02
寒さと硬さを全身で受け、ライラはおもむろに目を開けた。薬で無理矢理意識を飛ばされたので、すっきりな目覚めとはいかない。意識も朦朧としている。
それでも体に力を入れ、よろよろと身を起こせば、頭が鉛のように重たく、思わず苦悶の表情を浮かべた。
手はうしろでひとまとめに縄で縛られており、自由がきかない。
ここは、どこなの?
恐怖に支配されそうになるのを抑え込み、必死に頭を回転させる。剥き出しの石畳はひんやりとした空気を伝え、部屋と呼ぶより物置に近い狭さだ。
閉塞感に息が詰まりそうになる。
ライラの下には高価そうな絨緞か敷かれている。色彩豊かで繊細な模様とふかふかな触り心地はなにかの動物の毛皮か。
この部屋とのアンバランスさに、自分と共に持ち込まれたものだと推測する。
窓と呼ぶには心許ない小さな穴からわずかに光が差し込む。部屋の中は暗いが、まだ日は沈んでいないようだ。立ち上がって窓を覗き込もうとしたライラだが、不意に部屋のドアが開かれた。
驚きで肩をすくめていると、ある人物が顔を出す。
「やぁ、お目覚めかな?」
にこやかな笑顔は、初めて会ったときと変わらない。しかし今は状況が状況だ。
「あなた……」
ライラは大きく目を見開いた。現れたのはユルゲン・フルヒトザーム。スヴェンの母方の従兄でライラとの面識は一度きりの男だ。
「ちょうど今、迎冬会のため多くの業者や荷物を抱え、貴族たちが城に出入りをしています。その隙をついて意識を失ったあなたを絨毯にくるみ、ここまで連れてきたんですよ」
種明かしに感心するつもりもない。それよりも先にライラはあることを思い出し声をあげた。
「マーシャは!?」
「心配しなくても、あれはあなたが嗅ぐ可能性も考慮していたので、数時間もすれば正常に戻りますよ」
安心していいのか。彼を信じてもいいのか。どっちみちライラはマーシャが心配でならない。ユルゲンはライラを見下ろし、わずかに眉尻を下げた。
「こんな粗末な部屋に申し訳ない。もう少し辛抱してもらえるとありがたいのですが」
「どうしてこんな真似を?」
ユルゲンの調子は軽やかだが、ライラは警戒心を露わにして尋ねる。ユルゲンは静かに微笑んだまま、ライラの元へ歩み寄るとそっと膝を折り視線を合わせた。
ライラは距離を取りたくて下がろうとするが、すぐ後ろは壁だ。背中に気を取られていると、不意にユルゲンの手がライラに伸ばされ、左目を隠している前髪を搔き上げた。
「やっ」
反射的にライラは顔を背け、目をつむる。しかしユルゲンは満足げに口角を上げた。
「片眼異色! しかも黄金色とは! やっぱり。あなたはフューリエンだったんですね」
彼の声に興奮が混じって一段と大きくなる。ライラは目いっぱい顔を背け、ユルゲンから視線を逸らすことしかできない。
「おかしいと思ったんだ。スヴェンが結婚なんて。ましてや孤児院出で身分も後ろ盾もなにもないあなたみたいな女性と」
ユルゲンの発言にライラはわずかに眉をひそめた。ユルゲンの勢いは止まらない。
「あなたについて少し調べさせてもらったんです。半信半疑でしたが本当にフューリエンとは。でもこれで納得だ、スヴェンが結婚したのにも。そりゃ誰も近づけたくないはずだ」
ライラは肯定も否定もせず、震える声で小さく尋ねた。
「……あなたの目的はなんなんですか?」
ライラの問いにユルゲンは妖しく笑う。
「端的に言います。スヴェンと別れて僕と結婚して欲しいんです」
あまりにも想定外の発言にライラの思考は停止した。ユルゲンは再び早口で捲し立てていく。
「彼はもう十分だ。実力も地位も申し分ない。そのうえフューリエンまでそばにおいて、これ以上なにを望むんだ」
苛立ちを含んだ言い方だった。ユルゲンをじっと見つめると、彼はライラと目を合わせ、唇で弧を描く。皮肉めいた表情だ。
「僕はね、母親にずっと彼と比べられて生きてきたんです。ありとあらゆる面でね。僕は体も弱く、幼い頃は外で走ることさえできなかった。その間に彼は剣の腕を磨き、今ではアードラーだ」
そこでライラは悟る。ユルゲンが欲しがっているのは、ライラ自身でもフューリエンでもない。
スヴェンと結婚している存在を自分のものにしたいだけだ。スヴェンから奪い取ることで溜飲を下げようとしている。
「それで、あなたは本当に満足なんですか?」
ライラが険しい顔で尋ねるが、ユルゲンは笑ったままだ。グレーの瞳が細められる。
「ええ。彼自身がどう思うのかは二の次だ。あなたと結婚すれば、少なくとも周りから見れば僕はあのアードラーのものを奪った存在になる。それがフューリエンならさらに鼻が高い」
そこでユルゲンの顔からふっと笑みが消え去った。不意に頬に手を伸ばしてきたので、ライラは抵抗しようと身をすくめる。
けれどユルゲンは強引にライラに触れて、目線を合わせた。
「スヴェンよりも僕の方が、あなたを必要としているんです。大事にしますし、ずっと愛して差し上げますよ」
言い終わってユルゲンは力強くライラを抱きしめた。一瞬でライラの体に嫌悪感が這い上がり、体を縮める。
「は、なして」
しかし抵抗しようにも腕が縛られているので、されるがままだ。ユルゲンはライラの耳元で言い聞かせるように囁いた。
「説得は僕の家でじっくりしましょうか。書類などはどうにでもなりますし。もう少しここで我慢していてくださいね」
言い終わりライラの額に口づける。ライラは目を伏せなにも言わない。ユルゲンが部屋から出ていき、重い錠のかかる音が部屋に響いた。
ひとり仄暗い部屋にライラはそのまま静かに倒れ込む。絨毯が敷かれているとはいえ、ほぼ床に直接身を置いている。空気も淀んでいて思考も鈍りそうだ。
私、どうなるの? 彼に連れ去られてしまったら……。
想像しては心臓が早鐘を打ちだし、不安の波が押し寄せてくる。
そもそも自分がいなくなったことさえ、まだ誰も気づいていないかもしれない。城でライラの存在は極力伏せられていた。
スヴェンたちも迎冬会の準備で忙しいだろう。マーシャは目が覚めただろうか、大丈夫だろうか。
あれこれ考え、ライラの思考はパニックに陥りそうだった。
どうしよう。どうしたらいいの?
結婚というのは本気だろうか。触れられただけで、背筋が粟立ち不快感しかなかった。けれど、このままさらわれてしまったら、と想像する。
ユルゲンも書類などどうにでもなると言っていた。実際に今、自分がしている結婚も書類上のものだ。
スヴェンはどう思うのかな。上手く説明されて、私が彼と結婚するってなったら……納得する? 肩の荷が下りたってホッとする?
スヴェンは……。
スヴェンの顔が頭を過ぎり、ライラの涙腺が緩みそうになった。
会いたい。まだ話したいことが、聞きたいことがあるのに。
切なくて、胸も痛む。じわじわと溺れたみたいに息が苦しい。その理由がライラにはようやく理解できた。
私、スヴェンのことが好きなんだ。
無愛想で冷たくて……でもいつも、なにげなくライラの背中を押してくれる。飾り気のない言葉はまっすぐに響いて、フューリエンだって特別扱いもしない。
彼といるときだけは、ライラは自分の境遇や立場などを忘れられた。触れられるのを自然と受け入れられる。幸せだと思える時間を久しぶりに与えられた。
『フューリエンとか瞳の色とか関係なく、私自身を見て好きになってくれる人を探すの。私ね、誰かの特別になりたい!』
自分で彼に告げた発言を思い出し、今更ながら心の中で訂正する。
誰か、じゃだめなの。あなたじゃないと。私、スヴェンの特別になりたかったんだ。
だから一生懸命になれた。
ひと筋の涙が目尻から滑り、ライラはがばりと身を起こして、気を取り直した。
落ち着け。しっかりしろ。




