第一章 新しい婚約者
メイベルは開いた口がふさがらなかった。
「ごめんなさい……もう一度聞いていいかしら」
「ええと、ですので……メイベル様の新しい婚約者の方が、近いうちにイクスにお見えになるそうで……」
「だから――『新しい婚約者』って何⁉」
かつてのウィスキ侵攻事件から数日後、無事ユージーンの正式な婚約者となったメイベルは、久しぶりに王宮に呼ばれていた。火急の用があるからと言われて来てみれば、こうして執務室に呼び出され、冒頭の有様である。
「実はですね、元々メイベル様の婚約者候補として選んでいた方がおりまして……ただ、非常に遠方の国なので連絡が思うように進まず、そうこうしているうちに例のトラヴィスの提案がありまして……」
「ウィスキから守ってもらうために、仮面魔術師と婚約させよう、ってやつね」
左様で、と申し訳なさそうに頭を下げる禿頭の男性は、王佐補のリードーだ。イクスへの外患罪で逮捕拘留されているトラヴィスに代わり、今は彼が議会を取り仕切っているらしい。
「はい。その節は我々の短慮のせいで、メイベル様には多大なご心労をおかけしてしまいました……本当に申し訳なく思っております」
「う、ううん……」
リードーの言う通り、メイベルの婚約は、議会からの策謀に振り回されて始まったものだった。
だがおかげでメイベルはユージーンと会うことが出来たので、それを考えると目の前でシュンとなっている彼を責め立てる気持ちにはなれない。
「そのことはもう良いわ。でも私はユージーンさんと正式に婚約をしています。新しい婚約者にはお断りをしていただけないでしょうか」
「そ、それが、お相手はキィサの王子殿下でして、……実は数日前、既にこちらに向かって船を出したとの伝令が入ってきてしまい……」
「キィサから? 海を渡ってわざわざ?」
イクス王国のある大陸から、海を挟んで東にある大陸。
その中で最も栄えていると言われるのが、商業大国キィサである。
温暖な気候と豊かな農産物に恵まれ、イクスとはまた違った文明が栄えている国だと聞く。ただ海路という障害があるため、こちらとの交流はまだ少ないのが現状だ。
たしかにキィサから来るのであれば、連絡が入れ違いになることもあるだろう。だがそれとメイベルの新しい婚約者が出来るのとでは、問題の本質が違う。
「もちろんご挨拶くらいは喜んでいたします。ですが、私はユージーンさん以外と婚約を結ぶつもりはありません。そのことをきちんと伝えていただけますか?」
「は、はあ……」
困った表情のまま眉を寄せるリ―ドーに頭を下げ、メイベルはすっくと席を立った。
(新しい婚約者って、……ちょっと勝手すぎる気がするわ)
腹立たしい気持ちを抑えながら、メイベルはずんずんと王宮の長い廊下を歩いていく。
キィサとの連絡で遅れが出てしまったことは仕方がないが、どうしてメイベルの婚約が決定した時点で、すぐに先方にお断りをしてくれなかったのだろう。
トラヴィスという頭脳を失った議会が、いまだ上手く機能していないとは噂されていたが、まさかメイベルの婚約話まで未だに巻き込まれていたとは。
気持ちを落ち着けるように、はあと息をつく。するとそんな妹の姿を見つけた一姫・ガートルードが廊下の向こうから声をかけてきた。
「メイベル、久しいな」
「お姉さま! お元気でしたか?」
ああ、と爽やかな笑みを返すガートルードは、今日も凛々しく輝いている。後ろで一つに縛った艶やかな黒髪が、男装姿に良く似合っており、そこらの男性では容姿でも剣の腕でも、かなうものはないだろう。
「お前が帰ったと聞いたから部屋に行こうとしたんだが、もう帰るのか?」
「あ、はい。食事の準備もありますので」
「メイベルの料理は上手いからな、ユージーン殿が羨ましい」
そう言えば、とガートルードが続けた。
「先日は大変世話になった。出来ればユージーン殿に直接礼を言いたいのだが、こちらに出られる時か、伺っても構わない日取りを聞いてもらえないだろうか」
「そ、そうですね……」
だが言われたメイベルはしばらく考え込んだ後、恐る恐る口を開いた。
「その……ユージーンさんはあまり街中に出たり、人と会ったりするのが苦手と言いますか……出来る限り、あまり他人とは顔を合わせたくないという感じなので、もしかしたら難しいかもしれません……」
メイベルの婚約者でもあるユージーンは、世界でも非常に希少な魔術師だ。彼らは総じて仮面を身に着けているため、仮面魔術師と呼ばれることもある。
あまり公にはされていないが、保有する魔力の影響で、彼らは皆とても美しい顔をしていた。単に見目が良い、だけで済めばいいのだが、実際のところ仮面を外した素顔を見てしまうと、心を魅了されたり、意識が遠のいたりする作用があるのだ。
そのため、ユージーンは普段からほとんど人前に姿を現さない。メイベルが専属のメイドを城へ連れて行かないのも、こうした事情のためである。
メイベルの返事にガートルードはそうか、と少しだけ寂しそうに視線を落とした。
「それなら仕方がないな。まあ、機会があれば酒でもと伝えてくれ」
「わかりました!」
ガートルードの良いところは、こうした時に何も言わず、ただ受け入れてくれるところだ。メイベルは久方ぶりに会えた姉の優しさに感謝しつつ、帰路を急ぐことにした。
ユージーンの住む城は、イクスの端にある深い森を抜けた奥にある。
メイベルが初めてユージーンに会いに来た時は、傷だらけになって無理やり通り抜けた難関だった。その時は一度きりのつもりで必死に歩き切ったメイベルだったが、正式な婚約者となった今、どうしても城と王宮とを行き来する機会は多くなる。
そのたびに森に入って泥だらけになるのは……と悩んでいたところ、ユージーンが移動用の魔法陣を設置してくれたのだ。
森の入り口と抜けた先にそれぞれ設置されており、メイベルがどちらかに立つと、もう一方の魔法陣に通り抜けられるという仕組みだ。
空間を凝縮して零距離にすることで、移動や物資の供給を容易にする……とユージーンが説明していた記憶はあるが、詳しい原理はよく分かっていない。
メイベルが慣れた様子で魔法陣をくぐると、城の近くに何人かの人影が見えた。
(どうしてこんなに人が?)
森にはユージーンが魔法を施しており、出入りの商人などの特別な許可を得たものしか通り抜けることは出来ない。魔法陣を使えるのもメイベルだけだ。
よくよく見ればその中に、城にいつも食材を運んでくれるセロの姿があった。
ということは商会の方かしら、とメイベルが首をかしげていると、彼女が現れたことに気づいたのか、そのうちの一人がこちらに近づいて来る。
かなり背の高い男性で、その肌は褐色をしていた。よく鍛え上げられた筋肉が腕や肩についており、騎士や兵士たちと遜色ない体つきをしているようだ。
髪は銀と白が混じった明るい鈍色で、虹彩は海に沈む夕日のような美しい橙色。通った鼻筋は彼の端正な美貌を引き立てている。
こちらではあまり見かけない、幾何学的な意匠の装飾やゆったりとした袖の洋服を着ており、男性にはしては珍しく、極彩色の耳飾りも着けていた。
頭には派手な色の布を巻いており、それを縛る紐の端には、水色や紫といった小粒のガラス玉が揺れている。
男はメイベルを見ると、粒の揃った白い歯を零しながらにっこりと微笑んだ。
「お前がメイベルか。待ちくたびれたぞ」
「へ?」
「迎えに来た。共にキィサに帰ろう」
そう言うと青年はメイベルの手を取ると、甲に軽く口づける真似をした。驚いたメイベルは慌てて手を引っ込める。
「ど、どちら様ですか⁉」
「なんだ? 話が伝わっていないのか。オレはアマネ・ヒイラギ。お前の婚約者だ」
にかりと口角を上げた男の顔を前に、メイベルは絶句していた。
何度か目をしばたたかせ、ゆっくりと思考を回し始める。
(婚約者……ってことは、この人が例の、キィサの王子⁉)
アマネと名乗った彼は、じっと観察しているメイベルに気づいたのか、再び爽やかな笑みを刻んでみせた。
「お前がこちらにいると聞いてな。森を抜けるのに先達が必要だというから、そこの男に頼んで案内をさせたところだ」
そこの男、と言われた方を見る。すると疲れ果てた様子のセロが、弱々しくメイベルに微笑みかけてきた。
今日は城に来る日ではなかったはずなので、アマネから無理やり引っ張り出されたのだろう、とメイベルは心の中で合掌した。
(というか、城に来るなんて聞いてないわ!)
おまけに、メイベルが既に婚約をしているという話も伝わっていないようだ。
混乱していたメイベルだったが、ここできちんと伝えておかなければ、とこほんと咳払いを落とす。
「キィサとのお話は先ほど伺いました。……ただあの、本当に申し訳ないのですが……私は既に他の婚約者との縁談が決まっておりまして……。遠いところをご足労くださったことには感謝いたしますが、どうか一度王宮へお戻りいただけないでしょうか」
するとアマネはああ、と眼を眇める。
「聞いている」
「そうですか聞いて…… 聞いて?」
「港で話しているのをな。だがまだ正式な婚約の儀はしていないんだろう?」
「それはまだですけど……って、あの、聞いてました? 私もう婚約者が」
「――一体なんだ、騒々しい」
必死に話の軌道を修正しようとしていたメイベルの上空で、ばさりと大きな羽音が響いた。直後、黒い仮面を着けたユージーンがメイベルの隣に降り立つ。
人が空を飛んでいるという光景を見たアマネは、一瞬言葉を失っているようだった。しかしすぐに余裕を取り戻すと、冷たい視線をぶつけてくるユージーンに対峙し、挑発するように切り出した。
「もしかして、お前が『仮面魔術師』のユージーンか?」
「誰だこいつ」
「キィサから来たアマネさんで、……って今そんなことを紹介している場合じゃ」
「ちょうどいい。ユージーン、オレはお前に決闘を申し込む!」
何を言い出すつもりだ、とメイベルは青ざめる。だが嫌な予感は的中し、アマネはユージーンに向かって拳を突き立てた。
「オレはメイベルに求婚する。お前よりオレに惚れさせて、正式な婚約者の座を奪い取ってやるぞ!」
メイベルは心の中で瞑目した。
だがただならぬ圧が隣から溢れているのを察して、恐る恐るそちらを振り返る。
見るとユージーンの背後から実に禍々しい、おどろおどろしい気配が立ちのぼっていた。明らかに怒りを孕んでいると分かる。
「……ほう」
やがて仮面の奥の金色の目が、肉食獣のようにすうと細められた。
その口元には優雅な笑みすら浮かんでおり、メイベルはそんなユージーンを窺いながら、深いため息をつくのであった。
第二部始めます!
またのんびりお付き合いいただけたら嬉しいです~!