04
スヴェンが異変に気づいたのは部屋に入ってすぐだった。
ここ最近のライラは、ソファに腰掛けお茶の準備でもしながらスヴェンの帰りを待つか、先にベッドに入って休んでいるかが定番だったのに、今はどちらにもその姿はない。
今日はルディガーたちにお茶を振る舞うと張り切っていたので、てっきり部屋に戻れば一目散に寄って来て、目を輝かせながらその報告をしてくるのだろうとスヴェンは予想していた。
目線を散らし、彼女を別の場所で見つける。
ライラは部屋には来ていたが、珍しくデュシェーズ・ブリゼで横になっていた。正確には丸まっているとでもいうのか。
頭からシーツを被り、その姿はよく見えない。
眠っているふうでもなく、部屋が耐えられないほど寒いわけでもない。あきらかに様子がおかしいのを感じ、スヴェンはおもむろに近づいた。
「どうした?」
スヴェンに声をかけられ、ライラの体がびくりと動く。ライラはのろのろと身を起こしたもののシーツを頭から被った状態で、足を乗り上げ座り込んでいる。
うつむいているのもあって顔は見えないが、胸元でシーツを抑える手に力が込められた。
「ライラ?」
名前を呼び、ぎこちなく頭のシーツを払うと、栗色の長い髪がさらりと落ちる。ライラはスヴェンの顔を見ずに、声を震わせて言葉を発した。
「あの、私……スヴェンに謝りたくて」
「謝る?」
訝し気な顔で彼女を見下ろす。ライラがなにを言おうとしているのかまったく予測もつかない。
ライラは一度大きく息を吸い込み、声を振り絞ろうと喉に力を込めた。
「ジュディスさんと……スヴェンの、こと。エルンスト元帥から聞いたの。私、勝手に色々勘違いしちゃって……」
スヴェンは大きく目を見開き、まさかの話題に息を呑んだ。
ライラは、頭の中で何度もリフレインしているルディガーの言葉を噛みしめる。
『温めるっていうのはそういう話じゃない。男女の睦事を指すのさ』
ここまで直接的な言われ方をしてわからないほど、ライラも子どもじゃない。けれど衝撃が大きすぎてうまく受け止められなかった。
誰が、誰と、なんの話なのか。からかわれたのかと思いたかった。けれど冷静に考えれば考えるほど、符号していく。
スヴェンは自分よりもずっと大人の男で、そういった関係の女性がいてもおかしくない。ましてやジュディスはすごく綺麗で艶っぽかった。
甘い香りを漂わせ、顔も、体も、雰囲気も男性が好みそうな女性だ。ライラとはなにもかも正反対だった。
比べる必要はまったくない。自分と彼女はスヴェンにとって、きっと立場も距離も全然違う。
納得して、想像して、胸が切られるように痛んだ。どうしてか涙が溢れそうになるのを必死に我慢する。
理由がはっきりしない感情に支配されるのが嫌で、でも確実に自分が傷ついているのはわかった。
そして、続けて自分の取った行動を振り返ると、ライラの顔色は青から赤に変わる。
『今日は私が温めてあげる。とりあえずベッドに先に入って温めておいたの! よかったら使って』
得意げに告げた自分の提案を思い出して、叫びそうになった。見当違いなのもいいところだ。
私、馬鹿みたい。
スヴェンに笑われた理由を、あのときは突き詰めなかった。それを自分なりに結論付けると答えはひとつしか見つからない。
きっと呆れられたんだ。
無下にされなかったのは、スヴェンの優しさなのか、あえて否定して本当のことを話すほどでもないと判断したのか。どっちみち空回っていたのには間違いない。
私の一方的な勘違いに、ずっと付き合わせていたんだ。
ライラは顔が上げられないまま、スヴェンに弱々しく尋ねる。
「ジュディスさんとは……恋人なの?」
「そんなのじゃない」
瞬時に否定されたうえ、あまりにもはっきりした口調に、逆にライラは動揺する。
「なら、スヴェンは……」
好きでもない人と、と言おうとしてライラは言葉を止めた。自分たちの関係も似たようなものだ。
好き合っている者同士でもないのに、同じベッドで寝て、スヴェンはライラに戯れのように口づける。それらをライラも受け入れていた。
すべては結婚しているという理由だけで。
スヴェンにとって、ライラが思うほどに一緒に寝るのもキスも特別なものじゃないと突き付けられた気がした。
スヴェンは先ほどからなにも言わず、沈黙が重く肩のしかかる。彼が今、なにを考えているのか想像もできないが、ライラはスヴェンに言わなければと決めていたことがあった。
一度、唇をきつく噛みしめ、声にしていく。
「あの……私たち、結婚はしているけど、事情があってで、しかもずっとの話じゃないし。だから、私を気にせず……彼女に会いに行って、いいから、ね」
ジュディスのやり方で自分はけっして彼を温められない。彼女の代わりにはなれない。だからライラはこう言うしかできなかった。
結婚しているからといって操を立ててもらう必要もないし、煩わしいとも思われたくない。
それなのにスヴェンに向けての発言が、突き刺さって自分に返ってくる。そして、ずっと口を閉ざしていたスヴェンがここにきておもむろに唇を動かした。
「……今は、お前がいるのにか?」
反射的にライラは顔を上げた。ここでライラは部屋に来て、初めてスヴェンの顔を瞳に映す。
整った顔を歪め、その表情は怒っているというよりもつらそうだ。ライラはスヴェンの言葉の意味を必死に咀嚼した。
スヴェンはライラの護衛のために結婚して共に夜を過ごし、こうしてそばにいる。だからライラが許可したところで、別の問題が発生するのに気づいた。
「えっと……エルンスト元帥もセシリアさんも忙しいなら……」
もし彼がジュディスに会いに行くなら、その間のライラの身はどうするのか。そういう話だと捉えた。
マーシャはだめだ。ただでさえ日中、ずっとそばにいてもらっている。
どうすればいいのか。どうしてスヴェンとジュディスが会うためにこんなにも懸命に案を巡らせないとならないのか。
本当は考えたくもない。けれどそれ以上にスヴェンの迷惑には、足枷にはなりたくない。
夜を共に過ごしてくれる人物。ライラが思いつくのは、もう残すところ一人しかいない。
「エリオットにお願いして、そばに……」
彼の名前をライラが口にした瞬間、スヴェンは反射的にライラの肩を掴み、背もたれに押し付けた。
「ふざけるなっ。そんな簡単に代わりがきくなら、なんのために結婚したんだ!」
今までにない激しい剣幕を見せられ、ライラは大きく目を見開いたまま固まる。
時を止める静寂。そして瞬きひとつしない左右で異なる色の瞳が揺れ、大粒の涙がとめどなく零れだした。
その姿にスヴェンは声を呑む。驚いたのは当の本人もだった。泣いていると自覚した刹那、ライラは慌てて下を向く。
涙を止めようと深く息を吸うが、うまくいかない。こんなふうに衝動的に泣くのはいつ以来なのか。
目に力を入れようとするも、涙は重力に従って勢いをますばかりだ。雨粒のように降って手元を濡らしていく。感情が抑えきれない。
「ごめ、ん、なさ……ごめっ……」
苦しくて、許しを乞うかのごとくライラは謝罪の言葉を口にする。
スヴェンの役に立ちたいと思っていた。事情があってでも、時間が限られているとしても、そばにいる間少しでも必要としてもらえたら嬉しい。
私、間違ってた。
それ以前に自分の存在が、国王陛下の命令とはいえ自分と結婚してしまったことが、彼を縛っているのだと痛感する。
早く泣き止まないと、と気だけ焦るが一度決壊した涙腺のコントロールは不可能だ。そちらに気を取られていると、不意に正面からスヴェンに抱きしめられた。
回された腕は痛いほど力強く、スヴェンの顔を確認するどころか息さえできない。ややあってスヴェンの声が耳元で響く。
「違う、違うんだ。お前は悪くない」
いつになく必死さを孕む声色なのが、余計にライラの胸を詰まらせる。
『お前が悪いわけじゃない』
……スヴェンはいつもそう言ってくれる。
スヴェンの優しさが今は痛い。この瞳のおかげで、散々自分を嫌いそうになった。けれど、自分の存在がここまで嫌になるのは初めてだ。
早く、早くこの瞳の色が消えてしまえばいい。そうすれば彼を自由にできるのに。
スヴェンはなにも言わずに、ただライラを抱きしめる。部屋には声にならない嗚咽だけがいつまでも響いていた。




