしをしていらっしゃる。
「え? けど、親は俺が記録をつけているなんて、知らないと思うぜ」
「そうですか。では、私の思い違いでしょう」
そのあと、ジルベールは何を聞いても知らぬ存ぜぬだ。本当に知らないらしい。
俺はそこではじめて、おかしなことに気がついた。
さすがに小学校や中学校の頃の記録なら、親じゃなくても使用人が間違って捨てたかもしれない。
けど。
俺が28歳の誕生日を迎えたその日。その日の記録はパソコンに残っていた。
けれど、その前日の記録が、どこを探してもないのだ。
前日の前日も、そしてその前日も。
学生時代を終えてからと考えても、少なくとも5・6年は記録が残るはず。
俺は物心ついてから、1日も欠かさず記録をつけていたはずだ。そして、その頃の記憶もある。
小学校も、中学校も、高校も大学も。その思い出もいっぱい心に残っている。
なのにどうして、記録だけが、ないのだろう。