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第五章 4


 その日は朝からあまり天気が良くなかった。


「……ちょっと厳しいかな」


 籠にたまった洗濯物を見つめ、メイベルは視線を空へと向ける。そのまま今日の洗濯を諦めて、おとなしく厨房に戻った。

 手慣れた様子で、メイベルは淡々と家事をこなしていく。ようやくここでの生活にも慣れたのか、部屋の掃除に夕食の仕込み、洋服のアイロンがけなどが次々と終了していた。


 気づけば夜になり、メイベルはユージーンの部屋の前へと足を進める。

 少し前に置いた食器が空になったのを見て、少し嬉しそうに持ち上げた。それを運びながらメイベルは廊下の窓から外を眺める。

 すっかり日が落ち、空は藍色に染まっていた。瞬くような星がいくつか浮かんでおり、メイベルはそれらをじっと見つめる。

 なんだか今日は星が良く見える、と思った後で今日が新月の暦だったことを思い出した。


「新月……」


 思わずつぶやいた後で、数日前に来たもう一人の魔術師の言葉が頭をよぎる。だが考えたところでわかるわけもない、とメイベルはそのまま一階の厨房へと向かった。

 食器を水につけ、明日のパンの仕込みをする。厨房のあらかたを片付け、メイベルはようやく自室へと戻った。今日も一日よく働いたと自分を褒め、就寝時用の簡素な生成りのドレスに着替える。

 これも自分の城で着ていたら怒られるレベルだが、ここではうるさく言う人もいない。

 丁寧に髪をとかし、毛布をめくって体を横たえる。心地よい疲れがあり、今日もぐっすりと眠れそうだ。


(おやすみなさい……)


 メイベルはそうしていつものように眠りについた。







 ――ヴヴ、ヴヴゥ。


「――?」


 メイベルは奇妙な音で目を覚ました。最初はベッドに入ったままだったが、その音が鳴りやまないのを確認すると、ゆっくりと体を起こす。


 ヴヴゥ、ヴヴゥ。


「……何の音?」


 何かが震えているような、動物の鳴き声のような。だが今まで聞いたことのないその音に、メイベルは窺うように耳を澄ました。音は小さく、断続的に続いている。

 そっと靴を床に降ろし、簡単な羽織物を肩にかけると、そっと扉の近くに足を進めた。息を殺して様子をうかがう。どうやら音は部屋の外からしているようだ。

 きいと音を立てて扉を開く。廊下に出るとそこには窓ガラス越しに美しい夜空が広がっていた。月がない代わりに、小粒のダイヤモンドのような星々がいくつも輝いている。


 メイベルはその美しさに少しだけ感動した後で、更に耳を澄ませた。音が近づいたような感覚があり、そちらに向けて歩いていく。どうやら一階ではなく、この廊下の先からしているようだ。


「……ユージーン、……?」


 恐る恐る歩いていくと、突き当りにあるユージーンの自室へとたどり着いた。恐々と扉に耳をくっつけると、確かにその向こうからあの音が聞こえてくる。

 心配になりノックをする。いつものごとく返事はなく、仕方なく取っ手に指を添えた。だが普段開け放しているはずのドアには、何故か鍵がかかっていた。何度かガチャガチャと回してみるが、開く気配がない。


「ユージーン様、大丈夫ですか?」


 メイベルは扉のこちら側から声をかけた。しかしユージーンの返事はなく、メイベルは何故か嫌な予感がこみあげてくる。一体何の音なのだろう。

 その時、突然ドンという重低音が床を伝って響き渡った。その振動に一瞬驚き、メイベルは更に扉を叩く。一体何が起きているというのか。


(ダメだわ、なんとかして中の様子を確認しないと……)


 だがここから入れる気配はなく、他の扉もない。と、そこまで考えたときにメイベルはユージーンの部屋にあるバルコニーを思い出した。確かすぐ傍に大きな木があったはずだ。


(窓からなら、中が見えるかもしれない)


 メイベルは急いで廊下を走り、階段を下ると玄関から飛び出す。そのままユージーンの部屋がある方向へと回り込むと、彼の部屋のバルコニーを探した。二階の突き当り、おそらくあれだ。

 見ればすぐ傍に立派な木が数本伸びていた。根元に駆け寄って木肌に手を触れる。太さも強さも十分にあり、メイベルが登っても大丈夫そうだ。一度だけ上を見上げ、こくりと息を飲む。


「い、いくわよ……」


 掃除洗濯は得意なメイベルだったが、正直なところ木登りは初体験だった。長女のガートルードがすいすい上ってしまうところを見たことはあるが、メイベルは精々それを下から見ていただけだった。

 だがここで何もせずにいて、取り返しがつかないことになっても夢見が悪い。メイベルは長く息を吐くと、恐る恐る右手を一番下の枝へとかけた。


(お父様、お母様、ウィミィ、ごめんなさい……)


 誰もいない場所で本当に良かった、と自分の服装を見ながら心の中で謝罪する。しかし今は恥じらいよりも人の命だ。少しずつ慎重に左手、右足と順番にかけていき、なんとか登っていく。相変わらず震えるような音と、時折ズドンと響くような衝撃は続いており、メイベルは額に汗を浮かべながら必死に窓を目指した。


(あと、ちょっと……)


 左足を上げ、ようやくバルコニーの近くまで登りきる。はあはあと息を吐きながら、手すりを掴み、わずかな縁の部分に足をかけた。そのまま前転する勢いで、体ごとバルコニーへ転がり込む。


(こ、怖かった……!)


 まだ少し震えている足と収まらない拍動を抱えながら、恐る恐る窓に近づいた。そこにはカーテンがかかっており、中の様子は見えない。やはりこちらにも鍵がかかっており、メイベルは少しだけ考えたが、すぐに自分が履いていた靴を脱いだ。


(ごめんなさい、でも何が起きているか確かめないと)


 恐る恐る鍵の近くのガラスを叩く。最初は弱い力でしていたのだが、埒が明かず二度目、三度目は徐々に込める力が強まる。何度か打ち付けた後、自棄になったメイベルが力の限り叩きつけた時、ようやくガシャンとガラスが割れた。


「っ……あ、開いた……」


 急いで穴から手を伸ばし、裏側にある鍵を押し上げる。窓枠をずらすと、少しだけ開いた隙間から風が吸い込まれ、室内にカーテンが浮き上がった。メイベルは必死に目を凝らすが、部屋の中は真っ暗で何も見えない。


「ユージーン様?」


 一声かけ、メイベルが足を踏み入れる。すると怒号のような音が響いた。


「来るな!」


 思わずびくりと足を止める。驚くメイベルをよそに、それは続いた。


「絶対に来るな! 何も見るな! どっか行け!」


 それは確かにユージーンの声のようだったが、一方で奇妙なノイズのようにも聞こえた。正確には濁っているというか、彼の声以外に何かが混じっているかのような。


「ユージーン様、ですよね?」


 メイベルは出来るだけ静かに声をかけた。だがそれに返事はなく、仕方なく問いかけを続ける。


「大丈夫ですか? ずっと変な音がしていて、時々大きな音も……」


 暗闇の中、手を前に伸ばしながら足を進める。だが割れたガラスを踏んだ瞬間、再びユージーンの叫びが飛んできた。


「だから! 来るな! なんなんだよお前!」


 その時、メイベルは絶句した。きゅう、と締め付けられるように胸が痛む。

 ――本に埋め尽くされた彼の部屋、その中心に『それ』はいた。



 

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