番外編:真冬の夜の夢
そこは、豪華絢爛な寝台の中だった。
「……?」
メイベルはゆっくりと体を起こす。
柔らかいベッドは全身が埋まってしまうかのようで、ふわふわと落ち着かない。艶やかに光を弾くシーツをぼんやりと見つめていたメイベルだったが、隣に誰かが寝ていることに気づいた。
「……え……」
枕に広がる柔らかい赤髪。けぶるような睫毛は伏せられており、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。メイベルがさらに視線をずらすと、しっかりとした肩や鍛えられた腕が掛布から覗いており、なめらかな素肌を見せていた……ん? 素肌?
(――ッ!)
メイベルは慌てて自分の体を見た。質の良い生地で出来たナイトドレスを着ており、とりあえずほうと安堵のため息を漏らす。するとそんなメイベルの行動に気づいたのか、隣にいた男がようやく目を開いた。
「おはよう、メイベル」
「ロ、ロウさん、私はいったい……」
「どうしたんだい? 君の旦那様に向かって」
「だ、」
旦那さまー⁉ と早朝一番、ロウの邸にメイベルの悲鳴がこだました。
「だから君は俺と結婚して、こうして一緒に暮らしてるってわけ」
「……私と、ロウさんが、結婚……」
向かい合わせのテーブルで朝食を食べながら、ロウはことも無げにそう言った。言葉を繰り返してみるメイベルだったが、どうにも記憶が曖昧だ。
「うん。君はなかなかOKしてくれなくて大変だったよ」
ふふ、と微笑むロウを見て、メイベルは手にしていたパンをそっとちぎる。
味わうどころではないそれを食べながら、メイベルは必死に思考を巡らせた。
(結婚……ロウさんと言えば、世界に数人しかいない仮面魔術師の一人で……)
だが考えれば考えるだけ、自分とロウがそうした関係になっている理由が分からない。もしかして記憶喪失になってしまったのだろうか。
「あのロウさん、すみません。私、今までのことを忘れているみたいで……」
するとそれを聞いたロウは、その綺麗な深紅の目を大きく見開いた。
「なんだって? じゃあ俺が君にしたプロポーズも覚えてない?」
「ぷ、プロポーズですか⁉」
「うん。こうして――」
言いながらロウは立ち上がり、メイベルの隣へと足を進めた。そのまま椅子に座るメイベルの傍らに膝をつくと、そっと彼女の左手をとる。
「――俺の、最後の恋人になってほしい」
ロウはそのままメイベルの薬指に唇を触れさせた。
メイベルも気づいていなかったが、その指にはおそらく彼から贈られたのであろう、美しい銀の結婚指輪が光っている。ロウはわずかに唇を離すとメイベルを見上げた。
「ってね」
ばちん、と音が出そうなウインクを見せたロウに対して、メイベルは一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。情熱的な赤色の瞳に吸い込まれそうになるが、同時にメイベルは何かが胸に引っかかっているような、居心地の悪い感覚に陥る。
(私が、ロウさんの恋人に……?)
黒、金、……何かを思い出しそうな気がして目を強く瞑る。
だがどうしても、この違和感が何なのか、その答えが掴めない。眉間に皺を寄せて悩むメイベルに気づいたのか、ロウがどうしたのとさらに顔を寄せてくる。
「大丈夫? なんだか苦しそうだけど」
「ひゃっ⁉ は、はい、大丈夫なんで、その、少し離れて……」
いよいよ顔から火が出そうになるメイベルをよそに、ロウはその手を握りしめたまま近づいてくる。その類まれなる美貌の接近に、体の方が先に限界を迎えたらしい。
「……メイベル? メイベル⁉」
どこか遠くで、ロウの声が響いている。
しっかりとした逞しい腕に抱えられたまま、メイベルは意識を失った。
そこは、天鵞絨の張られたソファの上だった。
「……」
メイベルは息を荒々しく吐きながら、勢いよく体を起こした。突然のそれに驚いたのか、近くの机で本を読んでいたムタビリスが、びくりと体を震わせる。
「メ、メイベル?」
「ム、ムタビリス……?」
改めて周囲を見回す。年代物の絨毯にぎっしりと本の詰まった棚。きょろきょろと忙しないメイベルの様子を見ながら、ムタビリスは首をかしげた。
「どうしたの?」
「ええと、その、夢を見ていたみたい……」
ようやく鼓動が落ち着いてきたメイベルは、はあと深いため息をついた。きょとんとするムタビリスを前に、メイベルは先ほどの夢を思い出す。
(まさかロウさんと結婚する夢を見るなんて……多分まったく落ち着けないわ……)
メイベルはぶんぶんと頭を振って、あまりに鮮明な記憶を振り払った。
その姿が面白かったのか、ムタビリスがくすりと笑う。
「なんだか、すごく慌てているね」
「ごめんなさい、なんでもないの……ところで、私なんでムタビリスの部屋にいるのかしら」
メイベルのその問いに、今度はムタビリスがえ、と目を丸くした。
「メイベルが遊びに来て、気づいたらそこで眠っちゃったんだよ」
「わ、私が……?」
「うん。嬉しそうに雑誌を見てるなーと思っていたら、いつのまにか」
雑誌? と疑問符を浮かべたメイベルは、自分の傍らにある冊子を見つけ出し、それを目の前に取り出した。表紙には『幸せな結婚特集』と大きく書かれている。
何度か瞬きながら、ぱらりと頁をめくる。
するとそこには両家への挨拶の方法、二人で選ぶ婚約・結婚指輪などの記事がずらりと並んでいた。しばらく眺めていたメイベルだったがとんと身に覚えがなく、たまらずムタビリスに問いかける。
「あの、なんで私こんな本を」
「そ、それは……おれたちの式のため、かな」
へ、とメイベルは情けない声を上げた。だがムタビリスは冗談を言ったわけではないらしく、その綺麗な紺碧の目を細めて笑った。絹糸のような白金の髪がさらりと流れる。
「でも、まだしんじられないよ……まさかメイベルと結婚できるなんて」
「ム、ムタビリス、何を……?」
「おれ、魔術師は誰かに好きになってもらうなんて、出来ないんだと、おもってた。でもメイベルは違った。魔術師でも、好きなんだって、言ってくれた」
どこか恥ずかしそうに笑うムタビリスを前に、メイベルは完全に訳が分からない状態に追い込まれていた。
(どういうこと⁉ 私とムタビリスが結婚するって……)
先ほどのムタビリスの言葉に、メイベルは何故か覚えがあった。
しかしそれがいつのことなのか、誰に対して言ったのか、全く思い出せない。
うんうんと頭を抱えるメイベルを前に、ムタビリスは不安げに首をかしげた。
「メイベル?」
「あ、うん、そう、よね……」
しどろもどろになるメイベルを前に、ムタビリスは表情を陰らせた。
やがて椅子から立ち上がると、ソファに座っているメイベルの隣に腰かける。固く握りしめたメイベルの手に、静かに自身の手を重ねると、穏やかな声で呟いた。
「……おれ、大切にする。メイベルのこと」
「ムタビリス、あのね」
「どうしたらもっと好きになってもらえるか、おれ、ずっと考えてたから」
その言葉をきっかけに、メイベルの脳裏にザ、と不明瞭な一場面が流れ込んでくる。
(――どうしたら、僕を好きになってもらえる?)
それは誰が言った言葉だったか。
無性に気になったメイベルは、記憶の底を掘り下げるように小さく繰り返す。
「どうしたら……」
「え?」
「どうしたら、好きになってもらえる……」
押し黙ってしまったメイベルに、ムタビリスは少し驚いているようだった。
だがすぐに眼を眇めると、優しい笑みを浮かべて、こつりと額をくっつけてくる。
「おれはずっと、メイベルが好きだよ」
「……」
「ずっと、一緒にいたい。二人でクッキーを食べて、美味しいケーキを焼いて……メイベルは、そういうのは、嫌い?」
穏やかなムタビリスの声が、メイベルの心に反響する。
ムタビリスの純粋なところ、優しいところ。甘いものが好きで、美味しそうにお菓子を食べてくれるところも、メイベルも大好きだった。
(私、どうして忘れていたのかしら……)
彼のためにお菓子を作ろう。これからもずっと、それが――
――だが、再びメイベルの脳裏に黒いイメージが流れ込んできた。
黒だけではない、琥珀、白い肌、――背中から伸びる大きな翼。
その瞬間、メイベルはすくと立ち上がった。
「――メイベル?」
後ろで呼び止めるムタビリスの言葉に構わず、気づけばメイベルは走り出していた。扉を開け、長い階段を一足飛びに駆け下りる。
(違う、……違う!)
階上からムタビリスが何かを叫んでいるが、メイベルは足を止めようとはしなかった。片手で手摺を掴み、滑るように玄関へと降りていく。
(私は、――あの人の婚約者……!)
だが勢い余ったのか、最後の踊り場でメイベルは足をもつれさせた。慌てて手をつこうとするが時すでに遅く、メイベルの体は豪快に階段から落下した。
「――きゃあっ!」
メイベルは溜め込んでいた息を、一気に吐き出しながら飛び起きた。そこは固い革張りのソファの上で、いまだどくどくと拍打つ胸にメイベルは手を当てる。
(……ここ、は……)
右に左にと視線を動かす。高そうな机が一つと、壁沿いに並んだ沢山の本棚。間違いない、ユージーンの部屋だ。
はあはあと呼吸を整えていたメイベルだったが、先ほどまで見ていた夢を思い出して、一体あれは何だったのかと首をかしげる。
(なんて鮮明な夢だったのかしら……)
改めて左手を見てみるが、ロウとの結婚指輪は影も形もなかった。ムタビリスと見た結婚特集を扱っていた雑誌もなく、代わりにメイベルに掛けられた毛布だけがある。
すると部屋の扉が開いた音がし、奥からユージーンが姿を見せた。
恵まれた長身に、癖の少ない綺麗な黒髪。金色の瞳――。
「目が覚めたか」
「ユージーンさん! 私、どうしてここに……」
「洗濯物を畳みながら庭で寝ていたのを、仕方ないから連れて来たんだ」
はあと不機嫌そうにユージーンが息をついた。
そういえば今日は、ぽかぽかとした日差しが心地よくて、ついうとうとしてしまった記憶がある。どうやらそのまま外で寝てしまったらしく、心配したユージーンが自室まで運んでくれたようだ。
「あ、ありがとうございます……」
夢でよかった、とほっとするメイベルに対し、ユージーンはさらに苛立ちを募らせた様子で、メイベルの隣にどかりと座った。
「……で?」
「え?」
「どんな夢を見ていた?」
その質問に、メイベルはさっと青ざめた。
えへへと誤魔化すように笑うが、すうっとユージーンの目が細められる。
「――ロウさん」
「……」
「ムタビリス、なにを、とも言っていたが?」
「……ええと」
どうやら運ばれている時に、うっかり口に出してしまっていたらしい。
「あれはその、夢の話で」
「ほう。――詳しく聞かせてもらおうか。今すぐ。ここで」
(……これも夢、とはならないかしら……)
ユージーンの整いすぎた美貌が、にっこりと笑みの形に変わる。
メイベルは逃げ場がないことを悟った。
(了)
評価、ブクマありがとうございます!
お礼代わりの番外編でした。
ひとつ前の番外編を書いてから、ユージーンが独占欲仮面とか嫉妬仮面と呼ばれているのがすごく好きです。