01
「おはようございます、よく眠れましたか?」
女性にしてはやや低めの声がライラの耳元に届く。目を開け、がばりと身を起せば煉瓦色の服に白い前掛けを身に纏った年配の女性がベッドの傍らに立っていた。
銀に近い白い髪はきっちりと後ろでまとめ上げられ、たるみのひとつもない。逆に顔に刻まれた皺の数は彼女の年齢をしっかりと物語っていた。
「あの」
「マーシャ・ブラオンです。陛下から貴女の身も周りのお世話を仰せつかりました。瞳の件も聞いております」
ライラは慌てて手櫛で髪を整えながらマーシャに向き直る。
「すみません。どうぞよろしくお願いいたします」
「ご安心ください。私はこれでも陛下が赤子の頃からお世話をしてきた身でもありです。どうぞ心を許し、なにかありましたら遠慮なく仰ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
マーシャはあまり感情が顔に出ないタイプだった。口調も一本調子で厳しい印象を与える。しかし、かけられた言葉に嘘はないのが伝わってきてライラは口元をわずかに綻ばせた。
「さっそくですが、まずは朝食にしましょう。お召し物も合わせないとなりませんし、髪も整えねばなりませんね。急かすようで申し訳ありませんが、バルシュハイト元帥がいらっしゃるまでに支度を済ませるよう言われておりますので」
そういえば城の中を案内すると言っていたのを思い出す。結婚する相手だというのに、スヴェンに会うのがライラは少しだけ怖かった。また、あの冷たい瞳を向けられたらと思うと胸が苦しくなる。
ライラの気持ちなど知る由もなくマーシャは手際よくベッドにテーブルをセットし、朝食の準備を始めた。
いい香りがライラの空腹を刺激する。ふわふわのスクランブルエッグにカリッと焼けたベーコンにまずは目を奪われた。
広大な土地を持つアルント王国には自然も多く、食糧には恵まれていた。人々は穀物や野菜などを自分たちで育て、生計を立てていたりする。
近所に赤子が生まれたら鶏を二匹潰し、皆で祝うという習わしもあるほどだ。
王家管轄の土地でも移動用の馬をはじめ、食用のためにも多くの家畜を育てている。
食事を済ませ片付けた後、マーシャはあれこれと持ってきた服をライラに宛がっていく。最終的にはライラの好みもあり、彼女が身を包んだのは菫色の控えめなドレスだった。
普段着用とはいえ刺繍などの飾りは必要最低限、丈は足元まで覆うほどの長さがある。長袖のため肌の露出は極力なく、どちらかといえば地味な印象だ。
マーシャはライラを鏡台の前に座らせると、絡みのないまっすぐな髪を軽く梳かしていく。そしてざっくばらんに切られたライラの右側の髪に鋏を入れ、不自然にならない程度に丁寧に整え直していった。
切った方に長さを合わせ左側も切ろうとすると一苦労なので、とりあえずの救済処置だ。
「洋裁は昔から得意ですから。私の裁つ布地にはいつも一寸の狂いもありません」
自信あふれる言葉通り、マーシャの鋏さばきは見事なものでライラは思わず見惚れてしまう。
気持ち的に長さの揃った右側がさらに軽くなった気がした。基本的に左側は髪で瞳を覆い隠すようにしているので、対比さもあるのだろう。
身支度をすべて終え、ほっと一息ついたところで部屋にノック音が響いた。ライラはとっさに背筋を正す。マーシャがドアを開けると、ライラの予想通りの人物が顔を出した。
「支度はすんだか?」
「は、はい」
椅子から立ち上がり、ライラは敬礼しそうな勢いで答えた。現れたのはスヴェンで、マントはしていないものの昨日と同じ赤と黒の団服を着ている。その表情はやはり愛想の欠片もなく冷たい。
スヴェンはライラの元まで歩み寄ると机の上に紙とペンを置いた。
「これに署名を」
端的な物言いに、慌ててライラは書類の内容を確認する。『結婚宣誓書』の文字が目に入った。
この国では、定められた形式に添って作成した宣誓書に結婚する二人の名を直筆で記して、最後に国王の承認を受ければ婚姻関係が認められる。
民衆の間では、結婚してから一ヵ月ほどこの誓約書を家の前に貼りだすのが通例だった。
「字は書けるんだろ?」
早くしろと言わんばかりの口調。昨夜確認をされたのを思い出し、ライラはぎこちなく頷きペンを取った。用紙は国への提出用と自分たちの保管用にと二枚ある。
ここに名前を書けば、国王がサインすれば、自分はこの男の妻となってしまう。切羽詰まったものも悲観めいたものもなにもない。所詮、別れる時も同じ手順だ。
ただ現実味だけが湧かないままライラはペンを走らせた。自分の名前を書くのはいつぶりか、緊張しながらも丁寧に名を記す。
ペンを受け取ったスヴェンはライラとは対照的に、なんの躊躇いもなくひと続きでさらりと自分の名を書いた。
そして紙を待機していたマーシャに差し出す。
「これを頼む」
「はいはい。きちんと届けて参りますよ」
面倒くさそうではあるが、断る選択肢など彼女にはない。マーシャは書類にざっと目を通し、一礼すると部屋を後にした。
「城の中を案内する、ついてこい」
ふたりになった、と意識する間もなくスヴェンに促され、ライラは言われるがまま身ひとつでスヴェンについていく。
部屋の外に出ると、城の廊下は昨日とは違った印象を与えた。つけられた窓はどれも高い位置にあり、そこから降り注ぐ太陽光を内部で上手く反射させ明るさを保っている。
磨かれた床は、壁と同様明るい色で外からの光を受けて輝いていた。辺りをきょろきょろ見渡すが、城の広さなどライラには皆目見当がつかない。
中庭をぐるっと囲むようにして建てられた構造上、王の主な活動場所となる執務室や謁見の間などは城門から最奥に置かれている。ライラの使っている客間は比較的王の部屋の近くにあった。
他にも使用人たちの居住空間や食堂、大広間などいくつもの用途を目的とした部屋がある。そういった説明をスヴェンが淡々と口にするが、そこには余計な会話も情報も一切ない。
「改めて紹介したい連中がいる」
やっと話題を振られ、ライラはスヴェンを見る。連れて来られたのはアルノー夜警団、正確にはアードラーに宛がわれた部屋だった。
木製のドアをノックし、中からの返事を待たずしてスヴェンは扉を開けた。
「連れて来たぞ」
スヴェンに続いてライラも中に入る。机に向かって書類に目を通しながら、正面に立つセシリアと会話をしていたルディガーが視線を寄越した。
セシリアの目も同じように向けられる。ふたりとも団服をきっちりと着こなしていて職務中だった。
「昨日はお世話になりました。改めまして、ライラ・ルーナと申します」
先に挨拶したライラに、ルディガーは立ち上がって笑った。
「昨日は突然驚いただろ。調子はどうかな? よく眠れたかい?」
「はい」
ライラの元まで歩み寄ると、ルディガーは胸に手を当て軽く頭を下げた。
「名乗るのが遅くなって悪かったね。俺はルディガー・エルンスト。スヴェンと同じアードラーを務めているんだ。こちらは副官のセシリア」
ルディガーの言葉と目線を受け、上官から一歩下がった位置でセシリアが静かに口を開いた。
「セシリア・トロイと申します。アルノー夜警団に所属し、エルンスト元帥の副官をしています。事情は少し聞きました、いろいろと大変でしたね」
抑揚はあまりないが労わる口調のセシリアに、ルディガーはさっと近づくとわざとらしく彼女の肩に手を乗せた。
「セシリアは頭も切れるし気も利く。同じ女性だし、なにかあれば彼女に相談すればいい。もちろん俺たちでも大歓迎だ」
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
事情を知っているルディガーとセシリアの存在にライラは少しだけ気持ちを浮上させる。しかしスヴェンから釘をさすように先を続けられた。
「お前の瞳の色とフューリエンに関する事実は、アルノー夜警団では俺達しか知らない。基本、城の中は安全だろうがあまり不用意に出歩いたり、一人にならないように心掛けておけ」
「おい、スヴェン。そんな押し付けるような言い方するなよ」
「面倒事を増やされるのは御免だ」
ルディガーのフォローをあっさりと切り捨て、さっさと部屋を後にしようとするスヴェンにライラも倣う。
ルディガーとセシリアがなにかの作業か、仕事中だった。長居は無用だ。軽く挨拶を告げ部屋を出る。