第六章 婚約の終わり
メイベルが目を覚ますと、そこは自分のベッドの上だった。
「……?」
恐々と体を起こす。服は昨日寝た時のまま、手も足も汚れていない。すぐに頬に手を添えるが、痛みどころか傷跡すら見つからなかった。
(どうなってるの……?)
昨日の夜、変な音を聞いて窓からユージーンの部屋に乗り込んだ。そこで恐ろしい姿になった彼と会って、そして――
「起きたか」
その声に顔を上げると、開かれた扉にもたれるようにユージーンが立っていた。
昨夜の姿など影も形もなく、相変わらず均整の取れた体つきに、顔には黒い仮面を着けている。
「あの、私昨日……」
「昨日のことは忘れろ」
ばっさりと言い切られてしまい、メイベルはそれ以上何も言えなくなってしまった。代わりにユージーンが言葉を続ける。
「ウィミィ」
「え、あ、は、はい」
「今日は一日ゆっくりしていろ」
そう言ってユージーンは口元にわずかに笑みを浮かべた。あっけにとられるメイベルをよそに、彼はそのまま廊下に出て行ってしまう。
一人部屋に残されたメイベルはその変わり様に、壊れたおもちゃのように首をかしげていた。
(名前を呼ばれたわ……)
その日からユージーンの態度は一変した。
一日ゆっくりしろとの言葉の通り、その日はなんとユージーンが食事を作って持ってきてくれた。簡単なオートミールとスープで、具材も味もかなり大味だったが、ユージーンが作ってくれたというだけで、メイベルにとっては驚きだ。
次の日、メイベルが復活してからも彼の甲斐甲斐しさは続いた。
メイベルが洗濯物を外に運んでいたら、突然風が起き、籠の中のシーツが次々とさらわれていった。慌てて追いかけると、干し物用に掛けているロープに綺麗にかかっている。
何が起きたの、と思って目を丸くしていると、バルコニーからユージーンがメイベルを見下ろしていた。目が合うと慌てて姿を消してしまったが、どうやら彼の魔法によるものらしい。
食事も何故か一緒に食べるようになった。
メイベルが厨房で食べているところにやってきて、「自分もここで食べる」と言い出したのだ。最初は驚いたメイベルだったが、一人で食べるより楽しいとそれを受け入れた。
器用に仮面を着けたまま食べる姿に、なんだか不思議な気持ちになる。
(な、なんか、急に優しくなったような)
食事が終わると一緒に片付けまでしてくれるようになった。メイベルとしてはありがたい限りだが、今までの彼の行動を考えると逆に疑問を感じてしまう。
そんな日が数日続き、限界が来たメイベルは自室のベッドで転げまわっていた。
「一体何⁉ どうしてあんな優しいの!」
時刻は既に夜。
今日もユージーンと夕食を食べ、片づけをして廊下で別れた後である。
「掃除も洗濯も手伝ってくれるし、食事だってとるし、片づけもするし、……」
おまけに今日なんて、食事の席で「何か欲しいものは無いか?」と聞いてきたのだ。
食材や薬は足りているから特にないと答えたところ、ドレスや装飾品はいらないのかと返された。
(『女は、そういうのが欲しいんじゃないのか?』って……どうしちゃったのかしら)
来たばかりの頃の冷たい様子が一変、あの新月の夜からユージーンが自分に向ける何かが変わってしまった。もしかしたら、あの獣姿になった時点で、違う誰かと入れ替わってしまったのではないか。
(……)
適当に考えた案だったが、ふと不安になりしばらく沈黙する。どうしよう。本当に別人だったら。
(……確かめてみよう)
がばりと体を起こし、寝巻用のドレス姿でそっと廊下に出る。つきあたりの部屋に向かうと控えめにノックをした。
「ああ」
返事が来た。メイベルはそれにすら感動を覚えながら、言われるままに彼の部屋へと足を踏み入れる。本棚は綺麗に整頓され、雑多に置かれていた資材も今は種類ごとに分けられている。
奥の部屋から明かりが漏れており、メイベルはそちらへと顔をのぞかせた。
「どうした? こんな時間に」
ユージーンはメイベルの方を振り向いた。どうやら机でいつものように読書をしていたらしい。これまでメイベルが呼んでも決して振り返らなかったのに、今はこうして二人で向き合っている。これはもう別人説が強い。
「あ、あの、ちょっと確かめたいことがありまして……」
彼が偽物にすり替わっているとすれば、本当の彼を探す必要がある。メイベルは思わず息を飲み、言葉を続けた。
「仮面を、取ってもらえませんか」
わずかな沈黙が落ちた。メイベルはしまった、と口を開きかける。
(顔を見れば、別人かどうかわかると思ったけど、……よく考えたら簡単に見せるはずがないわ!)
別人がメイベルを騙そうとしているのであればなおさらだ。なんて馬鹿なことを言ってしまったのか、と苦悩するメイベルだったが、ユージーンはそんなメイベルの思いとは裏腹に、ああと答えると快諾した。
「かまわない」
「そうですよね、やっぱり…… えっ?」
メイベルの言葉を待たずして、ユージーンは自分の仮面に手を伸ばした。慣れた様子で耳元の固定を外すと、かぱりと顔から浮き上がらせる。そのまま仮面を机に置くと、再びメイベルの方を見た。
「これでいいか?」
「え、あの、は、はい……」
そこに現れたのは、以前看病の時に見たあの美しい顔だった。
ただあの時とは異なり、今はその目がはっきりと開かれている。色は琥珀を研磨したような、綺麗な金色。仮面越しではよく見えなかったが、正面から見るとまさに吸い込まれそうな瞳だ。その少し長い前髪の隙間から、彼は静かにメイベルを見ていた。