第五章 6
――ユージーンは、早朝の冷たい風で目を覚ました。
瞼を押し上げると、開け放たれたバルコニーの窓が見える。
窓の一部は割れ、その下には細かなガラス片が散らばっていた。視線を落とすと、人のものに戻った自身の手がある。軽く握って開いてを繰り返し、そのまま自分の体を見た。
変化が始まった時点で服は破れていたため、当然裸である。
だがその体には古ぼけた分厚いカーテンが巻かれていた。それ越しに自身の腕に手を添える、一人の少女の姿。
(……こいつ)
素顔を見られた時、惚れられるという現象。
これはいわば「見たものの心を掴む」という魔法が自動発生している状態だ。だが棺の新月の時は力が暴走するため、当然その魔法もリミットが外れる。
具体的には心臓が止まる。
この獣の姿を見たものは必ず死ぬと言われていた。
だから魔術師は棺の新月の間、誰も傍に近寄らせない。
ユージーンも部屋に鍵をかけて、なんとか耐え抜くつもりだった。今までもそうして無理やり耐えてきたはずだった。
寄りかかるようにしてすうすうと眠るメイベルを見ながら、ユージーンは眉を寄せた。一晩中こうして彼の体を撫でていたから、疲れてしまったのだろう。
(どうして、死なない?)
自分の素顔を見ても、ロウの素顔を見ても魅了されなかった。
それどころか棺の新月で変化したこの姿を見ても、まだ平然と生きている。
(この姿の僕を、――)
ユージーンはそっとメイベルに手を伸ばした。邪魔になっている髪をそうっとどける。
するとメイベルはんん、と短く声を上げた。
慌てて手を引っ込めたが、メイベルは起きることなく、むにゃむにゃと口元をゆがめると、気持ちよさそうにまた眠ってしまった。
ユージーンはほっとしたように息を吐く。よく見るとメイベルの頬に赤い切り傷が一筋ついており、彼はしばらく思考を巡らせていた。
(僕が付けたのか……)
獣になっている間の記憶は、かなりおぼろげだ。
獣姿になるといつも襲われるひどい頭痛。
のたうちまわりながら苦しんでいた時、突然窓が開き、カーテンが翻った。
くすんだ白色の布が、誰かの人影をうつす。
こんなところに人が来るはずがないと、惨めに床にひれ伏したままそちらを見た。
そこには満天の星が美しい藍色の空と、不安げに揺れる緑色の目があった。
柔らかそうな茶色の髪がさらさらと靡いて、泣きそうな顔なのにその表情はどこか必死で。
――ああ、なんてきれいな、と。
棺の新月に堕ちている時、人らしい感情を思い出すことなど今までなかった。ただひたすら与えられる苦痛に一人で耐え続けるしかなかった。
それがあの一瞬だけ、意識が戻ったのだ。
まるで雷に打たれたかのように。
すぐに頭痛が戻ってきて、ユージーンは再び歯を食いしばった。
だが薄れていく意識の中で、彼女を近づけてはいけないという思いだけはあった。
殺したくない、とただそれだけだった。
しかし彼女はひどい言葉を何度もかけられたのにも関わらず、ユージーンの傍に来た。
恐ろしい爪や外見に逃げ出すことなく、隣で一晩中背中を撫でてくれた。
そうされている間、あの脳を締め上げるような痛みが少しずつ引いていくような気がした。
(こんな、小さくて、脆い生き物なのに)
自分をずっと労わってくれたメイベルをじっと見つめる。
ユージーンはメイベルを起こさないように慎重に這い出すと、クローゼットに入っていた服を取り出して急いで着替えた。そのまま床で眠っていたメイベルの体の下に手を差し込むと、横向きに抱きかかえる。
ここまでしてもまだ起きないらしい。呆れたユージーンがメイベルを見ると、彼女は楽しい夢でも見ているのか、ふふと笑ってユージーンの胸板に顔を寄せた。その仕草にユージーンの頬に朱が走る。
どうやら、魅了の魔法はユージーンへ跳ね返ってしまったらしい。