第四章 4
「あ、あの、私、空を」
メイベルが混乱するのにも構わず、ユージーンは再びばさりと音を立てて羽ばたいた。
高度がわずかに上がり、メイベルは変な浮遊感に胃の中が気持ち悪くなる。
だがここで落とされては大変だと、出来る限り大人しく堪えていた。
少しだけ気分も落ち着き、ちらと離れていく森の方を見る。随分と小さくなった狼たちの姿があり、メイベルは改めて夢ではなかったと背を震わせた。
「……どうしてシャドウの狗がいるんだ」
「ユージーン様?」
わずかな呟きが聞こえた気がして、名前を呼んでみたが、届かなかったのか返事はない。
仕方なく落とされないようにしがみついておく。
見る見るうちに城が近づいてきたかと思うと、二階のユージーンの部屋へと高度を下げていく。
そこには大きなバルコニーが待ち受けており、彼は慣れた様子でその手摺に靴底を掛けると、二三歩歩いて着地した。
無言のまま下ろされたメイベルは、ふらつく足を正すとユージーンに向き直る。
「あ、あの、ありがとうございました」
「別に。森の結界が破られたから行っただけだ」
「けっかい?」
メイベルはそう聞きながら、目は白い翼にくぎ付けになっていた。
黒いコートの隙間から伸びる白い羽。先ほどまでは左右に大きく広げられていたが、今は小さく畳まれている。
「あの森は僕が許した者以外が入ると、惑わせる仕組みになっているんだ」
それを聞きながら、メイベルはうん? と首を傾げた。
「惑うとどうなるんですか?」
「ここまでたどり着けず、来た場所に戻る」
メイベルは更に疑問符を浮かべた。
メイベルがここに来た時は、ユージーンの許可などなかったはずだ。
だがメイベルは大変な思いをしながらではあったが、ここまで到着した。
「あの、私普通にここに来たんですけど……」
その言葉にユージーンは、じっと仮面越しにメイベルを睨んだ。
「……だから最初に言っただろ。どうやって森を抜けたと」
そういえば言われたような気もする。
「理由は分からないが、顔のことといい、僕の魔法はお前に効かないのかもしれないな」
「は、はあ」
いまいち腑に落ちないメイベルを残し、ユージーンは肩にかかっていた白い翼を、指先でとんと叩いた。途端に羽は白い光の粒に分解され、空へと混じっていく。どうやらあの翼も魔法によるものだったようだ。
「それで? どうしてあんな場所にいた」
「あ、あの、それは」
再び睨まれている気がして、メイベルはごくりと息を飲んだ。こっそり準備して驚かせるつもりだったのだが、命の危機を助けてもらった以上、ごまかすのも気が引ける。
「あの、実は、苺を取りに行っていました」
おずおずと鞄から麻袋を出し、袋の口を開いて見せる。ユージーンはそれをのぞき込むと、呆れたようにため息をついた。
「くだらない。そんなもの出入りの商人に頼めばいいだろう」
「セロも忙しそうだったし、近くだし行けるかなと」
「命を懸けるほど好きなのか?」
ふん、と馬鹿にしたような笑みが聞こえる。メイベルは言うべきか迷ったが、聞こえるか聞こえないかという小さな声で呟いた。
「あなたが好きだって聞いたから……」
言った後で、なんだか恥ずかしくなって、メイベルは思わずうつむいた。
また馬鹿にされる、と覚悟していたのだが、何故かユージーンの声は聞こえてこない。
疑問に思って顔を上げると、口を半端に開けたユージーンの顔があった。
「……は?」
乱暴な返事とは裏腹に、ユージーンの首から仮面に向けて、徐々に赤く染まっていくのが分かった。メイベルはきょとんとしたまま二三度瞬く。
そんなメイベルを残して、ユージーンは踵を返し、足早に部屋に向かって歩いていく。
「あ、あの、嫌いでした?」
「知らん!」
そのままユージーンは室内へと戻ってしまった。メイベルは苺を持ったままぽつんとバルコニーに取り残されてしまう。
(……とりあえず、食後のデザートに出してみようかしら)
大事に苺を鞄にしまい、夕飯を何にしようかと考える。
サラダに入れてもいいし、アイスクリームに添えてもいい。ユージーンはどんな食べ方が好きだろう。そんなことを考えていると、メイベルはふとユージーンに抱き上げられていた感触を思い出した。
強く掴まれていた右腕にそっと自身の手を重ねてみる。ぬくもりはとうに無くなっているが、手袋越しの手は力強かった。
(……わざわざ助けてくれたんだわ)
元々勝手に押し掛けているメイベルである。
言ってしまえばたかがメイド一人、崖に落ちたところでユージーンが助ける義理はない。正直ここに滞在している間、何かあっても放置されるものだと思っていた。
でも助けてくれた。あのしっかりとした腕で。
彼は周囲の人が考えるほど冷たくもなければ、人嫌いという訳でもないのかもしれない。
そう思うとメイベルはなんだか少しだけ、心の奥が温かくなったような気がした。
(それにしても男の人って、すごく力が強いのね。体もしっかりしてたし……)
初めて空を飛ぶ感覚にも驚いたが、男性に抱き留められたのも初めてだ。
なんだろう、心臓がどきどきする。狼から逃げられてほっとしているのか、ようやく助かったことを実感しているのか。
「……私、どうしたのかしら」
メイベルは何故か頬が熱い、とぴしぴしと手のひらで叩いた。