04
日が沈み、洋灯の中の蝋燭の火が柔らかい光を放ち廊下を照らしている。自分の宛がわれた部屋からさほど遠くない目的地へライラはひっそりとやってきた。
ゆるやかに城の中を闇が覆っている。
夕食と湯浴みを済ませ、ライラの髪はやや湿り気を帯びていた。用意された夜着は肩紐付きの膝下まである白いシルクタイプのもので肌に心地いい。
さすがにこの格好で部屋から出るのは躊躇われたので、頭も覆えるローブを羽織って出てきた。くすんだ赤茶の煉瓦色から修道士を彷彿とさせる。
誰に会うわけでもなく無事に辿りついたが、ライラは部屋の前で葛藤していた。思い切ってノックしてみようと思うのに、なかなか行動に移せない。
とはいえ、いつまでもこうしているわけにもいかない。意を決して手を上げると、叩く前にドアが開けられた。
顔を覗かせたのは部屋の主であるスヴェンで来訪者に驚きもせず、ライラを見下ろしている。団服ではなく、白いシャツに黒いズボンとラフな格好だった。
彼の髪もやや湿っているのを見ると、休息中だったのかもしれない。不意打ちを突かれたのは逆にライラの方だった。
「あの……」
「ドアの前で気配を感じたからな。なんの用だ?」
あっさり種明かしをされ、ライラは感心する前に決めていた言葉を告げようとした。
「昼間の件を改めて謝ろうと思ったんです。私……」
「謝らなくていい」
力強く遮られ、ライラの肩が反射的に震える。踵を返そうとしたところでスヴェンがそれを止めた。
「とにかく中に入れ」
予想を裏切る展開にライラはとっさの反応に困る。断る考えも一瞬、過ぎった。けれどすぐに打ち消して部屋の主に向き直る。
「失礼します」
ライラはスヴェンの自室に足を踏み入れた。その地位に見合うべく部屋は広さもあり立派な造りだった。ライラの使用している客室とは違い派手さはないが、やや大きめの本棚に来客対応も可能な机とソファが置かれている。
「適当に座れ」
「はい」
立ちすくんでいるライラを見かねてスヴェンが声をかけた。緊張しながらもライラはソファに浅く腰掛ける。
勢いで部屋に入ってしまったものの、なにを話せばいいのか。
「手は、大丈夫ですか?」
「たいしたことはない」
無難に選んで振った話題は、相手の隙のない返事で続きそうにもない。心臓がどくどくと打ちつけるのから意識をはずし、ライラはぎこちなくも言い訳めいたものを話し始めた。
「私、幼い頃に両親を病気で亡くしていて……。孤児院でも病はもちろん、ささいな怪我から感染症を起こして亡くなる仲間もいました。だから、病気や怪我にはつい過剰に反応してしまうんです」
孤児院にいる子どもたちでシスターの指示の元、薬草や野菜などを育てた。それを売ってお金にしたりもしたが生活はいつも綱渡りの状態で、当然体調を崩しても十分な医療行為も受けられない。
自分よりも幼い子どもが亡くなるのをライラは何度も目の当たりにしてきた。
ぽつぽつと事情を話したところで再び沈黙がふたりを包む。ライラが居た堪れなさを感じていると、意外にもスヴェンが口火を切った。
「昼間は悪かった」
前触れのないスヴェンの言葉にライラは思わず顔を上げた。スヴェンは机を挟み、ライラの前のソファにゆったりと座っている。視線が交わり、スヴェンは軽く息を吐いた。
「お前を物扱いするつもりはない。すべては叶えられないが、希望は口にしてみればいい。お前の意思もとりあえずは聞いてやる」
ぶっきらぼうな言い方だが、スヴェンなりの最大限の譲歩だった。ライラにもそれは伝わる。
「ありがとう、ございます」
「制約は多いが、少なくともあの男の家にいたときよりはマシに過ごせるだろ」
『あの男』というのが、メーヴェルクライス卿ファーガンを指しているのはすぐに察した。と、同時にライラの顔が曇る。
「……あの人は、どうなるんでしょうか?」
「さあな。お前の話から察するに、手の施しようのないほどに病に侵されているなら、そう長くはないだろ」
興味なさげにスヴェンが切り捨てる。続けて黙り込んだライラに訝し気に尋ねた。
「どうした? まさか最期までそばにいてやるつもりだったのか?」
皮肉交じりの問いかけにライラはかぶりを振った。
「私、怖かったんです。あの人のそばにいるのが。責められるのが怖くて……」
絞りだすような声だった。無意識に膝の上に置いてあった手がドレスの生地を掴み、皺が寄っていく。
「フューリエンなんて言われながら、私には特別な力なんてなにもない。そばにいてもあの人のためにできることは、ありません。弱っていく彼がそれをいつ悟るんだろうって、待っているようでずっと恐れていました」
ファーガンが天に召される瞬間、きっと自分に浴びせられるのは裏切られたという憎しみと悲しみだけだ。
罵詈雑言か、恨みを募らせた瞳で見つめられるのか。それとも自分の瞳が片眼異色ではなくなるのが先か。そんな想像をしては怯えていた。
ライラは哀しげに嘲笑った。
「だから、あなたが屋敷を訪れ部屋にやって来たとき、少しだけ安心したんです。この生活が終わるんだって。彼の最期を見なくても済むんだって。自分から逃げ出すこともできなかったのに……」
自分はたしかにフューリエンの血を引くのかもしれない。けれど中身は正反対だ。他人になにも有益なものをもたらすことができず、失望されるのに怯えてばかりで。
自己嫌悪で心臓が痛み、ライラは顔を歪める。
「でも、あの男は結果的にお前に救われたんだろ」
唐突に発せられたスヴェンの言葉にライラは大きく目を見張る。
「信じるフューリエンから直接、髪と加護の言葉を頂戴したんだ。それに縋って残りの人生を少なからずは心穏やかに過ごすせるんじゃないか」
スヴェンの視線は切りそろえられたライラの髪に向けられた。あそこで思いきった行動を取った彼女は、ファーガンの目には救世主そのものだっただろう。
腕を組んだまま背もたれに体を預け、スヴェンは軽く鼻を鳴らし、厭世的に続ける。
「いいんじゃかないか。どうせ皆いつかは死ぬ。なら最後まで覚めない夢を見させてやれば」
「……ありがとうございます」
どこか穏やかな顔をするライラとは対照的にスヴェンは理解不能といった様子で眉を寄せた。
「なぜ、礼を言う?」
「え、今のって私を慰めてくれたんじゃないですか?」
「そのつもりはない」
「そうですか。でも私は少なからずあなたの言葉に救われました。だから、ありがとうございます」
ふいっとライラから顔を背けたところでスヴェンがなにかに気づく。それと同時に部屋がノックされ、スヴェンは素早く立ち上がった。
「失礼します。っとライラさま、よかった。こちらにいらっしゃったんですね、探しましたよ」
スヴェンの返事と同時に扉が開けられ、顔を覗かせたのはマーシャだった。いつもより切羽詰まった顔をしていたが、中にライラがいたのを確認し普段は細い目がわずかに見開かれる。
「す、すみません。すぐに戻るつもりだったので」
マーシャに行き先を告げていなかったのを思い出し、ライラは悪いことがバレた子どものように慌てて立ち上がった。しかしマーシャはそれを軽く制す。
「なぜです? ご結婚されたんだからライラさまはこちらでお休みになられるんでしょう?」
「え?」
さも当然と返された言葉に、ライラの思考は停止して固まる。マーシャはライラからスヴェンに視線を移した。
「ライラさまから聞いていらっしゃるかもしれませんが、結婚宣誓書は無事に陛下からご署名を頂戴し受理されましたよ」
「そうか」
「ご結婚、おめでとうございます」
スヴェンの受け取り方はまるで他人事だった。とても自分の話とも思えない様子でマーシャからの報告を聞いている。
そして自分にも言われた台詞を同じくスヴェンに告げているマーシャに、ライラは口を挟もうと試みた。
「あの、私は」
そこでスヴェンの漆黒の瞳がライラを捉えた。鋭い眼差しは、言いかけたライラの言葉と共に息も呑ませる。
スヴェンはライラに近づくと、マーシャに見せつけるようになにげなく彼女の肩を抱いた。大きな手が肩に触れ、ライラの心臓は跳ね上がる。
「彼女はこちらで引き受ける。ご苦労だったな」
「いいえ。私が申し上げる前に、ライラさまがご自分でスヴェンさまの元にいらしていたこと、とても嬉しく思います」
「それは……」
昼間の件を改めて謝罪して、さっさと部屋に戻ろうと思っていたライラとしては、純粋に喜んでいるマーシャに今更、事情を告げるのはどうも心苦しい。
部屋に入るつもりもなければ、ここまで長居するつもりもなかったのに。
「では、朝の身支度はこちらに参りますね。日中は客室の方を使いましょうか。スヴェンさまも職務がありますでしょうし」
マーシャはこれからの段取りをてきぱきと進めていく。そして一通り明日の予定をすり合わせてからふたりに深々と頭を下げた。
「これで私は失礼します。今宵は初夜ですしね。どうぞ素敵な夜を」
ライラの心をかき乱すには十分なほどの爆弾をさらりと落としてマーシャは部屋を後にした。重く感じるほどの静寂が部屋を包む。




