五話 「檻の中」
これはまだ、空から火が降ってこないときの話。文明がまだその形を残している時の話。不老不死がまだ夢だった時の話。
密閉されたカプセルのような容器の中で彼は目を覚ました。見ると自分の周りには白い服を着た連中が大勢いた。
やがて容器内を満たしていた謎の液体が抜かれ彼はふらふらのまま容器内から連れ出され、先ほどまで自分を囲んでいた連中の前に連れていかれた。そして無精髭を生やした男が大声を出した。
「我々は遂に創り出したのだ! 完璧な人間を人の手で! これから人を作り出すのは神では無い。我々だ!」
『おおおおおおお!』
その言葉に煽られ全員が歓声を上げる。その時の狂気にも似た歓声を彼は忘れることは無い。歓声を上げる人間の中にまともな目をしている者は一人もいなかった。
そこからの日々は『地獄』などと言った生ぬるい言葉では言い表せない苦痛を伴う物だった。彼の体は天の火が残す『残り火』が細胞を変化させることが分かっており『藁』もその過程で細胞が変化したものだとされている。そんな中で残り火を逆に作用させることに成功した。
弱い人間の藁とは逆の強い人間を作り出した。それが彼だ。すぐに白衣の彼らは『データ取り』に取り掛かった。
撃たれ、焼かれ、刺され、抉られ、裂かれ、切られ、ねじ切られ、窒息させられ、わけの分からない薬物も投与された。血を吐き出し、泡を吹き、自らの腹からこぼれた部品が怖いほど鮮やかな赤色をしているのを見た時は気が狂うかと思った。一番苦しい死に方は溺死だと思うから絶対にお勧めしない。
何の役にも立たない『死』を積み上げる日々を延々と過ごしていく。いっその事死んでしまえれば楽なのにこの体がそれを許さない。死ぬ事よりも辛い、命ある地獄の中に彼はいた。
それでもまだ、彼が『心』という擦り切れて今にも壊れそうな物を持ち続けられているのにはある人物が理由だった。
人間にとって、最もつらい事は孤独である事だ。身を引き裂かれるよりも暗い部屋で目を覚ましてしまったような孤独感こそが心身を破壊する。もっとも彼を人間と仮定するならではあるが。
そんな時『彼女』はある日突然現れた。
「こんにちは! 私はシオン、シオン・ヨーネンフェルク。よろしくね! あなたの名前は?」
黒い眼鏡をかけ、綺麗な黒髪は腰の少し上にまで伸びている。他の人間たちと同じような白衣を着ているがなぜか同じ生き物には見えない。ニコニコと笑う笑顔には曇りが無く、また何か薄汚い下心があるようにも感じられない。
「……名前はありません。ただ被検体3470(さんよんななまる)と呼ばれているので強いて言えばそれが名前です」
「3470かぁ……うーん味気ないなあ。よしもし良かったら私があなたに名前を付けてもいい?」
突然の提案に彼は戸惑いを禁じ得ない。何もかもが違う、違いすぎるのだ。だからこそ返事に戸惑ったがこの檻の中での暮らしが彼の体にある教えを刻み込んでいた。
ーーこの人たちに逆らってはいけない……
「分かりました、ぜひお願いします」
「ほんと!? やったあ! ありがとう!」
そう言って、彼の手を掴み飛び跳ねる彼女からは知性の欠片も感じられない。なのにどうしてか心が落ち着いていくような感覚に襲われていることに彼は気づいていたがこの時は大して気にしていなかった。
そこからの日々は不思議と心地よい物だった記憶がある。もちろん地獄のような実験は続いていたがそれ以上に彼女と過ごす毎日はたまらなく幸福だった。被験者であれどある程度の知識は必要だという事で教育係のシオンが招かれた。本来の目的は将来的に兵士として『彼』を使うとき何の知識も無くては役に立たないという理由だった。だが彼女は単純な知識だけでなく様々な事を彼に教えた。
世界について、人について、心について、生きる事について……どれもが彼女の持論のような物ばかりで科学的かつ論理的根拠は皆無に等しく、戯言だと片づけてしまえるような甘い理想ばかりだったがそんな彼女の話を聞くのが彼の何よりの楽しみだった。その話を聞いている間だけはどこか救われたような気分になれたから。
だが、この時に彼女が語った理想は結果として彼を長く強く苦しめる事となる。
それは、ある晴れた日の事だった。それには雲一つない青空が広がり心地よい風が頬を撫でるのが気持ちいい。研究所の敷地内ではあったが彼女は庭の隅で花を育てていた。
「ほらほらぁ! 綺麗でしょ!」
「まあまあかな」
彼女の差し出した青い花で名前はよく分からないがシオンはその花が大好きだった。青い花の横には白い花や黄色い花などが色とりどりに咲いている。
「えー? まあまあかぁー、こんなに綺麗なのに……」
そう言って口をとがらせ、花を見つめる彼女から彼は目が離せない。
ーー花よりもずっと綺麗だ
等と言えるはずもない。彼は彼女の事が好きになった、それは無理もない事だと言えるいつだって辛い時には支えてくれたのだ、彼女は実験の事や自分の体の事は何一つ聞かされていないと『奴ら』は言っていた。だからこそ何も知らずにいつもそばにいてくれたのだと思っていた。
彼はふと彼女が涙を流していることに気づく。いつも楽しそうに笑っていた彼女の泣いているところなど見た事が無い。
「どうしたの?」
「……ごめんね。ごめん……」
何を謝る事があるのか、こちらは感謝してもしきれない思いを抱えているというのに。
「私……実は全部知ってるんだ」
「……何を?」
そんな事は聞かなくても分かっている、彼女は全部知っていた。彼の体の事も実験の事も。
すべてを知っているのに、彼に対して甘い理想を吐き続けていた自分を彼女は激しく嫌悪していた。明るく振舞っているからと言って悩みがないわけではないのだ。
「私……最低だよね」
「そんなこと……」
彼が言葉を紡ごうとした時だ。けたたましい警報が鳴り響く。
「未確認飛翔物体接近! ここから東に二キロの地点に十秒後に落下します!」
十秒とはあっという間だ。爆発と熱線と飛んできた瓦礫に押しつぶされるのにそう時間はかからなかった。
「う……」
急速に再生を始める自らの体を恨めしくも少しありがたく感じながら、瓦礫から体を起こし彼女を探す。
研究所は瓦礫の山と化し、近くの町も消し飛ばされそこはさながら地獄だ。
「シオン! シオン!」
返事はない、瓦礫の隙間からうめき声と助けを求める小さな声が聞こえる。そのすべてを聞き流してでも彼は彼女を探した。
「良かった……無事だったんだね」
瓦礫に押しつぶされ額から夥しい量の血を流しながら彼女はそこにいた。
「俺なんかよりもシオンが! すぐに助け……」
彼の言葉を遮るようにシオンは首を横に振る。
「私の事は大丈夫、それより最後に聞いてくれる?」
「最後だなんて言わないでくれよ!」
「私は全部知ってたの、あなたの体の事もあなたが何をされてたのかもね……全部知っていたのに何もできなかった。ううん何もしなかったと言った方が正しいかもね」
「そんな自分が嫌であなたに希望だけを語ってしまった、自分を守るためだけにね……私は最低の人間よ」
「そんなこと無い! シオンがいたから僕は……僕は…」
彼の目から涙が溢れだす。自分の事を知っていようが知っていまいがそんな事は関係ない、ただ彼女の言葉が、存在が救いだったのだから。
「ありがとう……そうだ約束してたよね? 名前をあげるって」
「うん……」
「もらってくれる?」
「もちろん」
「ニゲラっていうのはどうかな? 私の一番好きな花の名前なんだ。こんな事じゃ私の罪は償えないけど」
それは彼女が好きだったあの青い花の名前だった。彼女は一番好きな物の名前を一番好きな彼に渡したのだ。
「そうだね……足りないよ」
「そう……だよね」
「だからもう一つもらうからね」
「え?」
「僕はニゲラ。ニゲラ・ヨーネンフェルク。シオンの名前を少しもらうから、これで十分だよ」
「ありがとう……ニゲラ……最後にもう一つだけ……生きてね」
「大丈夫だよ……僕は死なないから」
「そうだったね……ごめんね……もっと一緒に生きていたかった……な」
「お願い……私を忘れないで……私もあなたをわすれないから」
一筋の涙が頬を伝う、そこで彼女は息を引き取った。静かに静かに死んだ。世界はこうして死んでいくのかもしれないとニゲラは感じていた。
「忘れるわけないじゃんか……う……う……うわああああああああああああああああ!」
瓦礫の積み重なった墓標に誰にも届かない慟哭が響いた。
「これで俺の話は終わりだ。そっからはあっちこっち歩き回ったさ、そこでいろんなものを見た。色んな奴とも一緒に旅をしたよ。でもなあ何度も出会いと別れを繰り返すたびにシオンの言っていたのはあくまで理想だったってことも身に染みたよ」
その話をアイリスはただ黙って聞いていた。ただじっとランプの炎を見つめていた。
「な? つまんなかった……ろ……」
そこでニゲラの言葉は止まった。止めざるをえなかった。いつの間にかアイリスは声を押し殺して泣いている。分からなかった、ニゲラには彼には理解できなかった。
何故ならこれはあくまで『ニゲラ・ヨーネンフェルク』の物語だからだ。アイリスのには何の関係もない、人の話に涙するという事を彼は理解できない。
「おいおい、なんでお前が泣くんだよ」
「分かんない、わかんないけど。どうしてかな……涙がね……止まらないの」
ニゲラは泣いているアイリスの頭を撫でる。サラサラとした髪が指の間をすり抜けていくたびに胸が熱くなるのが分かる。
「……もう寝ろ」
「うん」
明かりを消して目を閉じる、彼はあの感情に覚えがあった。
--長い事忘れてたな……そうか俺……嬉しいんだ。
その日ニゲラはいつもより早く眠りについた。
アイリスはニゲラを起こさないように体を起こし、外に出る。周りを確認していると咳が口から漏れ出した。
「こほこほ……ごほっ……!」
口を押えていた手には赤い血がべっとりとついている。それを見てアイリスは口元の血を拭うと弱弱しく笑う。
「ニゲラ……疲れてるもんね……起こしたら悪いもん」
ふらつきながらゆっくりとニゲラのいる場所にアイリスは戻った。