03
まずは呼吸を整え、頭を切り替える。そして袖口に潜ませていた小さな短剣の存在を思い出した。
手首を必死に動かし、なんとか手中に収める。縄で縛られている箇所が動かすたびに擦れて痛むが、ライラは必死に刃をロープに当てた。
その間も、冷静な思考で状況を把握していく。
ユルゲンが『説得は僕の家で』と言っていたのを考えると、きっとここはまだ城の中だ。扉が閉まった後、しばらく彼の足音が響いていた。
おそらく階段を下りていったのだろう。とすれば高い位置だ。ここは城の尖塔にある部屋のひとつなのかもしれない。
まだ望みはある。手のしびれを感じながら、ライラの額にはじんわりと汗が滲んでいた。でも休む暇もない。
手首も指先も、肩さえ痛むが、ライラは諦めずに刃を懸命に動かし続けた。そしてざっと刃切れのいい音がしたと思えば、ライラの手首は解放された。
ゆっくりと立ち上がるとロープがはらりと落ちる。安堵の息を漏らし、ライラは手首をほぐす。続いて、脱出の方法を考えた。
叫ぶのは無謀そうだし、ユルゲンに気づかれても困る。
窓はライラの腕ひとつ通るほどの小ささだ。窓から伸びる影が長く、日が傾いているのがわかる。動くなら明るいうちだ。
『いいか。使う必要がないのを願うが、どうしても自分の身に危険が迫ったら迷わなくていい。ただし自分を傷つける真似はするなよ』
スヴェンの言葉が蘇る。この短剣を使えば、少しは相手の隙をつけるだろうか。ユルゲンに鋭い剣先を向けることを想像して、ライラは身震いした。
柄をぎゅっと握り、鏡のごとく研ぎ澄まされた刃を見つめる。
そのとき扉が音を立てるのでライラは体を強張らせ、意識をそちらに集中させる。ややあって扉が開き、ユルゲンが顔を出した。ライラはとっさに壁に背を預けて後ろ手にナイフを隠す。
「お待たせしました。手筈が整ったので、あなたにはもっと長くて深い眠りについてもらいましょう」
ユルゲンはなにかを染み込ませた布を取り出し、妖しく笑う。そして一歩ライラに近づいた。
「あなたはフューリエンとして自分の価値を自覚するべきだ。その髪ひと房で豪邸が建つんですよ」
ライラは大きく目を見張る。様々な記憶と思いが交錯し、辿るように視線を落とした。しばらくして、ライラは不意に口を開く。
「……いらないんです、そういうの」
小さく呟かれた言葉をはっきりと聞き取れず、ユルゲンは顔をしかめた。
ライラは後ろ手に持っていたナイフを前に持ってくる。彼女が刃物を所持しているとは思っていなかったユルゲンに、動揺が走った。
ライラは顔を上げ、まっすぐに彼を見つめる。その瞳にもう迷いはない。
ナイフを持った右手を振り上げると、続けて彼女が刃先を持っていったのは目の前に男に対してではなかった。
左手で自分の長い髪を束ね、頭と手の間に剣を滑らせる。するとザッザッと擦れる音と共にライラの栗色の髪は束となって左手に収まった。
『他人に揺るがすことはできない確固たるものは、自分で得るしかないんだ』
あの人が、教えてくれたから……。
続けてライラは唯一の小さな窓に髪を持ったままの左手を伸ばし奥に突きだす。指の力を抜き手を離して、髪を外へと飛ばした。
「自分の価値は自分で作るの」
自分に対する宣誓だった。自由に放たれた髪は風に乗るものもあるが、いくらかは重力に従いまとまって下へと落ちていく。
誰か、誰か気づいて!……スヴェン、私はここにいるの!
「なんてことを!」
ユルゲンは顔面蒼白でライラに詰め寄ってきた。長かったライラの髪は、今や肩先でざっくばらんな切り口が揺れている。
「とにかく、その剣を渡すんだ」
「嫌! 私はあなたのものにはならない」
狭い部屋の中で壁に沿ってライラはユルゲンから逃げる。
「抵抗しても無駄ですよ」
ライラは壁伝いに部屋の中を行ったり来たりするばかりだ。勝敗の見えている鬼ごっこにユルゲンはとくに慌てる様子でもない。
むしろ面白がってライラを追い詰めるように一定の距離を保ちながら後を追う。それをどれくらい続けたのか。
「いい加減、疲れたでしょう。そろそろ終わりにしましょう」
ユルゲンが一歩踏み出し、ライラとの距離をさらに縮めたときだった。突然ライラは、背をつけていた壁から前へ飛び出す。
ユルゲンがドアから離れるタイミングをずっと見計らっていて、このときを待っていたのだ。
部屋の中に入ってきた際、彼は鍵をかける素振りを見せなかった。不意を突いてユルゲンの横をすり抜け、ドアに手を伸ばす。
ライラの予想通り、ドアは外からしか鍵をかけれず、木製の古びたドアは簡単に動いた。勢いよく押して、向こう側の空気が隙間から流れ込んだ瞬間、ライラは肩を掴まれ、力強く後ろに引かれた。
思わず体勢を崩し、冷たい床に投げ飛ばされる。力の限りの衝撃を受け、痛みに顔をしかめる間もなく、ユルゲンが上に覆いかぶさってきた。
ライラの細い腕を掴み、右手のナイフを取り上げようとする。
「離して!」
「まったく。手荒な真似はしたくないんですが」
いくらユルゲンが細身とはいえ、男女の体格と力の差は歴然だった。ライラは必死で抵抗するも、ほとんど意味をなさない。
ライラの両腕をあっさりとユルゲンは片手で締め上げた。縄で縛られていた箇所は、無遠慮に扱われさらに悲鳴を上げる。
馬乗りされる形になりながらライラは必死で身を捩って足をばたつかせた。




