06
スヴェンはベッドに舞ったライラの髪に指を通すが、その動きはどこかぎこちない。そして彼女の顔を、左目を覆う前髪に手を伸ばしたとき、拒否するようにライラは顔を背けた。
「私……したことない」
ようやく喉の調子を整えたライラはぶっきらぼうに告げる。
「エリオットと。そもそもキスしたことない」
「は?」
エリオットからそのような発言を聞いたスヴェンとしては、矛盾するライラの主張が理解できない。
ライラはスヴェンの方を向くと、右側のエメラルドの瞳でスヴェンを力強く睨めつけた。
「あれは……キスといっても頬とかおでことか、そういうのだよ。言ったでしょ、彼は幼馴染みで家族なんだから。口にするのは特別なの!」
今度こそ怒りを露わにしたライラにスヴェンは気まずい気持ちになった。対するライラは、自分で発言した内容に改めて意識してしまい羞恥で再び顔を赤らめる。
守るようになにげなく両手で口元を覆った。
「初めてだったのに」
くぐもった声は責めるというより、恥ずかしさが滲んでいる。さすがに謝罪の言葉を口にしようとしたスヴェンだが、それより先にライラが続けた。
「……でも、嫌じゃなかった」
本音が意図せず漏れる。
あまりにも突然の出来事に、気が動転して受け入れることも拒むこともできなかった。とはいえ本気で嫌ならもっと必死に抵抗しただろうし、今もこんな冷静ではいられないと分析する。
自分の胸を覆うこの気持ちをはっきりと名付けたり、説明するのは難しい。簡単に一言で言い表せない複雑な感情がライラの中で渦巻いている。
「なぜ?」
ところが、ライラの心情などおかまいなしにスヴェンは突っついてくる。
「なぜって……そんなのわからないよ。スヴェンこそ、どうしてなの?」
彼はどういう気持ちだったのか、なにを考えていたのか。口づけてきた理由を知りたくて質問したが、スヴェンはあっさりとかわす。
「どうしてだろうな」
はぐらかしたスヴェンの返答に多少腹を立てつつライラは自分の気持ちも整理しながら、心の中で結論づける。
「スヴェンも……私のこと嫌いじゃない?」
ヴェンからからの口づけを嫌な気持ちにならずにいられたのは、彼を嫌いではないからだ。それだけははっきりと言える。
その論理でおそるおそる尋ねると、スヴェンは意表を突かれた顔をした後でわずかに目を細めた。
「そうだな」
「そっか……よかった」
肯定され、安堵の息を吐くのと共にライラは笑った。仮初めの関係とはいえ、嫌われるよりは嫌われていない方がいいに決まっている。
ライラの心は春の陽気のようにぽかぽかと温かくなり、満たされていた。スヴェンに嫌われていないという事実だけで頬が緩んでしまう。ずいぶんと身勝手なことされたというのに。
スヴェンはゆっくりと体を起こした。ライラの視界が開け天井が顔を覗かせる。ベッドに肘をつき同様に上半身を起こした。それを待っていたかのようにスヴェンは話を振る。
「今度、街に連れて行ってやる」
「本当!?」
立って自分を見下ろすスヴェンとの距離を縮めるように、勢い余ってライラも立ち上がりにじり寄る。
「ルディガーとセシリアが行く予定があるらしい。お前のことを話しておいた。ついでに連れて行ってもらえ」
「……スヴェンは、一緒じゃないの?」
「俺は別件で忙しい」
膨らんでいた気持ちが、急速に萎んだ。それを慌てて気持ちを切り替える。
街に連れて行ってもらえるだけでも喜ぶべきなのに、当然のようにスヴェンと行くつもりだった自分にライラは恥ずかしくなった。
ふと、しょげているライラをなだめるかのように頭に大きな手が置かれる。
「また今度、時間を作ってやる」
「……うん」
心地いい重みを感じながらライラは素直に頷いた。そのとき顔の横から落ちるライラの髪をスヴェンが指先ですくいあげそっと耳にかけてやる。
驚きで顔を上げようとするのと、唇が重ねられたのはほぼ同時だった。
「っな、なん」
不意打ちの口づけに狼狽えるライラにスヴェンは呆れた面持ちだ。
「お前は本当に鈍いな」
「アードラーのスヴェンにしてみれば、たいていの人間は鈍いでしょ!」
「そうかもな」
すかさず返したライラの言葉に、スヴェンはふっと気の抜けた笑みを浮かべた。仄暗い部屋の中でもその表情はライラの目に焼き付く。
明るくなくて残念のような、有り難いような。朱に染まる自分の頬を見られないですむのはよかった。こんな顔を見られたら、またからかわれてしまう。
それにしても――。
「スヴェンは、なんで急に私に……キス、したの?」
今までそんな素振りひとつ見せなかったのに、なにがきっかけでこうなってしまったのか。スヴェンの態度にライラは戸惑いが隠せない。
「さぁ? お前の理論でいえば俺たちは家族であり夫婦だからな。なにより結婚したんだ、お前は俺のものだろ」
「自分のものだったら好きにキスしていいの?」
急降下したライラの機嫌は声にも表れる。キスする理由として不適切だったのか、思わず“もの扱い”してしまったことに対してか。
スヴェンは一瞬言葉を迷い、観念したように告げた。
「可愛い妻に口づけてなにが悪い?」
束の間の静寂がふたりの間を流れ、ライラは溜めていたなにかを発散するかのごとく大袈裟に首を横に振った。
「えっ!? わ、私……」
「ほら、さっさと寝ろ。疲れているんだろ。なによりその格好でうろうろしていると風邪を引くぞ」
そこでライラは、いつのまにかローブを脱がされていたことに気づいた。薄い夜着一枚は肌寒く、なにより露出度が高い。
今は寒さよりも羞恥心で血が沸騰しそうに熱いのだが、さらに体温が上昇した気がした。
「お、おやすみなさい」
声にならない声を喉から絞り出し、隠れるようにして急いでベッドに潜り込んだ。
穴があったら入りたい。冷たい布の感触にライラは身を丸くする。
「ライラ」
しかし不意に名前を呼ばれ、体がびくりと震え意識がそちらに向いた。
「あの馬に関しては、正直持て余してたんだ。だから感謝してる」
ライラはなにも答えられなかった。ただ溢れ出そうな想いを抑えるために胸元でぎゅっと握り拳を作る。
スヴェンはいつも絶妙なタイミングでライラの気持ちを見透かしたような言葉をくれる。前は純粋に喜ぶだけだったのに、今はそうもいかなかった。
どうしてなのかはわからない。嬉しい気持ちと同時に切なさで胸が張り裂けそうになる。
優しくするのも、キスをしたのも、家族として、夫婦として、なにより妻として自分を見てくれているからなのだとしたら。
この関係は、そう長くはない。終わることも決まっている。
だから、なのかな?
暇つぶしでも、気まぐれでも、彼なりの配慮なのだとしても、どれも本物ではない。その事実にライラは体の奥が締めつけられるように痛んだ。
痛みも、痛みの原因さえも目を背けたくて、ライラは強く目をつむる。しかし心臓の音がやけに煩くてなかなか眠れそうもなかった。




