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05

 肩を抱いていた手がすっと離れ、触れられたところが空気に触れた。無意識にライラはその部分を手でさすると、どことなく熱が残っている気がした。


「俺はベッドは使わないからお前が使えばいい。休むなら早くしろ」


 ライラは今の状況に意識を向け直す。


「ですが」


「そういう話だっただろ」


 鬱陶しそうに言われ、ぐっと言葉を飲み込む。そもそもこの結婚は、ライラが夜をどう過ごすかという話だった。


 城に滞在中、夜間もずっとライラのために部屋の外に警護をつけるわけにもいかない。そうすれば人手もかかり、下手に注目を集め、憶測を呼び情報の漏えいにも繋がりかねない。


 とはいえ、アルント王国では婚姻関係のない男女が共に夜を過ごすことについて、一般的には推奨されていない。もちろん例外はあるのだが。


「バルシュハイト元帥はどうなさるんですか?」


「俺は元々あまり横にならない」


 別の角度から聞いてみるが素っ気なく返される。スヴェンがどうやって休むのか、ライはすぐに見当がついた。


「私がそちらのデュシェーズ・ブリゼを使わせてもらっては駄目ですか? 私なら横になれますし、十分な大きさなのですが」


 ライラはベッドの傍らに用意されている家具に目を遣った。ゆったりと座れそうなふたつの椅子の間には高さを揃えたオットマンが置いてある。


 あれらを組み合わせると長めのソファのようになり、足を伸ばして体を休める仕組みになっていた。


「あちらを俺が使う」


「そんな」


 ライラはスヴェンに視線を戻し、じっと見据える。不満の色を隠すことなく顔に滲ませていた。


「私の意思を聞いてくれるんじゃなかったんですか?」


「すべては叶えてやれないって言っただろ」


 呆気なく返され、ライラは開いた口が塞がらなかった。なんだか上手く言いくるめられただけのような気がする。


 結局、自分の立場を慮れば意見するのは諦めるしかないのか。そんな思いを抱いていると、続けてスヴェンから紡がれた言葉にライラの心は大きく揺れた。


「夫の言うことは素直に聞いておくものだろ」


 そこに込められた感情を推し量ることはできない。ただ、いつもの刺々しさや威圧さは感じられなかった。


「……よく言いますよ。妻を名前で呼ぶこともしないのに」


 だからライラは思い切って軽口を叩いてみる。平然を装って返したものの、心臓は早鐘を打ちだしていた。


 スヴェンから自分たちが夫婦であると意識するような発言が飛び出すとは思ってもみなかった。


 スヴェンはなにも答えることなく、まっすぐにライラに歩み寄ってくる。これにはライラも面食らい、つい身を固くする。


 近づいて来る男を視界に捉えたままでいると、自然と顔は上を向く形になった。パーソナルスペースをとっくに超えた距離までふたりの間は縮まり、さすがにライラがなにかを口にしようとする。


 しかし、それはスヴェンがライラをひょいっと荷物のように抱えあげたことで阻まれた。


「わっ」


 突然の浮遊感にライラは思わず声をあげた。スヴェンはたいして気にもせず、ライラを抱えたままベッドに近づいていく。


 おかげでライラの視界はころころと変わっていった。そして次の瞬間、ぼすんっという音と共にライラの体が背中からベッドに沈んだ。


 状況に頭がついていかず、スプリングが軋むのを音と体で感じる。さらにスヴェンがライラに覆いかぶさり影を作ったので、部屋の暗さも相まってライラの世界は狭められた。


 夫となった男が、なにをするわけでもなく漆黒の瞳で自分を見下ろしている。ライラはスヴェンから目を離せずにいると、彼の形のいい唇が前触れもなく動いた。


「ライラ」


 発せられた言葉に、ライラは両方の瞳を大きく見開く。スヴェンはさっとライラの上から身を起してベッドから下りた。


「ほら、言う通り名前で呼んでやっただろ。だから、お前もこちらの言うことをおとなしく聞け」


 ライラはなにも言えないまま、暴走する心臓を抑えようと左胸に当たるローブをぎゅっと掴んだ。息が詰まりそうに苦しい。


 こんなのずるい。


 不意打ちもいいところだ。甘さなんて微塵もない。それなのにスヴェンによって唱えられた自分の名前がいつまでも余韻を伴って頭の中でリフレインされる。


「さすがにローブは脱げよ」


「わかってますよ」


 スヴェンの言葉で身を起すと、ライラは覚束ない手つきでローブを脱ぎにかかる。なにもないとはいえ、異性を前にして、どうしても気恥ずかしさが拭えない。


 ところが「もたもたしていると脱がすぞ」と低い声で付け足され、無心で夜着一枚になり、身を隠すようにさっさとベッドに潜り込んだ。


 結局、私がベッドを使わせてもらっている。


 冷たいシーツの感触に思わず身震いする。右側を向けば自然と部屋の中を、スヴェンの方を向く形になり、ライラはどうも気まずく感じた。


 かといって、なにも言わずに背だけを向けるのもどうなのだろうかと迷う。


 伸ばした前髪が重力に従い、顔にかかって左目を隠す。無意識に掻き上げようとしたところで、その手を止めた。


「おい」


 ふいに声をかけられ、ライラは顔をわずかに動かす。スヴェンはデュシェーズ・ブリゼに乱暴に腰掛けていた。


「お前も他人行儀に俺の元帥呼びするのはやめろ。この結婚はあまり表沙汰にはしないつもりだが、それでもある程度は知れ渡る。幾人か声をかけてくる者もいるだろう」


「……はい」


「それから言ったように俺への敬語も気遣いもいらない。俺の前でくらいは猫を被らなくてもいいぞ」


「べつに被っているつもりは……」


 ライラは口を尖らせた。しかしスヴェンは皮肉的な笑みを浮かべる。


「よく言う。ずっと怯えた兎みたいだと思ったが、気の強い猫だったとはな」


 その言い分だと、どっちみち猫だという結論を指摘するべきか。たとえとはいえ人間扱いされていないことに意見すべきか。


 あれこれ考えて反論しそうになったライラだが、途中でやめる。孤児院を出てファーガンの屋敷に迎えられてからライラの心はずっと緊張状態だった。


 それはこれからもずっと続くのだと覚悟もしていた。


 慣れない城での暮らしに、さらには初対面の男と互いに愛も情もない義務だけで営む期間限定の結婚生活だ。けれど自分を「フューリエン」と特別扱いされるよりもよっぽどいい。


 冷たくても威圧的でも、それが彼の自然な姿ならかまわない。本音をぶつけてもいいと許してもらえるのは、今のライラにはとても有難かった。


「……うん、ありがとう」


 小さく答えて、ライラはしばし言いよどむ。そして先ほど彼が自分の名を呼んだのを思い出して、決意した。


「おやすみなさい、スヴェン」


 ぎこちなくも夫の名前を呼んでみる。これでおあいこ。きっと自分が名前を呼ばれたときに比べ、彼はなにひとつ心揺れたりはしないのだろうけれど。


 それでもライラの心は少しだけ温かいもので満たされた。返事はなかったが、久しぶりに安心した気持ちで目を閉じる。


 眠れないかもしれないと思っていたのに、ひんやりとしたベッドの中でライラはすぐに夢の世界へと足を踏み入れられた。

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