三話 「名前」
彼は自分が生まれてきた時の事を忘れたことは無い。正確には忘れようとしているのだが忘れる事がいつまでも出来ずにいたのだ。何度忘れようとしてもダメなのだ、こすってもこすっても落ちないシミのように頭の中にこびりついている。
あの狂気にも似た歓声を。いいやあれは狂気そのものだった。誰も彼も狂っていた……はずだ。
少女は彼を見て怯えた目を隠すことが出来ないようだ。それもそのはずだ、目の前で人が撃たれる事すらかなりの衝撃なのに撃たれた人間があっさりと起き上がったとなれば彼女の短い一生数個分の衝撃だ。
「あんだよ? こええのか? ましょうがねえか」
彼は口元の血を拭い、地面に腰を下ろした。少女はようやく落ち着きを取り戻し、この奇妙かつ得体のしれない恩人に声をかけた。
「死な……ないの?」
「あ? ああ、この通りしっかり生きてるぜ、ついでに言うなら年も取らねえ」
「すごい……」
その言葉を青年は、鼻で笑った。まるで何もわかってないと少女を馬鹿にするような笑いだった。
「凄かねえさ、ろくなもんじゃねえぞ? 死ねねえってのも……ま、お前に言ったら嫌味になるな。わり」
その言葉に少女は頭を大きく横に振る。どうやら気にしなくていいという意思を伝えたいらしい。
「さて、お前の望んだように自由の身になったんだ。ここからどうしたい?」
「……分からない。死にたくないとも思ったしここから出たいとも思ったけど……これからどうすればいいのか分からない」
「あぁ? なんかやりたい事はねぇのか?」
そこから、頭を抱えて少女はうんうんとうなりながら悩みに悩みぬいた。彼が少しばかり退屈になってきた頃に何かを思い立ったように少女は顔を上げた。
「世界を見てみたい……かな」
「世界ねぇ……見ても楽しいもんなんかなんも無いと思うんだけどなぁ……」
「たくさん考えたんだけどそれしか思いつかなくて……」
そう呟いてうつむく少女を見ているとなんだか自分が悪いことをしたような気分に彼はなってしまった。
「まあいいさ、そんじゃあ行くとするか」
「連れてってくれるの?」
「構わねえさ、どうせ単なる暇つぶしだ」
彼にとって藁である少女と過ごす期間などこれから先の事を考えればまばたきをする間の暗闇くらい短いものだ。
--これは暇つぶしだ。こっから先のくそつまんねえ俺の人生のな。
彼はそんなどこか冷めたような感情を心の奥に潜ませていた。
「そうだ、お前の名前はなんて言うんだ?」
「名前? その……名前ないんだ」
「まじか……じゃあ俺がつけてやるよ」
「ほんと!?」
彼の言葉に少女の目が輝く、彼にとってはいちいち『お前』とか言うのがなんとも具合が悪かったから言った言葉なのだが、少女の喜びようを見ているとそんな事言えるはずも無かった。
「そうだなぁ……アイリスってのはどうだ」
「アイリス? どういう意味?」
「なんだったかな? どこかで聞いた言葉でなぁ……思い出せねえけどな、まあ大事なのは語感だよ語感」
「ふーん……それじゃあ、あなたの名前は?」
「俺? あーっと……ニゲラってんだ。ニゲラ・ヨーネンフェルク」
ニゲラは最後に名前を聞かれたのがあまりに遠い過去の事だったので危うく自分の名前を忘れてしまいそうになっていた。といっても彼はこの『ニゲラ・ヨーネンフェルク』が自分の名前だという事に確信を持てない、確かに誰かが言った言葉なのだろうがその事を思い出そうとしても頭の中に靄がかかっているかのようにはっきりしない。
「いい名前だね」
「ん?」
「凄く好き、『ごかん』いいね」
ニゲラは自分の名前を褒められた事など無い、それに今のように褒められたとしても大して嬉しくは無いが覚えたての言葉をあどけなく使って名前を褒めてくれたアイリスの心遣いは少しうれしかった。アイリスの頭をぽんぽんと撫でる。
「ありがとよ」
「う……ん」
アイリスはうつむいて消えるような声で答えた。顔はよく見えないが少し頬が赤らんでいるのが伺えた、ニゲラはそれも仕方ないと思えた、たった数時間で人生が大きく変わったのだ。疲れが出ても仕方ないと。
そんな二人の頭上を火が駆け抜けていく。通った場所に白い尾を残して、あても無くただただ無差別にどこかに飛んでいく。
「あれは何?」
「あれか? 昔にいた臆病者たちが生み出しちまったこの世界でくその役にも立たなかった物のなれの果てだ」
「そんなものがどうして作られたの?」
「さあなぁ……人が人である事をやめたからじゃないか? さ、もう行くぞ」
そう言って歩き出したニゲラの後をアイリスは小走りで追いかけた。