第一章 9
同時刻、ユージーンの城を訪れていた王佐補・リードーは明瞭に告げた。
「――婚約の話を、無かったことにしていただきたい」
メイベルが城を出てすぐ、まるで示し合わせていたかのように彼らは現れた。
いわく、ユージーンとだけ話をしたいことがある、そのためにメイベル様には王宮にお戻りいただきました、と述べる。
「たしかにあの場では、陛下はあなたを婚約者に戻すと約束なさいました。ですが我々議会は、この婚約を認めるべきではないという意見でまとまっています」
「……」
「幸い、メイベル様には新しい婚約者の話もございます。……もちろん、ただ身を引いてくださいという訳ではございません」
そう言うとリードーは、背後にいた従者に指示を出した。ごとり、とテーブルの上に置かれたのは分厚い木箱で、蓋を持ち上げると金の硬貨が大量に顔を覗かせる。
それを一瞥すると、リードーは厳かな声で続けた。
「足りなければ申し付けください。どうかこれで、話を収めていただきたいのです」
しかしユージーンは、それを軽蔑するかのように睨みつけた。
「必要ない。僕には何の価値もない」
「それでは……」
「婚約を解消するつもりはない」
仮面越しに睨みつけられ、リードーはぶるりと全身を震わせた。だがここで臆してはならないと思ったのか、負けじとユージーンに語りかける。
「これはメイベル様のためでもあります」
「……どういうことだ」
「今、市井の人々からメイベル様が何と呼ばれているかご存じですか? ……『国のため、魔術師の贄にされた可哀そうな末姫』……このように囁かれているのです」
深いため息をつくリードーを、ユージーンは瞬きもせずに見つめていた。
「ウィスキ侵攻で、我々はあなたに助けられた。ですがその仔細を知るものは多くはありません。多くの国民は、婚約を条件に何らかの密約がなされたのでは、と噂している状態です」
実際にそれを狙っていたというのに、いざ平穏が訪れれば手のひらを返したかのようになかったことにする。そんな議会の姿勢に、ユージーンは沸き上がる怒りを抑えきれなくなりそうだった。
だがことを荒立てて、メイベルの立場を悪くするわけにもいかない、とユージーンは必死に自制する。
「もしもこのまま婚約を許してしまえば、魔術師に言いなりの、ふがいない議会として糾弾されるでしょう。そうなれば我々も――それに対する国王も盤石とはいかないでしょう。何より民たちは、……素性の分からないあなたを恐れている」
最後の一言に、ユージーンは何も言い返すことが出来なかった。
その様子を見ていたリードーは視線をテーブルに落とし、穏やかな声で明言する。
「魔術師殿は、我々と生きる時間が違う。いくら愛していたとしても、人と同じにはなれますまい」
「……」
「本当にメイベル様の幸せを思うのであれば、――婚約を解消していただけませんか」
深々と首を下げるリードーの姿を、ユージーンは静かに正視する。
やがて何かに耐えるかのように、静かに睫毛を伏せた。
ようやく城に戻ってきたメイベルは、普段と違う空気を感じていた。
具体的に何が変わったというものではなく、淀んでいるような、陰っているかのような、言葉では言い表せない程度の差異だ。
まずはユージーンに会うのが先だとメイベルは二階に上がり、彼の自室のドアを叩く。
返事の後部屋に入ると、いつもと変わらない様子でユージーンは机に向かっていた。
「ごめんなさい、遅くなって」
「……いや、気にするな」
そこでメイベルは、ユージーンが仮面を着けていることに気が付いた。
普段自室では外していることが多いので、少し気になったものの、単なる偶然だろうと意識せずに話を続ける。
「急ぎだって呼ばれたのに、行ってみたらキャスリーンお姉さまの衣装選びだったの。脅かさないでほしいわ」
メイベルが頬を膨らませる姿を、ユージーンは無言で眺めていた。
どことなく寂しそうに見えるその様子に、メイベルはわずかに不安を覚える。
だがユージーンはすぐに口元を微笑みに変えてメイベルに問いかけた。
「それは大変だったな。用はそれだけだったのか?」
「う、うん……」
頷いてみせたメイベルだったが、書記長からされた婚約解消の話が頭をよぎった。
ユージーンに余計な心配はかけたくない。
だがここで変に嘘をついても、ユージーンには見破られてしまうかもしれない。何よりユージーンに隠し事はしたくない、とメイベルは短く息を吐きだすと、静かに切り出した。
「……ごめんなさい、実はもう一つ話があったの」
「……」
「婚約を、解消しろって、言われたわ……」
室内に沈黙が満ちる。
その空気に耐えられず、メイベルは慌てて否定した。
「もちろん、するつもりはないわ。何とか説得しようと思ってる、けど……」
「……何か、言われたのか」
言葉に詰まってしまったメイベルに気付いたのか、ユージーンは静かに口を開いた。
その優しい声にメイベルは再び目頭が熱くなるのがわかる。
「ううん、……何でもないの」
「……本当に?」
「……」
仮面の向こうから、ユージーンがメイベルを見つめていた。
綺麗な琥珀色の瞳。固く結ばれた唇。
メイベルから見える表情はそれだけなのに、彼がどれだけメイベルを心配しているのかが、痛いほどわかる。
だからこそメイベルは、無理矢理に笑って答えた。
「あの、ユージーンさん、……もしも私がいなくなったら、……新しく好きな人を、見つけてくれますか?」
「……」
「私はユージーンさんより先に死んでしまうから、……一人にさせてしまうのが、嫌で……だから別に恋人を見つけてくれたら寂しくないかなって、考えていて……」
言いながら、メイベルは心臓がずきりと痛むのが分かった。
魔法を防いだ時とは違う、自分の気持ちと言葉がかみ合っていないことに、体が悲鳴を上げているのだ。
(でも私のせいで、ユージーンさんを一人にし続けるのは……)
寿命が違うことも。メイベルがいなくなった後、他の人とともに生きることも、すべて受け入れる。その覚悟をしなければ、この婚約は守れない。
「……他に好きな奴を見つけろと、お前が言うのか」
だが聞こえてきたのは、絞り出すようなユージーンの声だった。
恐る恐る顔を上げたメイベルは、ユージーンの顔を見て絶句した。辛そうに眇められた切れ長の目と、食いしばるような口元。
心痛な表情を目の当たりにしたメイベルは、自分がいかに酷いことを口走ってしまったかを悟り、慌てて首を振る。
「ごめんなさい、違うの、そんなつもりじゃなくて」
「……わかってる。僕だってずっと悩んでいた。……本当にお前と婚約をして、よかったんだろうかと」
「それは、どういう……」
「僕とお前は同じじゃない。一緒にいても幸せにはなれない。……それならいっそ、なかったことにした方が」
ユージーンの言葉が終わる前に、どうして、とメイベルが零した。
王宮では堪えることが出来たはずの涙が、ついにとめどなく流れ始める。
だがユージーンはそんなメイベルを前にしても、決して訂正の言葉を口にすることはなかった。
メイベルはどうしたらいいかわからなくなり、その場から逃げるように走り出した。廊下、階段と足早に駆け下りていくが、ユージーンが追ってくる気配はない。
(どうして、……どうして、そんなこと……)
喉の奥が痛い。
涙で視界が歪む。
外はとうに日が暮れており、今から王宮に戻るのは難しい状態だ。
こんな時間に、一体どこに行けばいいのだろう。
(でも、ここにいたくない……!)
消えてしまいたい、と暗涙にむせびながら、メイベルは強く玄関の扉を押した。
すると予想より遥かに軽い力で開いてしまい、バランスを崩したメイベルの体は外に投げ出される。すると力強い腕でがしりと抱きとめられた。
「――うわ、びっくりした。こんな時間から出かけるの?」
「……ロウ、さん……」
見上げるとロウの綺麗な顔があり、メイベルは再び情けない声で涙を流した。