六話 「最後まで手を握っていて」
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
海を目指して二人は荒れ果てた土地をひたすらに歩き続けていた。日に日にアイリスは弱っていくのが目に見えた。
遂には、隠しきれない程の吐血を繰り返すようになってしまっている。体は今まで以上にやせ細り、自力で歩く事すら難しい。
「ごめん……少し休もうか……」
そう言ってアイリスは地面に倒れこんだ。もう動けない、気力の問題ではなく体がもう動ける状態ではないのだ。食事もまともに取れない上に藁は元々体が弱く短命だった。
共通の症状として、吐血、貧血とそれに伴う眩暈や動悸。そして最後は体を動かす事さえ厳しくなり衰弱死していく。症状の進み具合はある程度の個人差はあれど最後は逃れられない死に追いつかれる。
「ごめんね、すぐ立つから……」
「馬鹿言えよ、もうそんなんじゃあ立てないだろ」
「大丈夫だから、行こう……?」
腕を振るわせながら体を起こそうとするアイリスをニゲラは止めた。
「行くに決まってんだろ、でもお前は無理しなくていい」
ニゲラは歩いた、歩いて歩いて海を目指す。足元の砂には一つ分の足跡しかついていない。
「重くない?」
背中のアイリスは自分の事よりも背負ってくれているニゲラを案じている。
「重えよ、黙って休んでろ。目ぇ覚めたら海についてるからよ」
「うん」
歩き続けるニゲラの上を火が飛んでいく、なぜかは分からないが以前見た時よりも憎らしく見えるのはなぜだろうか?
おかしい、歩くたびに足が重くなるのだ。体力は十分あり気力も尽きてはいない上そもそも死なないから体への負担など考えなくてもいい。なのに海に近づくほど一歩が重くなる。
ーーなんでだ? ちくしょう……軽くねえ……軽くねえぞ……!!
夜通し歩き続ける、朝が来ても、昼になっても歩き続ける。余計な事を考えないように歩を進める、アイリスの口数はだいぶ減った。もう吐血する事も無い、もしかしたら『吐く血』がもうないのかもしれない。
四度目の朝を迎えた時に二人は海岸に座っていた。あぐらをかいたニゲラの腕の中にアイリスは抱きかかえられている。二人でどこまでも続く海を眺める、海の彼方から太陽が顔を出した。
「綺麗だね」
「ああ……そうだな」
ニゲラは腕の中にいるアイリスの体温を感じていた、忘れないように、失くしてしまわないように。少しずつ体温が失われていくアイリスをニゲラは強く抱きしめる。そんな時不意にアイリスは彼の名を呼んだ。
「ニゲラ……」
「どうした?」
「今まで本当にありがとう……」
「おいおい、縁起でもねえ。やめてくれよ」
だが、アイリスはやめない。わずかに動く唇を動かす。
「私ね、ニゲラに会えて本当に良かった。ニゲラがいなかったら私は多分まだ闇の中にいた」
「やめろって」
「あなたが私にここから出たい? って聞いてくれた時ね……本当に嬉しかったんだ」
「やめろ」
「私にたくさんの景色を見せてくれて……色んな場所に連れて行ってくれて……本当に……」
「やめろって!!」
「ニゲラ?」
ニゲラは語気も荒くアイリスの言葉を遮る、聞いていられなかった、聞きたくなかった『最後の言葉』など。
「いい加減しろって、お前はまだまだこれからだろ!? 馬鹿みてぇに笑ってアホみたいに泣いて! どうせ死ぬんだったらなぁ! しわくちゃのババアになってから笑って死ねよ!そうじゃなきゃなぁ……報われねぇだろうがよ! お前の人生がなぁ!」
ニゲラは自分が最低だと自覚していた。アイリスと共にいる時間を重ねるたびに『暇つぶし』などと考えていた自分が許せなくなってきてしまった。
「……報われてるよ。ニゲラに出会った時からね……最後に笑って死ねるんだよ? 十分じゃん」
「馬鹿野郎……俺はなぁ……駄目なんだよ。お前がいなきゃ……俺を一人にしないでくれ……アイリス……お前は俺の希望なんだ」
「分かった……じゃあ一つお願いしてもいい?」
「ああ……いいぞ」
昇ってきた朝日が二人を照らし出す。不死者の男と短命の少女……両極にいるはずの二人は今この瞬間だけは同じ方向を向けている。
「名前を頂戴……アイリスだけじゃ寂しいから……アイリス・ヨーネンフェルクって名前いいでしょ? 前に読んだ本に載ってたの名前を分かち合えた相手とは家族になれるってずっと一緒だって……」
ニゲラはアイリスの小さな手を握った。ひんやりとした手を握っているはずなのに触れ合っている場所はなぜかとても温かい。
「ああ……最高だ。最高の名前だよ……だからずっと一緒だ」
「ねえニゲラ……」
「なんだよ?」
アイリスはニゲラを見て弱弱しく笑い、ゆっくりと手を見下らの頬に伸ばす。
「泣いてるの?」
「なっ……?」
ニゲラは自分が泣いていることに気づいていなかった。後から後から溢れる涙を拭う。
「ごめんね、もっと一緒にいたかった。色んな場所を見て見たかった」
「おい……!」
「ありがとう……大好き……それとね……手紙……よん……でね」
アイリスの手がするりと落ちた、落ちた手をニゲラはまた握りなおす。冷たい手にはもう温かさは残っていない。
「はあ~また一人か……まあ慣れてんだけどな」
ただじっと朝日をニゲラは一人で見つめている。何の感情もわかないのだ悲しみも悔しさも何一つ。
「さて……埋めてやんねえとな……」
ただ一人で穴を掘り、寝かせ、土をかけ、墓標の代わりの石を置いた。作業は二時間ほどで終了した。驚くほどあっさりと終わってしまい少し驚いた。
「……寂しいなあ!! ちくしょうが!!」
「なんも出来なかったなぁ……ってかさ……」
ーーどいつもこいつもよ泣いて謝るくらいなら……死ぬんじゃねえよ……。
アイリスの墓の前でニゲラはポケットに入っていた震えた字で書かれた手紙を一読すると再びポケットに乱暴に押し込んで歩き出す。
「じゃあ……行くとするかね」
--結局のとこさ……せっかくのハッピーエンドを手に入れても意味ねぇな……
砂に刻まれる足跡は一つだけ。