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第五章 5


「……ユージーン様?」


 『それ』は黒い塊のようだった。


 だがよく見ると、長く黒い毛が密に生えそろったものだと分かる。その体はなだらかに隆起し、人の呼吸のように定期的に小さく上下していた。かなり大きく、何の動物か全くわからない。


「……見るな……」


 メイベルが目を凝らすと、胴体から長く伸びる四本の脚が見えた。獣のそれのようだが、そのつま先にはあり得ないほど鋭い爪が伸びている。

 恐々と、頭があるであろう位置に視線を動かす。すると突然『それ』の目に捕らわれた。

 射殺されそうなほど鋭い視線は金色で、目の中心にある黒い瞳孔は糸のように細くなっていた。メイベルが瞬きする合間に、『それ』は一瞬で体を起こし部屋の奥へと逃げる。


(なんなの、あれ)


 『それ』が息をするたび、黒い毛が細かく震え、ヴヴゥという声が漏れていた。ずっと聞こえていた音は、この獣が呼吸をする音だったようだ。

 今は本棚の前で、ユージーンが愛用している毛布を身に絡め、大きな体を限界にまで縮めている。時折震えるように呼気を吐いている姿は、怒っているというよりは怯えているという方がしっくりときた。


「ユージーン様、ですよね」


 室内に他に人の姿はない。

 メイベルが問いかけると、『それ』は先ほどよりも崩れた声で答えた。


「ああ、……そうだ、僕だ……」


 『それ』が確かにそう発したことで、メイベルは少しだけ安堵した。

 間違いなくあれはユージーンだ。だがこの姿は一体どういうことだろう。


「どうして、そんな姿に?」

「……新月だ」


 メイベルは思わず息を飲んだ。


「二年に一度、『棺の新月』がある。今日がちょうどそれだ」


 ユージーンは毛布にうずまるようにずっとうつむいていた。今も苦しそうに息を吐きだしているが、徐々にその速度が上がっている。


「その夜だけ、僕らは姿が変わる。こんな、――ァ、あああ!」


 最後の方は絞り出すように言い、ユージーンはそのまま大きな叫び声をあげた。毛布を引きちぎる勢いで、ドン、ドンと何度も頭を床にぶつけている。

 突然の行動にメイベルは慌てて駆け寄ろうとするが、目の前を走った強い風に足を止めた。


 目の下に違和感を覚え、メイベルは自分の頬に指を添わせる。

ぬるりとした血が付き、それをみたメイベルは目を見張った。ユージーンの爪がこちらを向いており、おそらくこちらに向けて振るわれたのだろう。


「近づくな! くるな、来るな……来ないでくれ……」


 そう言いながらユージーンは再び頭を抱えて縮こまった。その姿にメイベルはどうしたらいいのかわからず立ち尽くす。


(どうしよう、でも、すごく苦しそうだし)


 その夜だけ、と言っていた。

 ということはこのまま一晩待てば、元のユージーンに戻るのではないだろうか。


 そう思って改めて獣の彼を見る。徐々に呼吸は荒くなっており、暴れる頻度も増している。家具や本にぶつかっている部分も多く、先ほどから頭を打ち付けているのも見ている。

 きっと、全身に酷い怪我をしているだろう。


(一晩……この状態で?)


 まだ夜が明けるまで数時間ある。とてもではないがこのまま過ごして、戻った彼の体が無事であるとは思えない。

 メイベルはごくりと覚悟を決めた。


 窓にかかっていたカーテンをむしり取ると、自身の体の前に広げる。

 かなり重量がある布なので、多少の衝撃ならこれで受けられるだろう。


「ユージーン様、ごめんなさい、少しだけ我慢して」


 獣は再び苦しみだし、したたかにテーブルに足をぶつけて倒れる。その隙をついてメイベルはカーテンの盾ごとユージーン目掛けて走り寄った。

 彼もそれに気づいたのか、ようやくうわ言のように言葉を発する。


「来るな、……くる、な」


 だがその言葉を聞き届ける前に、メイベルは彼の首元に飛び込んでいた。黒い毛は固くごわごわとしており、メイベルは必死になって鋭い爪を押さえた。そして叫ぶ。


「大丈夫だから!」


 びくり、と押さえていた爪が震えた。

 メイベルはそのまましっかりとユージーンを見る。彼は全身を毛布にうずめて、苦しそうに呼吸しながら体を上下させていた。

 とりあえず爪を封じたのはいいものの、これからどうしよう、と思いながらとりあえずその背中を撫でてみる。


「どこが痛い? 息は?」

「……どうして」


 ユージーンの声はかなり聞き取りづらくなっており、メイベルはもう一方の手を毛布に添わせた。そっとそれをずらして彼の顔を見る。


 狼のように長く伸びた鼻筋。

 その下で裂けように開かれた口からは、何本もの鋭い歯がのぞいていた。メイベルは思わず声をあげそうになるが、ここで悲鳴を上げてしまったら、きっと彼は逃げてしまうと必死に飲み込む。

 先ほどはよくわからなかったが、その目はアーモンド形の綺麗な金色。メイベルはそれに吸い込まれそうな感覚を覚えたが、途端に胸に小さな痛みが走り、意識を自分へと取り戻す。


「大丈夫。朝まで傍にいるから」


 ユージーンはメイベルの目を見たかと思うと、弓なりに眼を眇めた。苦しそうな呼吸の合間、途切れ途切れに彼の言葉が零れ落ちる。


「あたまが、いたい……」

「頭?」


 とりあえず額と思われる場所に手を添わせる。特に熱はない。外傷からの痛みかとも思ったが、何度も頭をぶつける動きを見る限り、内部からの痛みのようだ。

 仕方なくそのまま何度か手を上下させてゆっくりと撫でた。これで治るとは思えないが、しないよりはましだ。


「どうかしら、少しは違うと良いんだけれど……」

「……」


 相変わらずユージーンの呼吸は不規則で荒かったが、返事がないところを見ると痛みが増しているわけではないようだ。メイベルは続けてその肩や背中も撫でさすっていく。


(もしかしたら、体が冷えているのかも)


 体の端が冷えると、頭に痛みが出ることがある。持ってきたカーテンを彼の体にかぶせ、そのまま懸命に体を撫で続けた。

 すると少し楽になったのか、ユージーンの息が小さくなった。見ると金色の目は閉じられ、疲れ切ったように横たわっている。


 再びよしよしとメイベルは獣の頭を撫でる。

 よかった、少し楽になってきたようだ。

 

 そうしてメイベルはそのまま、夜が明けるまで彼の体をさすり続けていた。


 

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