第三章 水棲馬は空を駆ける
メイベルが目覚めると、そこはわずかな明かりが灯るだけの一室だった。
部屋の広さに対して、随分と立派な寝台が置かれており、豪奢な天蓋からは薄紫と臙脂の帳が下りていた。その下にある清潔なシーツの上にメイベルは転がされている。
なんとか体を起こすが、頭の芯にしびれたような感覚があり、メイベルは酷い倦怠感に襲われていた。壁には小さな窓らしきものもあるが、木片できっちり塞がれており、外の様子を見ることもかなわない。
おまけに部屋中に香を焚きしめているらしく、花のような薬のような、奇妙な匂いが常に空間を支配していた。
メイベルは必死に思考を巡らせるが、ひとつ呼吸をするたびに散漫になってしまう。それでもと懸命に整理していると、寝台の脇に据えられていた間仕切りの向こうから、ドアの開く音が聞こえた。
しばらくして、供を連れたカイリが姿を現す。
「――目が覚めましたか」
「カイリさん……どうして、こんなこと……」
「本国から指示がありまして、ふがいないアマネに代わって、私が貴女の相手を務めるようになりました」
「……代わって、って……」
「アマネには伝えてありますし、イクス議会の皆様はキィサとの婚約にとても積極的でしたので、意外とすんなりいきましたよ。……とはいえ私自身は、こんな小国の末姫に関心などないのですが……まあ、第四夫人くらいにはして差し上げましょう」
ふふ、と長い三つ編みを指先で弄びながら、カイリは目を細めた。
「――絶対にお断りだわ」
メイベルも負けじと、強い視線で睨み返す。だがカイリは物怖じするどころか、口角を上げて優雅に振る舞った。
「貴女がどう言おうと、既成事実さえ作ってしまえばどうということはありません」
傷物になった姫を娶りたいなんてもの好きはいないでしょう、と平然と言ってのけるカイリに、メイベルは得体の知れない恐怖を感じた。自らが置かれている状況の悪さに、ふるりと首筋に寒気が走る。だが諦めるわけにはいかない。
険しい表情を浮かべるメイベルの様子に、カイリはふうむと顎に手を添えた。
「まだ、効きが悪いようですね……」
カイリが背後に控えていた男に何事か指示を出す。すると従者は小瓶を取り出し、燭台の皿に何か液体を注ぎ始めた。途端に、部屋の中に充満する匂いが強くなる。
「もう少し眠っていただきましょう。……ではまた、のちほど」
メイベルは必死に、落ちてくる瞼を押し上げていた。だが強い眠気が全身を駆け巡り、ずしりと痛む頭をベッドに沈ませる。
(ダメ、……寝ては……)
だがよほど強い効力があるのか、先ほどよりも意識が切れ切れになっていく。おまけに寝台の傍には、カイリが残した部下の二人がおり、逃げ出すことも出来ない状態だ。
メイベルは何かないかと衣服を手探る。だが武器になりそうなものも、脱出に使えそうなものもない。
(どうしよう……)
段々と、考えることも難しくなって来た。
無駄な抵抗と知りながらも、手の甲に無理矢理爪を立てる。一瞬だけ強い痛みが走ったが、それもすぐにかき消され、ぐらぐらと酔ったような感覚に襲われた。
(助けて……ユージーン……)
細く限界まで伸ばされた意識の糸が、ふつりと切れる。
その瞬間、傍で威圧感を放っていたカイリの部下が、どさりと床に倒れこんだ。その衝撃にメイベルは慌てて目を開く。
するともう一人もくぐもった声を上げながら、メイベルの視界から消えていった。
(……⁉)
突然のことに混乱するメイベルだったが、少しでも油断すると意識を失いそうになる。そんなメイベルの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「無事か、メイベル」
「……アマネ、さん……?」
口元を黒い布で覆っているが、隙間から見える夕日色の瞳は間違いなくアマネだ。ぼんやりとしたままのメイベルに近寄ると、その口に乾燥した草のようなものを押し込む。
「悪い、我慢してくれ」
恐ろしい臭気のそれを、メイベルは奥歯でぎしりと噛みしめる。すると今まで味わったことのない、途方もない苦みと臭さが口内にぶわりと広がった。メイベルはたまらず、げほげほと咽ながら吐き出す。
目からは生理的な涙が溢れ、メイベルは瞬きながら必死に堪えた。だが先ほどまでの靄がかった思考が晴れ、徐々に本来の感覚が戻って来るのがわかる。
「どうして、ここが」
「兄上を見張っていた」
倒れているカイリの部下たちを手際よく縛り上げながら、アマネは静かに告げた。
「逃げるぞ。あの人は自分の意に添わないと分かれば、平気で命を奪う人だ」
「で、でも、逃げたらアマネさんが」
「いいから」
時間が惜しいとばかりに、アマネはメイベルの手を引く。最初はふらついた足取りのメイベルだったが、ここで逃げなければ後がない、と転ばぬよう必死に足を動かした。
脱出した扉の向こうは狭く真っ暗な廊下が続いており、メイベルは建物全体が、わずかに揺れているのに気付いた。その間もアマネは一直線に突き進んでいく。
「あ、あの、ありがとうございます……」
「礼は無事に出られてからだ」
アマネの足取りには迷いがなく、明確に出口を求めて動いていた。途中何度か見張りをやり過ごし、急勾配の階段を何度も上り下る。やがて外から漂ってくる匂いと音で、メイベルはここがどこかをようやく理解した。
「ここは、……船……?」
潮の香り。揺れる廊下。どうやらここは船体の内部のようだ。
「兄上の商船だ。規模はオレのものと倍は違うが、中の構造は大差ない」
「そ、そうなんですね……」
少し余裕が生まれたのか、アマネがメイベルの呟きに応じた。なおもしっかりと掴まれたままの手を見つめ、メイベルは思わずアマネに尋ねる。
「あの、どうして助けてくれたんですか?」
「……」
「お兄さんが怖いって、あんなに言っていたのに……もし見つかったらアマネさんは」
「ただでは済まないだろうな。だが今お前を助けなければ、これから先もずっと後悔すると思ったんだ」
アマネの穏やかで真っすぐな声が続く。
「――オレは、全て用意された一生を送るんだと思っていた。父王の命令と兄たちに縛られて、キィサのためにこの命を終えるのだと」
メイベルとの婚約もその一つでしかなかった。
しかし自分と同じ『捕らわれの姫君』だと思っていたメイベルは、とても幸せそうに暮らしていた。姉たちのような美貌も才能も持ち合わせていないのに、ただ与えられることを嫌い、自らの境遇に嘆くことなく。
「だからお前に断られた時、本当に驚いた。国がお膳立てしたことで、オレの思い通りにならないことなんて、今まで一つもなかったからな。だからどう口説けばいいか、どうすれば振り向くのか、まったく分からなくて……そうやって、自分で考えている時間が楽しくて、仕方がなかった」
「……」
「お前といれば、オレはまだ自由でいられるかもしれないと思った。……少し遅かったがな」
アマネが初めて惹かれた人には、既に大切に思う相手がいた。
片思いならば、奪い取る自信はあった。
国の政略結婚なら、自分の力で壊してやると意気込んでいた。
だがメイベルとユージーンは、ただ普通に恋をしていた。
魔術師と人間という違いをぶつけても、彼女の気持ちは変わらなかった。ユージーンもまた、一人の人間のように悩み苦しんでいた。
羨ましかった。
そこまで思ってくれる人も、思いたい人も、アマネにはいなかったから。
「メイベル、安心しろ。お前の気持ちは、オレがきちんとぶつけてきてやった」
「ぶつけて、って……ユージーンさんに⁉」
「ああ、はっきりしろとな。だから大丈夫だ。あいつは――ユージーンは今もちゃんと、お前のことが好きだ」
メイベルはその言葉に、思わず泣きそうになった。顔を上げると、前を歩いていたアマネが振り返り、柔らかく微笑むのが見える。メイベルがしっかりと頷くのを確認すると、アマネは再び力強く歩を進めた。
やがて船尾楼から出てきた二人の眼前に、巨大な帆柱が現れた。奥にはさらに二本の柱があり、今は停泊中のためか帆は折り畳まれている。
見上げた空はまだ夜の様相を保っており、日の出まで少し時間がかかりそうだ。
「今なら暗闇に紛れられる、早く――」
だがアマネは突然足を止めた。つられてメイベルも留まり、どうしたのだろうと前を見る。するとそこには多くの配下を連れたカイリが、憫笑を浮かべながら立っていた。